▼ 朽縄てる美(1/2)
「こんにちは、×××××ちゃん」
生徒会室を訪れる度にそう挨拶をするカガリ先輩のことが、わたしは嫌いだった。
今のわたしには臥炎キョウヤ様がつけてくれた名前が、朽縄てる美という名前がある。
×××××という名前は、わたしの忌まわしい過去を呼び起こす。だからその名前で呼ばれることがなによりいやだった。
「その名前で呼ばないでください。わたしの名前は朽縄てる美です」
わたしがそう言っても、カガリ先輩は聞く耳を持たなかった。
生徒会室を訪れて、わたしと会う度に、捨てた名字にちゃん付けをして呼び続ける。
しばらくそんなやり取りが続いた、ある日のことだった。
「なんで、その名前で呼ぶんですか」
聞き分けの悪いカガリ先輩に対してしびれを切らし、うっかりそんな質問を投げかけてしまった。
ティーカップを持って紅茶を飲もうとしていたカガリ先輩はその手を止め、目を丸くした。
そうして困ったように笑うのだった。
「名前を捨ててしまったら、迷子になってしまうからだよ」
「……迷子?」
「自分の本当の名前を忘れると、自分が誰だったか忘れてしまう。その名前だった時に親しかった人の名前だって忘れてしまう。だから、本当の名前は捨てるべきじゃない。そう思ったからわたしは×××××ちゃんのことを、×××××ちゃんと呼び続けるんだ」
「……わたしは、忘れてしまっても構わないです。あの頃に戻るよりは、ずっとマシなんです。皆わたしのことが居ないみたいに振る舞って……空気になるのは、透明になるのはもう嫌」
「……×××××ちゃん」
ティーカップをテーブルに置き、わたしへ伸ばそうとしたカガリ先輩の手を払いのけた。
わたしは目に涙を浮かべ、カガリ先輩のことを睨みつける。
「わたしは、祠堂会長とは違います。わたしには、卒業生である貴女の助けなんか必要ない」
わたしの言葉に先輩は目を見開き、固まった。
二人きりの生徒会室に、重々しい沈黙が降りる。
「……そうか。きみがそこまで言うのなら、仕方がないね」
カガリ先輩は僅かに視線を落とし、溜め息を吐く。
そうして次に顔を上げた時、カガリ先輩はまるで愛おしいものをみるように、微笑んだ。
わたしは、息を飲んだ。
それが今まで見た中で一番綺麗な笑顔だったからだ。けれど、その笑顔はカガリ先輩の次の一言によってかき消されることになる。
「私は、きみを助けないよ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
急に、呼吸が苦しくなった気がした。
自分の胸に手を当て、視線を落とす。
鼓動に異常はなかった。
なのに、何故こんなにも苦しいのだろう。
落ち着いて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。それを繰り返すうちに徐々に呼吸が楽になった。
良かった、と思いながらようやく顔を上げると、いつの間にかソファに座っていたはずの先輩の姿がなくなっていた。
やっと、いなくなった。
本当にしつこい先輩だった。
たまに生徒会室に現れて、わたしにちょっかいを出す。そんな先輩は、もう二度とわたしの前に現れないはずだ。
なんて、清々しい気分だろう。
わたしは紅茶の残されたティーカップを持ち、簡易の台所へと向かう。それを簡易台所で洗っていたおり、ふとある疑問が浮かんだ。
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