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宵は更けゆく


 煌々と輝く月が闇夜を斬り裂き、微睡む木々を照らし出す。眠りを妨げられた山が不満げに葉や枝を震わせ、透き通った空気をざわつかせる。呼応するように虫たちが音を奏で出した。
 月下に揺らめく秋の夜長。透き通った夜を見つめながら、三日月宗近は透明な液体を喉奥へ滑らせた。
「よきかなよきかな」
「風邪ひいても知らねぇぞ」
 仰いだ酒の苦みに浸っていた三日月の鼓膜を、慣れ親しんだ男の声が震わせた。見れば三白眼の目が冷たい瓦の上で頬杖をつき、呆れを隠すことなく憮然とした表情を浮かべている。
 予想していなかった青年の登場。驚きが胸の内に広がるが、外へと露見することはなかった。代わりのように三日月はふんわりと頬を緩ませる。まっすぐに向けられる黄金の瞳が訝しげな色を孕んだ。
「同田貫、そなたも抜けてきたのか?」
「結果的にはそうなるな」
 ぐっと腕に力を込め、細くも硬い木枠を蹴る。幅のないはしごの段から屋根瓦へと危なげなく飛び移った同田貫正国を、三日月は不思議そうに見上げる。彼の口からはわざとらしい溜め息がこぼれた。
「あんたな、抜けるんなら一言くらい声をかけろ。いきなりいなくなったら気になるだろうが」
 ガリガリと後頭部を掻きながら苦言を呈する同田貫に天色の双眸がぱちりと瞬く。手元――正しくは腰を下ろしている本殿の屋根の、その向こう。酒宴が続いている大広間へと目線を移した。
 珍しく現代へと出向いていた審神者が持ち帰った大量の酒に、次郎太刀発端の大規模な飲み会が開催されたのは自然の摂理というものだろう。仕事を理由に不参加である主が直々に許可を出したとなれば、止められる者はいない。普段は生真面目な性格故に羽目を外さない刀剣男士も、場の雰囲気に飲まれ盛り上がっている。静かな秋の夜長に漏れ出すどんちゃん騒ぎに、いまだ収束の気配はない。
 理性の欠けた集団の中では潰れた者は放置され、運よく抜け出すことができた者はそのまま帰ってくることはない。誰がいなくなったかなど、把握できるはずもない。喧噪に紛れて音もなく退場した三日月もそれを疑っていなかった、のだが。
「よく気が付いたなぁ」
 純粋な感心だった。まさに混沌と言えるあの空間で、同田貫も多量の酒を口にしていた。まあ生まれた土地の影響か、彼は笊と言えるほど酒には強いが。それでも酒宴が始まってすでに一刻は経つ。さすがに酔いも回っていただろう。たった一人が部屋から出たという状況に気が付くとは思わなかった。
 口元を狩衣の袖で隠しながら微笑む三日月を見下ろし、同田貫は大仰に肩を竦める。眩し過ぎる月明かりに照らされたその顔が怒りとは違う感情によって歪んでいるように見え、またひとつ瞬きが落ちる。こちらを見下ろす双眸の月に影が差した。
「いくらなんでも隣にいた奴が消えたら気付くっての」
 眉間に深いしわを刻みながら吐き捨てられた言葉は固い響きを宿していて、先の変化が気のせいなどではなかったことを悟る。同時に原因とそれによる同田貫の内情を推測する。所要時間はおそらく一秒ほど。
 ふむ、と内心で頷く。推測が正しいのならば、己の不用意な一言が同田貫の秩序に傷をつけたということだろう。誰よりも刀であることに誇りを持つ彼ならば、宴の場であろうとも酒に飲まれることは良しとしないだろう。ましてや状況を把握できなくなるほど我を失うわけがない。なるほど、確かに先の言葉は早計な一言だった。
「すまなんだ」
 渡す言はひとつだけ。事の経緯も弁解もなく、ただ無断の逃避と失言の謝意を伝えるだけ。言葉足らずだというのは自覚している。同田貫以外には絶対に伝わりきらないだろうとも。だが、彼は違う。
「……ああ」
 案の定、同田貫は大きく嘆息を零すだけで、それ以上は何も口にしなかった。本丸内では滅多に変わることのない表情で、その裏で簡単に傷を付けた己の弱い心を悔やみながら、彼はただ頷くだけ。明らかに非はこちらにあるのだが、それでも同田貫は自身を叱責する。それを止める権利は三日月には、ない。
 だから一度だけ、素直に謝罪を告げる。事実、それしかできないのだから。
「で、なんだってこんな所にいんだよ」
「うむ、月があまりに美しくてな」
「それで一人寂しく月見酒かよ」
「はっはっは、そう言ってくれるな」
 交わされる軽口はもはや普段通りのもので、己が付けたひっかき傷を同田貫が早々に乗り越えてしまったことを悟る。もしくは滲んだ血が固まり、かさぶたとなり掛けているのかもしれない。確かなのは、三日月の簡単な謝罪を受けた同田貫の中で、先ほどの失言は『過去』としてすでに処理されたということだ。
 飾るのが嫌いなこの男は、言葉ではなく心を見る。心が見えたらそこで終わり、それ以上を求めない。それだけでいいと思っているのだ。それが良いのか悪いのか、三日月にはわからない。
 言ってしまえば単純な彼の本質が心地よくて、少しだけ悲しくて――羨ましかった。
 己を見下ろしていた黄金がすとんと落ちる。荒々しくも無駄のない所作で隣に腰を下ろした同田貫は大きく開いた内番服の合わせに手を突っ込み、ごそごそと何やらを探っている。唐突なその行動に目を白黒させながら、三日月はただその姿を見ているしかない。
 やがて目当てのものを見つけたのか、何かを握った手が眼前に突き出される。些か近過ぎたそれを目視しようと焦点を合わせた。
「付き合ってやるよ」
 懐から取り出された猪口と栓の抜かれていない酒器。ちゃぷんと鳴る水音が存在を主張する。まだ空けられていないものがあったことに驚いた。眼前に掲げられたそれと、その向こうで微かに頬を緩める男を見遣って。こちらもまた、笑みがこぼれた。
「それはありがたい」
 残っていた液体を飲み干し、空けた己の猪口を差し出す。注がれた新しい酒の匂いが鼻腔を刺激して、目頭が熱くなった。
 飾るのが嫌いなこの男は、言葉ではなく心を見る。それだけでいいと思っている。だからだろうか、与えられたこの心に微かな陰りが差した時。誰よりも早く、自分よりも早くそれを見つけてくれるのは同田貫だった。心の在り方を教えてくれたのも、また彼だった。三日月よりも戦場を知っていて、三日月が心の奥底で求め続けていた刃生を送ってきた刀だった。憧れて、追いかけて、少しでも知りたくて。その果てに貰った、彼の『相棒』の名。
 ――自惚れてもいいのだろうか。背中合わせの刃生を歩んできたこの男の剛い心に。誰よりも近くにいるのは、自分であると。それを望んでいいのだと。
 終わらない自問自答。答えを持っていない三日月だが、それで良い気もした。今はまだ、答えを求める時じゃない。いつかは終わる時であってもだ。
 今はまだ、このままで。
 かちりと小さく合わせたお互いの杯。煽った液体は冷たいはずなのに、確かな熱を持って腹の奥へと滑り落ちる。見上げれば深い闇を裂くほどに明るい、真円の黄金。堂々としたその存在は隣に座る男の力強い双眸を思わせた。自然と口元が笑う。
 やはり、月は満月に限る。
 言葉は交わさず、ただ互いの存在を並べた肩越しに感じるのみ。天上には宵に浮かぶ至高の月、隣には静かに杯を傾ける名のない双月。くつりと漏れた微笑に、相棒たる男が目線だけで笑った。
「ご機嫌かよ」
「うむ」
 
 傾斜のついた屋根は冷たく、吹く秋風を遮るものもない。冷たいはずのそれは心地よく、静寂の空間には余りにも優しい。
「贅沢な月見だ」
 宵の更けゆく満月の下。飲み込んだ酒が胸の奥を熱くした。







終.
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傷を越え 痛みを越え やがて終わりを迎えても
君の隣に 立ちたい




拍手ありがとうございました。






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