花雪シンフォニア | ナノ

「・・・うん、まだ微熱が残ってるけど昨日よりは大分マシかな。
だけどもう一日安静しておく事!
治りかけでも油断禁物だからね」
「はい・・・有難う御座います」


目の前にはあの時の白衣の男。
恐らく医者だろうと思われた男が再び自分の前にいる。
そして現在、トキヤはその男―――岸谷新羅に診断を受けていたのだが。


(・・・何故こんな事になったんでしたっけ・・・?)


トキヤは倦怠感が残る思考の中、ゆっくりと記憶を遡らせてみたものの、突然音も無く差し出されたコップにそれは虚しく霧散した。


「水、飲みますか?」

美麗な顔に疑問符を浮かべるトキヤに対し、コップを差し出した栞は静かに尋ねかける―――但し気を遣っている台詞とは裏腹にその表情はロボットみたいだったのは言わずもがな。


「・・・あ、りがとう御座います」
「・・・(コクリ)」

今にも毒殺されるといったような雰囲気に呑まれそうになりつつもトキヤはそれを静かに受け取り、そっと口に水を流し込む。
風邪をひいている事で喉にも炎症が起こっているのであろう、発声する際痛みが走ったがトキヤは表情に出さないようにした。


「全く昨日は急患が二件も来たから途中で抜け出しちゃったけど大丈夫だった?
彼と何も無かったかい?」
「っごふ!」
「・・・・・・昨日に引き続き今日もわざわざ、本当に有難う御座いました」

新羅の意味深な発言に思春期真っ只中なトキヤは不意打ちも加えて思い切り動揺した。
が、現在進行形で咽せているトキヤを栞は敢えて黙殺し、新羅の台詞も聞かなかった事にしたのかお礼を返した。


・・・何故、彼女はこんなにも平常心でいられるのでしょうか・・・。


トキヤは心底栞が羨ましくなった。
自分もこれだけの冷静さがあればあの赤いルームメイトに振り回されなくて済むだろうに。

・・・・・・話が逸れた。


「(あれ無視?ていうか相変わらず読めないなぁ・・・)
・・・いやいや寧ろなんていうか凄い役得だったよ。
同性とは言え、芸能人の顔をこんなに間近で見られるなんて。
あ、でもちょっと手元が狂ってうっかり違う診断をしそうになったよ、セルティがHAYATOのファンでね!
嫉妬のあまり僕狂いそうだったなあはは」
「・・・そうですか」


とても「そうですか」の一言で済まされない言葉の単語が幾つか出てきていたような気がするが、トキヤは敢えて深く考えなかった。
風邪の所為で其処までの体力が無かったという事と新羅の眼鏡の奥にある剣呑な光を宿した双眸を見てしまった事が最大の理由である。
しかしトキヤにとって一つ気になる点があったので、決して平和とは言えない空気の中を敢えて割って入った。


「・・・お話中すみません」
「ん?」
「・・・」


この時点でトキヤはHAYATOを演じる事は最早放棄していた。
嘗て面識のある彼女にそうしても意味は無いし、無駄に体力が削られるだけだと判断した為だ。


「見たところ貴方は医者の様ですが・・・診察料は、」
「診察料?」


先程の剣呑な光が潜み、代わりに今度は予想外の単語を聞いたと言うような、何処か間の抜けた声が部屋に響く。


「診察料なんていらないよ」
「そういう訳には・・・!」
「否でも君を診たのは彼女からの依頼だしね・・・嗚呼じゃあこうしようか」


彼女。
それは羽島幽を指しているのだろう。
まさかもう既に彼女が支払っているのか。

トキヤの不安を他所に新羅としては自分が闇医者である事と、静雄の実妹からの依頼という時点で請求する気は毛頭無かった。


「・・・?」
「あ、でも一応確認しておこうか。
君はHAYATOで間違い無いよね?」
「・・・そ、うですが」


一瞬強ばったトキヤに気付いたが新羅は黙殺した。
一方の栞もそれに気付いていたものの今は傍観に徹している為、敢えて指摘しなかった。


「栞ちゃんには依頼料として、HAYATO君には診察料として俺と同居人に一枚ずつサインを貰うっていうのは?」

「・・・え?」
「・・・構いませんが」

新羅はこの時、彼女の本名を言っていたのだがトキヤはそれに気付かず新羅の台詞に「それで良いのか」と思わず確認したのだった。



  ♂♀



そんなこんなで上手く丸め込まれた気がしなくもないトキヤは差し出された色紙に徐にサインを書き始める。
本来なら絶対拒否するところだが今回は別だ。
というより了承しない方が可笑しい。
・・・否それより本当にこんなサイン色紙二枚で良いのだろうか。
ああでも羽島さんの分もあるし、あの医者の中では釣り合いが取れているという風に解釈したら良いのか。
これまでの会話から彼女と彼は親しい間柄、のようだし・・・?


(・・・あれ、)


トキヤは此処で首を傾げた。
そういえばあの二人はどういう関係なのだろうか。
昨夜もこの部屋に来ていて自分と会っているが生憎どんな会話をしていたのか朧気ではっきりと思い出せない。
医者の方は同居人、という言葉に加えセルティ(この名前から考えるに恐らく女性)という人を好いているという事が伺える。
彼女達は男女の関係でないのだろうが・・・。


此処までトキヤが思考した時。
トキヤの足元に僅かな重みが加わった事で思考が一時中断した。


「・・・え?」


視線をズラすと其処には一匹の仔猫が自分の足の上によじ登っている。


「・・・」


トキヤは仔猫を退けようとしたが布団の上に乗っているその仔猫を見て、あまりの愛くるしさにその手が止まる。
両耳がペコリと前に折れた、まだ成長しきっていないスコティッシュフォールド。

それ、は。
トキヤが少し前に見た、ある雑誌の特集―――羽島幽が飼っているという仔猫と同じ姿だった。


あまりの可愛らしさに現在の悩みも忘れかける一人のアイドル。
だが、サインを書き終わった彼女が徐に横から手を伸ばし、ヒョイと仔猫を抱え上げた。


「ほら、駄目だよ独尊丸。病人によじ登ったら」
「・・・独尊丸って」
「唯我独尊丸って言うんです。
可愛いでしょう」


真顔でそっと仔猫を差し出してくる栞に新羅は顔を引きつらせながら身を引いた。


「・・・・・・そういう時は笑いながら差し出してこようよ。
(顔が整っているから余計に)怖い」
「?・・・笑っていますが」


これでもかと言う程に無表情の栞に諦めたように新羅は首を振る。
一方のトキヤは彼女のネーミングセンスに茫然としている。

「・・・親父が見たら多分君を解剖したがるよ」

そう呟いた新羅の台詞はトキヤと栞に届く事無く部屋の空気に霧散したのだった。

  彼は未だ真実を知らぬまま

今回は新羅とトキヤと主人公のターン!
次あたりでトキヤと主人公が本格的に絡む予定。
本編で絡むのは第3章以来なので気合入れて書きます!

20130530