花雪シンフォニア | ナノ

気が狂いそうだった。
心が、少しずつ崩壊する音が聞こえる。

仕事をプライベートにまで持ち込まれ、段々『自分』が、『一ノ瀬トキヤ』が侵蝕されていく感覚。


このまま、誰にも理解されないで終わっていくような気がした。
そんな時、彼女と出逢った。



「・・・・・・・・・こんにちは」


俯いていた自分に掛けられただろう、透き通った声に思わず顔を上げてしまった。
―――それが、始まり。
止まってしまった彼の歩みが、時間が、再び動き出した瞬間だった。





彼の名前は一ノ瀬トキヤ。
芸名はHAYATO。
今年デビューした新人アイドル。今年で16歳になる。
整った顔立ちと歌唱力、切れのあるダンス、そしてどんな過酷な状況であろうと常に笑顔を絶やさないアイドル。

これが世間一般の認識なのだが本来の彼は殆ど真逆の性格である。
そして、トキヤが演じるHAYATOが原因で彼は現在、精神が崩壊する寸前であった。

今にも消えてしまいそうな彼を繋ぎ止めたのは、後にチャンスを与えるシャイニング早乙女だと本人達から話を聞いた人間はそう思うだろうが、本当は違う。
というより、トキヤが誰にも彼女との出逢いを話さなかったのだから、この勘違いは仕方のなかったことと言える。




だからこれは、シャイニング早乙女も知らない、トキヤと彼女しか知らない物語。

彼と話した彼女も彼を繋ぎ止めた、とは夢にも思っていないだろう、会話の断片―――



  ♂♀



「・・・・・・・・・・・・」

いきなり挨拶をされ、反射的に顔を上げたまでは良い。
その声の持ち主を見た瞬間、思わず凍りついた。
きっと今、自分の顔は間抜けに映っているに違いない。

後にそう思ってしまう位―――私は彼女に見惚れていた。

彼女は確かに女性だが、女装した男性と言われれば思わず納得してしまいそうな位の中性的な美貌は『美人』と言う言葉を具現化させたようなもので。
腰まで伸ばされたストレートの黒髪はよく手入れされているのか全く傷んでいる様には見えない。
見たところ彼女は自分よりも幾つか年上だ。
20歳前後の若者なら、髪を染めたりする事が多いが彼女は一切染めていないようだ。
瞳の色は髪と同色の漆黒で、何の感情も映し出されていないように見える。

まるで日本人形、大和撫子―――そんな言葉を連想させるような女性。

トキヤはアイドルという仕事柄、美女は見慣れているつもりだったが今日、今この瞬間をもってその認識を改めなければならないと感じた。
しかもよく見れば、そんなにメイクをしていないようにも見える。
という事はノーメイクでこの美女ぶりなのか。

「・・・・・・・・・」

トキヤは嘗てない位動揺した。混乱した。狼狽した。
通常の自分では信じられない位―――今の状況に着いていけない。
しかし、それでも彼は一つの事に気付いていた。

彼女の表情から一切の感情が読み取れないということに。
まるで精巧に、精工に、精密に作られた人形のようだと。

そう思った瞬間、黒髪の美女――栞が少しだけ首を傾げる。
次いで肩から滑り落ちた髪が小さく音を立てる。
その音にパチリ、と夢から覚めたような感覚がトキヤを襲った。



今まで忘れていた声を出す。
もしかしたら声が出なくなってしまったのでは、と不安になったが決して表情には出さない。
事務所の命令通り、本来の自分ではない、イツワリのキャラクターの高さの声を出した。

「っ何かよ、」

口から出た声は何処か震えていたことに気付き、自分で自分に愕然とした。
こんなにも自分が弱い人間だとは思わなかった。
そして、自分がこんなにも震える訳は。
もし。もしも。彼女も他の人たちと同じようにHAYATOのことを求められたら。



私は・・・『私』は。

そんなトキヤの心情に気付いたのか気付かなかったのか。
栞はトキヤの心の奥底の願い通りの言葉を放った。
だがそれは、トキヤの願いそのものの言葉であったのだが、其れと同時に彼のプライドにも似た物が邪魔をし、HAYATOで思わず返してしまった。

「別に演技しなくて良いよ。
・・・私が用あるのは"貴方"だから」
「・・・え?」
「・・・否、具体的に言えば用があるとかじゃなくて・・・うん、貴方のその空気って言うのかな、それが気になった」
「っ何言ってるのかにゃ?」
「だから、其れはもう良いよ」

・・・驚きました。
まさか本当にそんなことを言われるとは思いませんでしたから。
・・・だから本来の『私』・・・『一ノ瀬トキヤ』で返すことにしました。
今は人がいませんし、私にとっては好都合でしたし。


「・・・・・・本当にそう思っているのか、甚だ疑問なんですが」


まるでガラス玉の様な黒曜石の双眸で彼女はただ静かに私を見つめる。
「気になった」という思いがどうしても感じられません。
そう思って言葉を返すと彼女からの返事はただ一言「よく言われる」でした。

・・・・・・言葉が少なすぎる。
寡黙な人もいますし物静かな人もいます。
勿論あまり感情を表に出さない人も。
私もどちらかと言えば此方側ですが彼女の場合、その最たる人物。極端に少ない。
たった一言二言しか話していないのにも関わらず問答無用でその印象を植え付けられたかのような。


「・・・物凄く悩んでるというか落ち込んでいるというか。
そんな空気を出していたから声をかけてみただけ。
話を聞くだけならタダだし。
・・・・・・案外、名前も知らない人間に話すというのも一つの手だよ」
「・・・・・・貴女に話をして何が変わるとも思えませんが」
「そうかもしれないね。
だけど今の状況を変える為のアドバイスを与える位は出来るんじゃないかな」

・・・先程の考えは撤回した方が良さそうです。
案外存外、彼女は思いの外話します。
・・・感情があまり感じられない、抑揚のない話し方ですが。

しかし彼女も大概のお人好しです。
私のような人間に声をかける位なのですから。
ですが私の悩みは他の人間に話してはいけないモノ。
だから私にとっては有難い申し出でも彼女には申し訳ないですが・・・。



此処でトキヤはふと思い立った。


―――私の、悩み。
キャラクターが一人歩きするこの状況で、マネージャーも社長も誰一人『私』を見てくれなくなっているという事実。

無言になる私を他所に彼女は珈琲を片手にマイペースに「隣に座る」と言い放ちました。
私は無言でしたが其れを肯定と受け取ったのか、まるで何処かの令嬢のように優雅に座る姿は本当に絵になる、としか言いようがありませんでした。

そして音もなく、つい、と顔を此方に向ける。

・・・・・・いい加減にその暗い顔を何とかしろ、と怒られるのでしょうか。
というより先程も思いましたが見ず知らずの人間に話す内容ではないと断言出来ます。
私はどんなに否定したくてもHAYATOで、そのHAYATOを演じるのはとても辛くて苦しい、等と言えばどうなるか。
彼女がどんな人間なのか分からないが、最悪の場合マスコミにバレる可能性だってあります。

・・・ですが。
短時間ではありますが彼女はそんな人間ではないと、そんなことをしない人間だと思う私も、いて。
彼女に話せば、何かが変わるような。
そんな感じがしたから、話してみる事にした。


「どうしたら、良いんでしょうか」


このとき、何故彼女に今の気持ちを全部吐き出そうと思ったのか、疑問に思わない私がいたことに気付かなかった。

  始まりは絶望の中、

宣言通り前半が主人公視点だったので今度はトキヤ視点のお話。
なので本当は三話というのは正しくないかもしれない。
そしてトキヤ視点なので、名前変換が少ない少ない。次の話も少ないと断言出来ます。

『花雪』で初めて主人公のことを無口ではないと思ったトキヤ。
ここら辺がちょっと特別。・・・少し違う意味ですが。

20120321