週の終わりはいつも、浴槽に湯を張ることにしている。
 シャワーだけでは体の芯まであたたまらない。休日の前にはたっぷりの湯に肩まで浸かるのが何よりの楽しみだ。
 美しく磨かれた白い浴槽に、惜しげもなくどぼどぼと湯を注ぎ、禊のように桶で掬った湯を体に掛けて準備をする。
 湯気がもうもうと立つヴェールの向こう側に、身を投じる。大地に足を投げ出した巨人のように息を吐くと、湯が浴槽の縁から滝のように溢れた。
 霞がのぼっていく染みひとつ無い天井をぼうっと眺める。窓の外では雨がなかなか強く降り続いている。
 目を閉じると、雨の音が湿気に満ちた室内に流れ込んでくる。まるで雨の中にいるみたいだ。ぬるい雫が熱い湯に溶けていく。
 雨の降る楽園の海に顔を沈める。ブクブクと泡を吐くと、水面を漂うクジラの気分だ。楽しくて水の中で歌をうたう。泡が次々生み出される。
 息を止めても泡は増え続ける。いつからここはジャグジー付きになったんだ? もがいているうちに湯船は沸騰した鍋のようになり、全身が泡の中に飲み込まれた。

 穴に落ちたアリスよろしく、湯の中をゆるゆると下降していく。水の中なのに雨が降っていると肌で直感した。目を開けると、黄金色(こがねいろ)にも浅葱色(あさぎいろ)にも見える透明な空間を、細かな泡がいくつものぼっていくのが見えた。炭酸水みたいだな、と思った。
 しかし非現実的な光景の美しさを楽しむ余裕はなかった。肺が空気を求めている。いくら夢の中みたいだからって、水の中で呼吸ができる保証はない。
 もう限界だ、と諦めようとした時、風呂の栓が抜けたような音がしたかと思うと、螺旋を描いて地面に落ちた。
 ものすごく広い、遊園地ほどもある健康ランドのような空間が広がっていた。あちこちに湯気の上がる小さい池が点在し、たくさんの人がめいめいに体を洗ったり水に浸かったりなどしている。ここは公衆浴場らしかった。
 人々の行き交うスクランブル交差点のような場のただ中で、びしょぬれの裸でいることが急に寒々しく恥ずかしく思え、両手で抱きしめ体を支えた。
 しかし恥じる必要はないのだった。ここにいる人々は皆衣服を纏っていなかったのだから。タオルで前を隠すことすらせずに、開放的に行動している。
 さらに言えば、この浴場にいるのはどうやら人間だけではないようだった。湯でふやけてしわくちゃになった動物たち。
 猿はまだ違和感がない。
「温泉は飲むのも体に良いんだよ」と知ったふうな顔で吹聴するゴールデン・レトリーバー。
 マッサージ機で猫背をほぐす三毛。
 パンダが体をこすっていたかと思えば、いつの間にかホッキョクグマになっていたり。黒い部分は模様ではなく汚れだったのだ。
 湯の中に懐中時計を落として台無しにしてしまうウサギ。
 毛皮を脱いで湯に浸かる黒い羊。
 良い感じに赤く茹で上がってしまったタコ。
 これだけ混雑した温泉の中でも際立って美しく、優雅さを忘れない人魚の女。
 見た目も行動も様々な者たちを、絵巻物に見入るように眺めていると、後ろから肩を叩かれた。
 見るとブリキでできたロボットみたいな奴がニコニコしながら立っていた。ロボットは驚くほど人間らしい声で「早くお湯に入らないと、場所が無くなってしまいますよ」と親切に教えてくれた。
 たしかにどの池も今や乗車率百五十パーセントの満員電車顔負けの状態だった。
 そんなに窮屈な所に体を捻じ込んで、ちゃんと湯に浸かれていないだろうに、と憐れんだが、予想に反して皆幸せそうに口の端をだらしなく緩ませていた。
 体もすっかり乾いてしまったし、とりあえず空いている池に浸かろうと探したが、目に付いたのは唐辛子の湯だった。
 煮えたぎるその中には貝なのか空想上の宇宙人かといった者が溶けていて、「ああ、ここは本当に極楽のような温泉じゃ」と呟いた。たしかにここは常春の楽園のように平和な所だとは思ったが、その姿じゃ地獄で釜茹での刑にあっているみたいだよ、と思った。
 湯に溶け込みたくはなかったので、他に空き場所は無いかと目を転じた。
 点在する池の向こうに、とろとろと流れる河があった。
 浅い河の上にはたくさんの老人たちがいた。老人たちは座らされており、働き者の鬼たちに体を洗われていた。
 ぬるい河の水がばしゃばしゃと掛かり、老人たちの体の皺は引き伸ばされていった。まさに流れ作業のごとく、鬼たちは河に乗って流れてくる裸の老人たちを磨いていった。
 河の上に祖母がいた。普段からシャイな祖母は、たくさんの老人に混じって為す術もなく洗われることに屈辱と羞恥を感じているだろう、うつむいて縮こまっていた。
 奇妙な三途の川に見とれているうちに、河の中に足を踏み入れてしまっていた。河は足の裏につるりと滑りこみ、体を押し流した。
 再び湯の中に潜っていた。赤銅色(あかがねいろ)の湯を不器用に掻いて泳ぐ。流されてきたはずなのに、なぜか流れに逆らって泳いでいる。思うように体が動かない。
 炎の色をした熱い湯は、まるで血液のようだ。急に生臭く思えてくる。先が濁って出口が見えない。息が苦しくなってくる。

 引き笑いしたように息を吸い込み、湯船の中で目が覚めた。
 やはり夢だったのだ、と安堵した。外からはまだ雨音が聞こえてくる。
 いや、雨は室内で降っていた。湯気が頭上で雲になり、まばらなシャワーとなって降り注ぐ。
 水面にできたいくつもの波紋から、クラゲのように透き通った小さな化け物たちが浮かび上がる。鏡となった水底に、この世のものでない温泉地が透けて見える。週末の湯治はまだ終わりそうになかった。








[*prev] [next#]



back


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -