魚は涙を流しても泣いていると皆に気付かれないから、ずっといいなと思っていた。
 でもぼくは魚ではない。泣いていたらきっと誰かが慰めにくるんだ。うざったい。
 だからぼくは泣きたくなったら水族館に来る。水族館の照明は青くて暗く、まるで水の中にいるようで、ぼくはこの場所でなら落ち着くことができる。
 制服姿でチケットを買い求めるぼくを、受付の人は訝しむ目で見たが、咎めるようなことはしなかった。
 平日の館内には人がいなかった。魚とぼくだけが泳ぐ。明かりが少ない通路の真ん中を、覚束無い足取りで進む。まるで目の利かない深海のようだ。心なしか空気まで重くなったように感じられる。
 大きな水槽の前に辿り着き、熱い陽に晒され火照った頬を表面に押し当てる。ひんやりとして気持ちがいい。透明なガラスの向こうに、色とりどりの魚が次々泳ぎ去っていく。夢の中みたいだ。
 手で触れられそうなほど近くに魚が泳いでいるのが見えるのに、実際は、水圧に耐えられるようにとても分厚い透明な板で阻まれているのだ。だから、魚たちはこんなに近くにいるのに、遠い。
 水は好きだ。炎のことを忘れさせてくれる。炎を見ると嫌なことを思い出す。
 目の前を、鮫が身をくねらせて静かに横切っていく。ぼくは魚の中でもいっとう、鮫が好きだ。どの魚よりも大きい体をしているのに、どの魚よりも優雅に泳ぐ。他の魚とは全然違ったところがあるのも面白い。例えば骨や歯、鱗、第六感であるロレンチーニ瓶……
「お兄ちゃん」
 妹の声がして、思考が途切れた。妹はいつの間にかぼくの隣でぼくと同じように水槽の中に目を凝らしていた。綺麗な横顔が、水の揺らめきで青く光っている。
 妹は振り返り、ぼくの手を握ってくる。にっこりと微笑んだ顔の半分は、火傷で爛れて見るに堪えない。無事な方の半分は兄のぼくから見ても美しいので、ますます残酷だ。
 握る手の感触はリアルだけれど、これはぼくの幻覚だと知っている。妹はあの火事で死んだから、ここにいるはずがないのだ。
 ぼくは妹の手に引かれて水族館の中を進む。妹の半身は焼け爛れていて、ぼくを引く片方の手も、皮膚が変質してしまっている。せめて夢の中でくらい、傷なんて無い綺麗な姿をしていてくれればいいのに。
 妹は自分の負った怪我など意に介することなく、水槽の間を縫ってすいすいと歩いていく。まるで鮫みたいだ。青くて暗い水の中を体を水平に保ちリラックスして泳いでいく。
 それに比べて、ぼくの歩き方はふらふらとして覚束ない。まるで溺れているみたいだ。
 側面の壁に埋め込まれた水槽の中に、ぶくぶくと白い泡がたつ。それは白い炎に変わり、水族館を包み込む。
 いや、これは白い光だ。数年前に行った海水浴の時の。家族全員で出掛けて、ぼくも妹も夢中で泳いだ。潜ってから水面を見上げると、薄曇りの日の空みたいな網目模様の光がきらきらしていたのが印象的だった。存分に水を楽しんでから海面に顔を出すと、だいぶ沖へ流されていた。すぐそばにいたはずの妹の姿を探すが、見当たらない。岩場へ泳いでいくと、血の気の無い真っ白な腕が見えた。透明な水に浸かった妹は、まるで死んでいるように綺麗だった。ぼくが慌てて妹の冷たい腕を取り引き上げると、妹は不意に目を覚まし咳き込んだ。ぼくは詰めていた息を吐いた。なんだかぼくの方まで生き返った心地だった……
 妹はぼくより泳ぎが上手いぐらいだったから、溺れるなんて珍しくて、だからこの出来事はよく覚えている。あんなに水と親しんでいた妹が、炎の中で死ぬなんて悪い冗談だ。ほら今だって、上手に水槽を躱して泳いでいる。
 ぼくは相変わらずふらつき、溺れている。息も苦しくなってきた。
 寄せては返す波、寄せては返す波、白く揺らめく光、肌を撫でる炎、寄せては返す夢、泳ぐ、溺れる、息ができない…………
 腕をつかまれ、呪縛のような記憶の水底からぐいと引き上げられた。それと同時に、呼吸が自由になる。今度はぼくが妹に助けられてしまった。
 いつの間にか水族館の中を通り抜けて外へ出ていた。濃い潮の香りに包まれる。妹はもうぼくの手から離れ海へ向かって走り出し、太陽の光に溶けて消えていった。
 そういえば水族館に来たのに、泣くのを忘れていた。思い出した途端に、涙が溢れ出てきた。涙で滲んで水平線が溶け、魚が宙を泳ぎ始める。大きな鮫も水槽を抜け出て、煙のように空へ舞い上がっていった。





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