よく霧のたちこめるこの港には、俺のように常に灯台の光を絶やさない管理人が必要だった。遠い沖から帰ってくる漁船を、迷わないよう導くのが俺の役目だった。
 濃い霧に惑わされるのは人間だけではないようで、このあたりの浜にはよく人魚があがった。
 彼らについては、人魚というより魚人といった方がその姿をよりよく説明できるかもしれない。彼らは魚のように尾ビレを持っているわけではなく、人間と同じ二本の足がある。手には太鼓の膜のような薄くて広い水掻きがあり、体中が繊細な鱗で覆われている。彼らは海底に国をつくり、人間からは独立して暮らしている。彼らはおとなしいので人間を襲ってくることはないし、人間も彼らに干渉することはない。漁船も、彼らに網をかけないように注意している。
 だがたまに、網や釣り針には彼らが引っ掛かってしまったし、それ以上に、ミルクのように濃い霧に惑っていつの間にか砂の上に打ち上げられてしまう魚人も多かった。
 彼らは陸にあがった時には既に、傷つき死んでいる者が大半だった。彼らは魚人であって人魚ではないから、伝説にあるようにその肉を食っても不老不死にはならないが、それでも魚人の肉を好んで食べる輩がいたので、浜の人々は思いがけず得た魚人の死体を自分たちの食料にしたり売りさばいたりした。また、魚人の中には綺麗な者もいたので、そういう者の鱗は宝飾用として高値が付いた。
 ある夜、海が時化て漁船は皆引っ込んでいた。俺は戻ってくるかもしれない漁船のために、灯台の灯を回し続けていた。雷まで鳴ってきたので、もう戻ってくる漁船も無いだろうと考えながら緊張を解き、砂浜をふと見遣ると、稲光に照らされて黒い影が横たわっているのが見えた。漂流者かと思い、俺は雨の中浜辺に走っていた。
 波打ち際に倒れていたのは、人間ではなく魚人だった。綺麗な少女の魚人だ。きっとこの嵐で流されてしまったのだろう。もう死んでいるだろうか。
 重く湿った体をなんとか抱きかかえ、俺は灯台まで少女の魚人を運んだ。物置から、昔漁師に借りたままになっていた大きな水槽を引っ張り出し、そこにたっぷり水を張って少女を中に沈めた。
 明るい光の中であらためて見ても、その魚人は美しかった。年の頃は十代後半から二十代だろうか。髪は長い金の糸、細くしなやかな体に、青や緑や紫の鱗が輝いている。
 少女は水の中でゆっくりと目を開け、蘇生した。長い睫毛の下の蒼い瞳がぱちぱちと瞬きをし、不思議そうな光を湛えて水槽越しの俺をとらえた。
 長い雨だった。俺は夜通し、少女の話を聞いた。魚人は空気中では唖(おし)のようだが、水中だと声が通るらしい。少女は竪琴のような声音で、自分は王子様に会うために、嵐の中、国を抜け出し、浜辺に辿り着いたと語った。王子様というのは、この間この貧しい漁村を視察に来た人間の王子様のことらしい。なんとまあ、人魚姫じゃないか、と俺は半ば呆れて少女の話を聞いていた。じゃあ王子様に会うには人間にならないとな、と俺がからかうと、出来ればそうしたいんだけど、と少女は真剣な様子で俯いた。
 夜が明ける頃、うとうとしていた俺に、決心したふうに少女は言った。私を人間にして下さい、と。俺は魔法使いじゃない、ただの灯台守だ、と言ってやると、私の鱗を剥いで下さい、そうして水掻きも切ってしまえば、もう人間と見た目は変わらないでしょう? と、とんでもないことを言われた。剥いだ鱗は売るなり何なり好きにして下さい、と少女が頼み込むので、まあ悪い話ではないか、と俺は安請け合いをした。確かにこの鱗は宝飾品の中でも上等だろう。
 鱗を剥ぐのはやはり痛みを伴うので、俺たちは一日に少しずつ剥がしていくことにした。少女は王子様を思って耐えているようだった。剥いだあと、皮膚が再生するには時間がかかった。だが足元からその綺麗な鱗を剥いでいくうち、再び鱗が生えてくることはなく、だんだん人間らしくなっていくことが分かった。
 少女が夢見がちに考える様々なことを聞いているうち、なんだ、鱗や水掻きや鰓があるだけで、村に住む人間の少女たちとどこも変わらないではないか、などと思ったりもした。魚人も元々は人間だったのかもしれない。いや、逆か、人間が元々は水の中に住んでいたのかもしれない。
 少女は海の上を渡る青い蝶の話をした。青い蝶は寒い季節になると海を渡り、ずっと離れた南の島へ辿り着くのだと言う。私も蝶のように飛んで、自由にどこへでも行きたい、と少女は言った。でもお前たちが海中で泳ぐ様はまるで鳥が飛んでいるようだよ、と俺が取り成すと、少女は嬉しそうにした。だがすぐに表情は翳り、でも私は人間になるの、青い蝶になるの、と呟いた。
 鱗を全て剥がし終えると、少女の魚人は突然死んでしまった。やはり鱗は必要不可欠なものだったのだろうか。水の中で少女の肢体は腐らずに、まるで人間の少女のように眠っていた。
 俺はあとに残った美しい鱗だけを抱えて、呆然としていた。灯台守の仕事も手につかず、漁船事故が起こると苦情が来た。漁師たちは灯台守を他の奴と交替させようと相談している。
 俺は少女の残した鱗を売らず、蝋で固めて大きな羽根を作ろうと思った。青い蝶の羽根だ。それを少女の弔いにしよう。
 嵐の晩、風雨が灯台を叩きつける激しい音の中、俺は黙々と鱗を繋ぎ合わせた。小さく繊細な鱗は少女が生きていた時と変わらず、青や緑や紫に輝いていた。
 明くる日は、打って変わって星さえ透けて見えるくらいの抜けるような青空だった。俺は青い蝶の羽根を背負い、灯台の天辺に立った。冷たい風が吹いているが、南の島まで手が届きそうだ。俺は羽根を広げて海へ飛び立った。







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