深い霧を抜けてやって来たのは、蔦の這う一軒の小屋だった。
 白壁は黄ばみ、老人の微笑みのように年月を刻んでいる。
 小さな扉へと、石畳が続いている。石と石の間から短い草が生えている。
 扉を開けると、小屋の反対側にある裏口から、誰かが出ていったような気がした。
 つつましい部屋だった。テーブルと椅子が二脚、小さな食器棚、煤けた暖炉の前には揺り椅子が一つ、そこに溶け込むようにして、羊のおばあさんが座っていた。
 羊のおばあさんは、年季の入った小さな織機をゆっくりと動かしていた。パタン、パタン。横糸に縦糸が組み合わさり、草色の布がぞろぞろと生み出される。
 おばあさんはおもむろに機を織る手を止めて、振り返った。「お前が新しい“ハチ”かい」 そして、近くにあった小さな棚の引き出しから、きれいな布の切れ端を取り出し、私に手渡した。
 羊のおばあさんが織ったのだろうか、ざらりとした素朴な手触りの布は、懐かしい青色をしていた。ターコイズ・ブルー。引き出しの中には他にも、古い布やら高価そうな布などたくさん入っており、そのどれもが宝石のようだった。
 おばあさんはさらに私に何枚かの異なる柄の布を押し付け、そしてそれとは別の大きな布を広げて見せた。大きな布は、たくさんの小さな布を継ぎ合わせて出来たものだった。
 この大きな布を、羊のおばあさんは「キルト」と呼んだ。そしておばあさんは私にこう告げた。「お前はこれからこの布を繋ぎ合わせていくんだよ」

 羊のおばあさんが市場(いちば)へ出かけている間も、私は糸を紡いだり、埃を払ったり、例のキルトを縫い合わせたりしていた。
 それにしても、永遠かと思われるほど長く大きな布に仕上がっている。草木染めのように優しい色の布がいくつも連なり、時折刺繍が施されていたりもする。
 大きなこのキルトは筒状に巻かれている。いったい何のために布をこんなに繋いだのか。途方もない年月を感じる。
 私は針を持つ手を少し休めて庭に出た。庭の草木は無造作に生えていたが、荒れているという感じはしなかった。石畳の隙間から生える野の草たち。ハツカダイコンやインゲンマメのなる裏庭の小さな畑。この場所は何故だか、いつでも黄昏のような雰囲気だ。霧の底に沈む森。私は籠を持ってきて、黒すぐりを摘んだ。

 紺のびろうどの空に小さなあかりが灯るころ、羊のおばあさんは市場から帰ってきた。
 新月の夜は寒かった。あかく燃える暖炉のそばで、私たちは食事をとった。
 羊のおばあさんが市場で織物を売って手に入れた黒パンや、森の外の農場から貰ったヤギのミルク、夕方私の摘んだ黒すぐりを、私たちは何も喋らずに食べた。
 暗い森の奥で、名前も知らない鳥が奇妙な声で夜が更けたことを告げていた。
 尽きようとしていた暖炉の炎に薪を投げ入れると、赤い光は弱まり、またすぐに燃え上がって、揺り椅子に座った羊のおばあさんの顔を薄暗い部屋の一隅に浮かばせた。
 羊のおばあさんは緋色のセーターを着ていた。セーターは暖炉の火を受けて、いっそう濃い色に見えた。どうしてセーターなんて着ているのだろう、羊なのに。「自分の毛皮があるじゃない」と私が言うと、羊のおばあさんは黒い肌を首元からちらりと覗かせ、「年をとりすぎたよ」と呟いた。私は、そんなものか、と、ひとつまばたきをした。

 羊のおばあさんが紡ぐ糸は奇妙だった。毛玉にはなぜだか染める前から青やら赤やらの色が付いていて、それを細い糸に縒り上げていく。見た目は普通の糸だけれど、それを織ったり縫い合わせる時に、不思議なことが起こる。
 糸が布をくぐる時、感情が流れ込んでくる。嬉しい、悲しい……記憶もいっしょに。本を読んでる時のような、映画を観てる時のような、自分の外から生み出され入り込んでくる意識。
 キルトを縫い合わせていて気付いたことがある。そうだ、この果てしなく長いキルトには、その不思議な糸が使われていて、今まで縫ってきた人たちの気持ちや記憶が縫い込まれているんだ、と。ある時には、縫っている途中で嬉しくなって踊り出したり、悲しくなって泣き出したりした。
 いつものようにキルトを触っていると、今度は、自分のものではない記憶がよみがえった。取り戻した記憶を頼りに、私は縫いかけのキルトを放り出して森の奥へと向かった。来たこともない場所なのに、自然と道は分かった。
 森の奥には泉があった。羊のおばあさんが煮るスープのように、泉はこんこんと湧いていた。
 そのほとりでは、少女の幻が水浴びをしていた。私が小屋に来た時、入れ違いに去っていった影、以前キルトを縫っていた手の持ち主だと、私はすぐに分かった。
 泉の水をひとくちすくって飲んでから、私は小屋へ戻った。そして床に落ちていたキルトを拾い上げ、リズムをつけて続きを縫い始めた。うれしい・たのしい・かなしい・こわい。うれしい・たのしい・かなしい・こわい……







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