習作



私は私の創作を再開する為に、K先生の所へ行くことにした。
黄昏の光素(エーテル)が四月の底におりてくる。星の見え始めた広い草原の中心に、K先生の研究室はあった。
群青の大気の中を、露を孕んだ草を踏みしめ私はその実験室に近づいた。K先生は脇目もふらず化学薬品を混ぜたり抽出したりして弄っている。試験管やシャーレ、種々の硝子瓶を行き来する様は、春の忙しない小鳥のようだ。
K先生の背後には黄ばんだ壁がある。壁はその一方にしかない。小さな罅の入った壁には時計がかかっていて、その針は止まっている。
私が彼のラボラトリィに足を踏み入れても、K先生は私の存在に気づかない。その癖、「何をしているんですか?」と訊ねても、先生は驚きもせずに応えるのだ。
「心象スケッチだよ」
実験ではないのか。確かに時折ノートを取ってはいるが……。ほらまた、黄金(きん)の風をペン先で捉えて、糸を縫うように文字をいっしんに綴っていく。
ビーカーで沸かしていた水はまるで曹達水のようにすきとおって見えたが、まばたきをすると琥珀色に変わった。それは珈琲だった。K先生がドールハウスの中にあるようなアンティークのカップに注いでくれる、その味は焦げていてどこか懐かしかった。
「苹果でも食べますか」 そう言ってK先生はその赤い実をこちらへ放った。私はうまく受け取れず、苹果は放物線を描いて青緑色の草の上にポトリと落ちた。「やあ、ニュウトンですね」K先生は何が可笑しいのか、大きな声をあげて笑った。私はなんだかへんだなと思った。ぷんと苹果の匂いが舞い上がった。
いつの間にか日は暮れて、草原の真ん中のこの研究室だけが灯台のように明るく光っていた。K先生はアルコールランプの上で焼けている網に、手に持っていた苹果を置いた。それは瞬きのうちにフラスコに変わっていた。赤いフラスコ、いや、火山だ。赤い溶岩を流し、白い瓦斯(ガス)を吐く。その湯気は上空に溜まって渦をつくり、水銀色の雲を生み出した。厚い雲は薄く広がり、銀河になり星雲になった。いや、まるでダイヤモンドダストのようだ。こまかな氷のかけらが、月光を反射して虹をつくった。
氷のかけらはきらきらと輝いた後、すべてが白い鷺になり、ずっと遠くの方へ飛んでいった。鷺は空の天井に張り付くと一粒一粒が蒼や赤にかがやく星になった。
私とK先生は、いつまでもその星々を見つめていた。見つめつづけていると、だんだん空と自分との距離感がなくなって、重力から解き放たれたように思う。精神が宙に浮かぶことで感じる肉体の存在。意識ある蛋白質が見上げる、心臓の裏側の星空。私の心の中のラボラトリィ。







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