「……泣くんじゃねェぞ、面倒だ」
「ひ、ひどい」
私をおぶって歩くローさんは、さっきまでのヒーローみたいな雰囲気はどこへやら。途端に辛辣になった。
でも言葉尻は優しいから、変な感じ。
「…」
「……悪かった」
「え…や、ローさんの口は悪いのは今に始まった事じゃ」
「そっちじゃねぇよ…今日の事だ」
「…」
ここから彼の表情を伺う事は出来ないけど、たぶん、彼らしからぬ顔をしているのだろうと思う。
ほんの少し情けない声を聞いて、私は小さく笑ってしまった。
「何がおかしい」
「だって…それは、ローさんが謝ることじゃないです」
「いや、俺はあいつの視線にずっと気付いてた」
「え!」
「だが…油断してた。まさかアレで懲りてねぇとは 俺も思わなくてな」
「…あれ?」
「お前が呑気にお昼寝してる時だ」
「え……ああ!あの時」
なまえはようやくそれに思い当たった。
「急に襲いかかって来たんでな。思わず手加減忘れてフルボッコにしちまった」
「…」
「その時はあの野郎も一緒にいたからな。釘刺しといたんだが…無駄だったらしい」
「、そうだったん…ですか」
「…悪かった」
もう一度謝ったローさん。別にいいですと言いながら、自分の指先がまだ震えていることに気付く。やせ我慢と思われてしまわぬようにギュッと拳を握った。
しばらくすると、道の先に街灯と家の玄関が見えてくる。
「…あ。買物袋、どっかに落としちゃった」
「他のもんでいい」
そうは言っても冷蔵庫はほとんど空っぽだったはず。今晩はラーメンになりそうだ、と頭の片隅でそう思った。
…それに正直作る気力はあまりない。
「…あ、そういえばローさん」
怪我してないんですか?と思い立ったことを尋ねてみる。
佐竹君はヤクザを向かわせたと言っていた。ローさんのことだから特に何の苦もなく全員撃退しちゃっただろうとは思っていたけど。
「気配も消せねェ雑魚が何人固まっても同じだ。俺には指一本触れねぇよ」
「…さいですか」
「…何だ。俺が負けると思ったのか」
「いいえ、ただ、少し心配だっただけです」
私が言うとローさんは「そうか」と静かに呟いた。家はもうすぐ目の前だ。たった数時間の出来事だったが、それはとてつもなく長く感じられた。
「座ってろ。…ミルクでいいな」
こくりと頷いた私の頭をひと撫でしてローさんは腰を上げた。台所からカチャカチャと音が聞こえるのをぼんやり聞きながら、私はポツリと声をこぼした。
「昔、同じような目にあったことがあるんです」
ローさんは何も言わずにこちらを見た。驚いた様子はあまりないから、やっぱり勘づいていたらしい。
私は視線を落とした。
「中学に入って、すぐの頃です」
あの時は夏だった。日が伸びるにつれて長くなる部活の活動時間の後、薄暗くなった帰り道をいつも通り歩いていた。
――茂みから延びる白い腕。引き込まれて、悲鳴を上げる間もなく口を塞がれた。
怖くて、怖くて怖くて、死んでしまいそうだった。
その時は偶然通りかかった人が通報してくれて事無きを得たのだが、そんなことをされた後で、誰が男を信用できようか。
「お前、親は」
「生きてますよ」
ローさんの問いに、私は苦笑しながら答えた。
「仕事で海外にいるほうが多いんです。まあ、あの時はすぐに駆けつけてくれたけど…結局その町は引っ越して、ここに来たんです」
ついてませんよね、吐息と一緒に吐き出した弱音。
――どうして私ばっかり
「…少し 腫れてるな」
「!」
ローさんの冷えた手のひらで頬に触れられて、思わず体がこわばる。はっとして上を見上げるとやはり神妙な面持ちがそこにはあった。
「悪かった」
無神経だった、の意味をはらんでいるだろうその言葉は、今日何度目のものか。
遠のいていく手のひらを目で追って、次の瞬間には自分の指先でそれを捕らえていた。――待って
「…や、です。謝らないでください」
「…なまえ」
「いやじゃないんです…ローさんに、触られるのは…だか、ら」
その先は何を言えばいいのかわからなくなって、黙ってしまった。それでも気づいたらローさんの腕の中にいた。
ローさんは抱きしめた私の頭を撫でて、小さな子供にするように、低い優しい声で耳元に語りかけた。――よくがんばったな、なまえ。そう聞こえた。
それが合図のようにこぼれ出した涙の粒。「泣くな」って言ったくせに、こんなことをするなんてずるい。こんなこと言うなんて、ずるいよ。
「ぅ…ロ、っさん」
「ん?」
さっきは、頭の中がごちゃごちゃで言えなかった。
「た、…ったすけに、きてくれ、て…」
嗚咽でうまく声が出なくて、それはあんまりにも不恰好だったけど。どうしても伝えたかった。伝えたかったのだ。
「ありがと、う……っ」
ローさんの顔は見えなかったけど、空気で、気配で、やわらかく微笑まれたのが分かった。