「…みーつけた」
もう随分古さびた校舎の、北側。忘れ去られたように取り付けられた空っぽの飼育小屋の陰に彼はいた。
黒いランドセルを背負ったまま地面に座り込む彼の頬は腫れて、片鼻には赤黒く染まったティッシュが丸めて詰め込まれていた。私はセーラー服のスカートが地面につかないように気をつけながら彼の前に屈む。仄暗い夜を連想させる二つの瞳がゆっくり上を向いた。
「ロー」
「…」
ローは私から目を逸らした。
私は小さく溜息を吐いて、用意していた濡れタオルを真っ赤に腫れた頬にそっと当てる。
ローは嫌そうに私の手を払うけど、その抵抗だって嫌悪感でいっぱいなものでないなら私が止める義理もない。構わずに当て続けていると、ローの口からため息が漏れた。
「おれは謝らねえ」
その口から出る言葉に予想はついていたものの、やっぱりこうきたか、と呆れ半分笑ってしまった。
「意地っ張り」
「うるせェな」
「喧嘩しないって言ったくせに」
「今週は、っていった」
「ウソばっか」
「…あっちから売ってきたもんを買っただけだ」
「わたし被害者の子みたよ」
「おれが被害者だ」
「ローの千倍ボロボロだった。戦地から生還した戦士みたいだった」
「あんなタマ無しは戦士になんてなれない」
「…もう。そんな事ばっかり」
鼻から血まみれのティッシュを抜いたローは、それをぽっと投げ捨てた。直ぐに草むらに隠れて見えなくなる。
「ポイ捨て」
「固いこと言うな」
もう血は出ていないらしい。手の甲で鼻の下にこびりついた血を拭う姿は、これもまた小さな戦士のようだった。
いや、しかし可愛げがない。
「帰るぞ、なまえ」
あなたを探しに来たんですけど!…あと、呼び捨てすんな命令すんな!ツッコみたいところは山の如しだったけど、少し頬を染めたローが手を差し出してくるから結局何も言わなかった。
自分より小さな手を取って立ち上がる。
夕焼けを一面に浴びるグランドの真ん中を、ローと手をつないで歩いたあの日は、もう遠い昔の事のように、思う。







「…つーか遠い昔の話だろ」
「タメ口」
「今更敬語なんて使えるか」
「あ、また上履き踵踏んで」
「こいつは俺に踏まれたがってんだ」
「Mか!」
「なまえと一緒だな」
「だれがMだ!…あ、呼び捨て!」
「チッ、分かったよ。……なまえ先生」

そう、教師を目指してコツコツ勉強中だった私。教育実習生として行く高校を選ぶ時「やっぱ出身校行きたいよね。あー懐かしー、って言いたいよね。」な心理からここを選び、そしてある事を失念していたことに気付く。
この学校には年下の幼馴染、ローが通っていたのだ。


「Mだろ。昨日だってこのクソ暑い中キムチ鍋食ってたじゃねェか」
隣を歩くローは、あの頃とは見違えるほど成長した。
不健康そうな隈は増したが、一般的に見ればモテそうな顔面である。実際モテるらしい。ロー曰く。
そんな彼とは今日も今日とて幼馴染だ。(腐れ縁ともいう)

「ローが持って来たやつでしょうが!あたしだってフツーに熱かったわ!…あ、飯川さん!昨日のプリント放課後持ってきてくれる?見てあげる」
「わ、ありがとう先生!」
「吉田君にも言っといてくれるかな」
「はーい」

にっこり笑っていく女子生徒に微笑んで手を振る。
素直で可愛いな。
どこぞのローとは大違いだ。

「………猫かぶりやがって」
「何てこと言うんだ」
「一昨日なんてソファでテレビ見ながらポテチ食いつつ腹かいてたくせに」
「それ関係ないでしょーがぁ!もー!」
「牛…いや乳はねェから豚だな」
「うるさいよこのやろう……くすん。あ、ロー次政経だよ」
「知ってる」
「勉強いいの?余裕すぎじゃない?」
「今回の俺に死角はない。…お前試験監督だろ」
「うん。カンニングとかしないでね。あたし目敏いよ」
「知ってる」

教室に入るとローは大人しく席についた。窓側の一番前だ。
「皆さん席についてくださいーい。テスト用紙配りますよー。…ちょ、そこブーイングやめい」
ざわめいていたクラスも、テストが始まると途端に静まり返る。
用紙にシャーペンを走らせる音と時計の音だけが(あ、今誰かお腹なったな)聴覚を刺激し、教卓でその様子を眺めている私は当然暇だった。


――ポト

視界の右端で、白いものが床に落ちた。(…ロー?)
どうやら消しゴムが落ちたらしい。口パクで「拾え」と言うロー。この際命令口調なのは無視しよう。私は腰を上げて彼の席に近付く。
「はい」
「どうも」
せっかくだからと生徒達の机の間を歩いてまわって(たまにある珍解答が面白い)、問題文の質問などをいくつか聞いて、再び椅子に座った。
そして十数分後、またローの消しゴムが落ちる。
「…もう」
「悪ィな」
「まったく」
彼の手に消しゴムを乗せて戻り、椅子に腰を下ろしかけた時

――ポト

あいつめ

「…わざとじゃないでしょうね」
「そんなまさか」
そう言うローの口元はニヤニヤと歪んでいる。彼の解答用紙に目をやれば、解答欄は全て埋まっていてしかも消した様子が見られない。絶対わざとだ。絶対ヒマなんだ。
私は声を押さえながらローに凄む。
「いい?次やったら没収するから」
「ああ」
――ポト
は な し き い て ま し た か ゴラ!

キレてもいいだろうか。今の明かワザとだろ!だって握ってポイだったもん。
私のこと犬か何かと勘違いしてないだろうかこの男。

「…ローいいかげんに」
「こうすりゃ、ずっといるだろ」
「え?」
ちょっと険しい顔をしたローが、不貞腐れたように言う。

「ずっと俺のとこにいればいい」

独占欲
「ロ、ローあんた何を…ちょ、みんなもテスト中だよこっち見んな!全員カンニングにするぞバカヤロー!」「フフ」
(なまえ先生真っ赤)
(トラファルガーやるな…)

920000hit 幼馴染で独占欲の強いロー
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