報告書に目を通し終えたクロコダイルは、苦々しい表情でそれを机に伏せた。 ややすると控えめなノックが部屋に響き、扉から若い女が顔を覗かせる。クロコダイルと目を合わせたは良いが、彼女にそれ以降の動きは見えない。 根負けした様子でクロコダイルが口を開くまで、数秒だったか、数十秒だったか。 「……何してる」 「顔色をうかがってます」 「とっとと入れ」 頷いてようやくそこに足を踏み入れた彼女は、再度沈黙し、クロコダイルが次の言葉を発するのを待った。 「言いてェ事があるようだな」 そう促したクロコダイルだったが、彼女が口ごもる内容には既に検討が着いていた。 「サー……今日は私のお願いを何でも一つ訊いてくださると、ミス・オールサンデーが」 ――やはりな。 「ああ、先日の仕事の褒美だ。ミス・サタデー」 「ありがとうございます」 「その実力を考えりゃ、オフィサーエージェントに繰り上がるのも時間の問題だ。――期待してるぞ、ミス・サタデー」 あっさり頷く彼女。 どうやら、そんなことより「お願い」の方を勧めたいらしい。 「サー、何でもいいんですか……?本当に何でも?」 「ああ。何度も言わすんじゃ」 ガチャン 「鬼ごっこ、しましょう」 *** 「ねーえ、Mr.5」 「何だミス・バレンタイン」 仕事を終えてつかの間のティータイムをとっていた二人は、新たな指令を受けるべくMr.0のパートナー、ミス・オールサンデーのもとへと向かっていた。 「ミス・サタデーって知ってる?」 「ああ、この前フロンティアエージェントになった女か」 「そーそー!なんかエージェント達の間で噂があってさ」 「噂?」 「ソイツ、Mr.0の顔見たことあるらしーのよ」 「馬鹿馬鹿しいな」 待ち合わせ場所までの道すがら他愛のない会話を繰り返していた二人だったが、ミス・バレンタインのあまりに突拍子のない、加えて信憑性皆無な発言に、Mr.5はハッと鼻を鳴らして応じた。 「俺たちは秘密主義で成り立ってるようなもんだ。そんな新入りが、俺達も拝んだ事のねェボスの顔を知ってる筈ねェだろ」 「えー!でも聞いたんだって!Mr.3がこの前さ」 その時だった。 二人の間を一人の少女が心底楽しげに駆け抜けたのだ。 「疲れたら休憩していいんですよ、サー」 張り上げるわけでもないのに良く通る声で、少女は後方に声を投げた。 彼女の通ったすぐ後を追うように大股で行き過ぎたのはこの町の英雄、――ただ、その顔にいつもの不敵な笑みは無く、言うなれば「海賊」らしい…… 「ざけやがって……タダじゃ済まさねえ」 怒りに引きつった口元は残虐さを滲ませて弧を描いていた。 「……今のが、例のミス・サタデーじゃねェのか?」 「さ、さあ…っていうか追っかけてたの七武海の…?」 二人は顔を見合わせ思考を巡らせたがやがて、到底自分達の考えの及ぶ所では無いと判断し深追いを諦めた。 その判断が正しかったと二人が肩をなで下ろすのは、また少し先の話である。 *** 「ちょこまか逃げ回りやがって」 「ハァ、意外と……体力が有り余っておいででしたか」 「馬鹿か。テメェと比べるんじゃねェ」 結局、クロコダイルが彼女を捉えることが出来たのはあれから1時間後。カジノから遠く離れた廃屋の一角でであった。 首を掴まれ数センチの距離で脅されてしまえば、彼女が「鍵」を手渡してしまうのも致し方ないというわけである。カチカチ、カシャン、と右腕に嵌められていた海楼石の腕輪が地に落ちる。 「1時間逃げ通せたので、勝負は私の勝ちですけどね」 「こんなハンデを俺に押し付けやがって……覚悟は出来てんだろうな」 「だって砂になってしまわれたら絶対勝てませんし」 「テメェが俺に勝つ必要がどこに」 「あったんですよ。どうしても……―――"海賊は掟は破っても嘘は吐かない"でしょ?」 壁に背を打ちつけた痛みより、絞め殺されるやも知れぬ恐怖より、彼女は彼に勝てた事実を喜んだ。顔をくしゃりと歪め、その小さな手はクロコダイルのやや汗ばんだ頬を包んだ。 「私を置いていったくせに……!自分だけ忘れるなんて、ずるいよ」 遠い昔に追いかけ続けた背中だった。 あの頃は、手を伸ばせば届く距離にいたのだ。 「なまえ!来い、トロトロすんな」 突然消えた彼を見つけたのは数年後、全世界に配られた手配書だった。 会いたくて会いたくて、私も海に出た。 ずっとずっと追いかけて、沢山戦ってくうちに力をつけて、この街でやっと再会を果たした時、もう彼の中に私の思い出は残っていなかった。 「……クハハハ!!テメェまだ、そんな事を言ってやがったのか」 「、」 「何度も言わせるんじゃねえよ 俺はお前を知らない。 過去に会ったか、どうかなんざどうでもいい もう、俺に求めるな」 翻されたクロコダイルのコートを掴んで引き止める。心臓が破けてしまいそうなほど痛むのに、体が咄嗟にそうしてしまったのだ。 「……なら、もう、追いかけません」 ――こんなに、言葉を紡ぐのを辛いと思ったことはない。 「だから、勝負に勝った、私の言うこと……ひとつだけ聞いてください。 ごめんなさい、これで…これで最後にしますから」 ――サーは首を振らなかった。 たったそれだけの事に、酷く救われた思いがしたのだ。 「名前を……呼んで欲しい」 俯いて耐えた長い、長い沈黙は不意に途切れた。 低い声が、ほんの僅かに空気を揺らしたのだ。ぽろりと頬に涙を転がして微笑みが漏れる。 「ば…か……嘘が、へただね」 言った瞬間身体に受けた衝撃は、苦しいほどきつく抱きしめられたせいだ。 どれだけ止まれと念じても壊れた涙腺はそのままで、こんな傍にいるのに視界は晴れる気配がない。――当たり前だ。 あんなに優しい声で 私の名前を呼ぶんだ。 「………今更、俺の前に現れやがって」 「だ、って…」 「くそ、何の為に俺がお前から離れたと思ってやがる」 「わ、わたしが、弱いから」 「……間抜け!」 掠めるように奪われた唇の理由は、もう聞かなくても大丈夫だった。 しらぬいの糸 (これからのことより、今つかめる未来がそこにあるのに) モゲ太さん・相互祝い ×
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