*赤イド




土の感触というのは矢張り落ち着くものだなと思いながら、イドルフリートは久方ぶりの散歩を楽しんでいた。

ひとつの場所に留まることはしないが、定期的に上陸はしている為、離陸していたのはそれほど長い期間ではなかった。
けれども、こうして自らの足で進み、踏みしめた感触が解る地面というのは、故郷に似た安心感があって、何とも気分が落ち着く。

イドルフリートが散歩を好むのは、窮屈な船内に閉じ込められていたからというのもあるが、八割方はそのような理由からだった。
散歩は、彼にとって心地の良いものであり、心が安らぐ一種のリラックス方法のひとつの筈だった。
筈だったのだが。

どうも、最近可笑しい。
眉を潜めて顎に手を充てながら、イドルフリートは考える。

どくどく、というか。
ちくちく、というか。
痛みにも似たよくわからない何かが、胸中で渦巻いてとぐろを巻いている。
然し、それは常にというわけではなく。
だからといって、何時それが起こるのかは彼自身にも解らない。

原因不明、正体不明。
実に不可解で不快なものに、イドルフリートは悩まされていた。

始めのうちは、何か流行病にでも掛かったかと思っていたのだが、その割りには症状が悪化も回復もしないし、些か軽過ぎる気もした。
クルーにも訊ねてみたが、そんな症状は出ていないと言うし、聞いたこともないと言っていた。

(…そういえば)

コルテスだけは、妙な顔をしていた気がする。
上手く表現出来ないが、色々な感情が混ざったような表情を浮かべて、口元が引きつっていた──気がする。
問い詰めても答えてはくれなかったし、結局「自分で気付け」と言われて話を切り上げられてしまった。
取り敢えず癪に触ったので貶してはおいたが。

コルテスは変に過保護なところがある、とイドルフリートは思っている。
それは事実であるし、コルテス自身もそう思っていた。

なので、若しもこの何かが病だったとしたら、あのコルテスの反応は可笑しい。
もっと動揺して世話を焼く筈だ。恐らく。
コルテスはこの原因を知っているようだったし、その上であの態度なのだから、これは病の類ではないのだろう。

そう考えると少しは気が楽になるものの、だからといって安心は出来ない。
根本的な解決には至っていないからだ。

あまりにも深く思考の海に潜っていたからか、声を掛けられるまでイドルフリートはそれに気付くことが出来なかった。

「──兄ちゃん危ねぇッ」

はっとして顔を上げると、無造作に積まれた所為でバランスを崩した大きな木箱が倒れて、その中身ごと降ってくるところだった。
やけにゆっくりとした動作で迫ってくるそれらに対応出来ず、瞬間的に目を瞑る。

「………?」

来るべき筈の衝撃が何時まで経っても来ないことに閉じた瞼を開けると、視界に輝く金色が広がって目を見張る。

見覚えのあるそれに動けないでいると、イドルフリートが見ていることに気付いたのか、彼が振り向いた。金が、ふわりと舞う。

「大丈夫かい?」

心配顔で顔を覗き込んでくる彼に、イドルフリートは呆然と呟いた。

「……王子…」












「驚いたよ。君を見付けたと思ったら、何時になくぼうっとしているようだったし。避けるかと思ったら、どうも気付いてもないようだったし」
「……」
「でも、怪我がないようで良かった。君の美しい肌に傷が付いたら大変だ」

そう言って、彼──赤の王子が爽やかに笑いかけてくるのを、イドルフリートはげんなりとした表情で見つめていた。

「何故君が…」
「君に会いたくて」
「………」

途端、物凄く嫌な顔をしたイドルフリートに愉快そうに笑って、「冗談だよ」と王子は続けた。

「偶々さ。視野を広げる為にも、本格的に海にも足を向けようかと思ってね。その準備を少々。この街は品揃えが良いからね、荒片は此処で片付く」

空を仰ぎながら遠くを見るように目を細めると、「でも」と付け加えながらイドルフリートを振り返った。
訝しげに眉を寄せるイドルフリートに小さく笑みを零すと、徐にその手を掴み、自分の元へと寄せる。

「君に会いたかったのは本当。…イドル」

真っ直ぐにイドルフリートを見つめながら、愛しむようにその手に顔を寄せると、そのまま手の甲に口付けた。可愛らしいリップ音が、控えめに響く。

「…っ、…君は、相変わらず悪趣味だな」
「ふふ。君は相変わらず美しい。けれど、今日は何だろうね、」

珍しく動揺を見せるイドルフリートに嬉しそうに笑ったかと思うと、その笑みを妖しいものにすり替えて、王子はイドルフリートの顎を掬う。
咄嗟のことで反応出来ずにいるイドルフリートにその端整な顔を近付けると、耳元で低く甘く囁いた。

「……凄く、可愛らしいな」

仕上げ、とばかりにその耳にも軽くキスをして顔を離すと、イドルフリートの様子を伺う。

赤の王子は好色と言われるだけあって、常人より経験は豊富であるし、高いテクニックも持ち合わせていると自負している。
相手にその気がなくても彼が少し本気を出せば皆一様に彼に傾くというのに、イドルフリートに至っては傾くどころか揺らぎもしなかった。
何時も飄々と躱されるか、或いは流されるかで終わってしまう。

ところが、今日のイドルフリートは、何だか様子が可笑しい。
気が抜けているというか、ぼんやりしているというか。
兎に角、何時もの彼からは考えられない程に、無防備だった。

そんな想い人の隙に、付け込まない理由がある筈もない。
赤の王子はこれ幸いとばかりに押してみたのだが、さて。

(……どうかな?)

暫く観察してみたが、イドルフリートの様子はこれといって変わらなかった。
矢張り駄目だったか、と肩を竦めて小さく溜息を吐く。
そして再びイドルフリートに向き直って、──王子は瞠目した。

「──……っ!!」

顔をこれでもかと言わんばかりに真っ赤に染めて、眉を八の字に下げて今にも泣きそうな顔をしたイドルフリートが視界に飛び込んできたからである。

「……イドルフリート」
「…っぁ…」

真剣な声で名を呼ぶと、イドルフリートは弾かれたように王子へと視線を向けた。
その瞳には何時もの鋭さはなく、代わりに戸惑いが浮かんでいた。
その視線を受けて、王子は僅かに目を細めて、その真っ赤な頬に触れた。

「……今日は本当に可愛いね」
「……っ!」

くすりと笑って頬を撫でれば、イドルフリートが逃げるように小さく腰を引いた。
それを見逃す筈もなく、王子はその柳腰を掴むと、ぐっと此方へ引き寄せる。

「…逃げちゃ、ダメ」
「……ぁ、」

耳元で色気たっぷりに囁くと、イドルフリートから小さく声が漏れた。
その声色に色が含まれているのに気が付いて、王子は小さく笑む。

「…へぇ。イドル、耳が弱いんだ?」

わざと耳元で低く笑って息を吹き掛ければ、「ひぅ、」という何とも無防備で可愛らしい喘ぎが聞こえた。

イドルフリートはその声に羞恥を煽られたのか、更に顔を赤くして慌てて口を手で押さえようとしたのだが。

「ダメ」

イドルフリートの意図に気付いた王子が、彼が行動に移すよりも早くその腕を押さえた。

「君の可愛らしい声を塞ぐなんて…、例えそれが君であろうと許さないよ」

王子の言葉に目を見開いたイドルフリートだったが、やがて顔を俯かせると、絞りだすようにぽつりと呟いた。

「……好い加減に、してくれ…」

その、あまりにも弱々しい言葉と声に、今度は王子が瞠目する。
そして、少々やり過ぎてしまったということに気付いた。
謝罪しようと慌てて口を開いたが、王子がそこから言葉を発する前に、イドルフリートが言葉を放った。

「君が」

嫌われてしまったかもしれない。
軽く自己嫌悪に陥っている王子に向かって、イドルフリートは当たり散らすように言葉を投げ付けた。

「…君が!何か言ったり、笑ったり、……ふ、触れたりすると…、動悸が速くなって、い、息が上手く出来なくなる…っ」
「──へ、」
「だ、から、……あまり、私に近付、──っわ」

イドルフリートが全て言い切る前に、王子は堪らず彼を抱き締めていた。
王子の所為で動悸が速くなって、息が上手く出来なくなる。
それは、詰まり──。

(自惚れじゃあ、ないよね?)

どくどくと通常よりも忙しなく脈打つ2つ分の鼓動を感じながらも、王子は何だか信じられずに、心中で確かめるように呟いた。

イドルフリートがばたばたと藻掻くが、嬉しさ一杯の王子には気にならないようだ。

「…っ…は、離れ、」
「──可愛い。好きだ、好きだよイドル」
「……ぇ、あ…」
「愛してる。こんな言葉じゃ足りないくらい」
「……っ」
「だから、僕に君をくれないか。──イドルフリート」

しっかりと目を見つめて真摯に懇願すると、イドルフリートは今までで一番赤い顔をした。
赤い顔をして、それから彼にだけ聞こえるように本当に本当に小さな声で呟いた。








そんな彼の呟きを聞いて、王子が破顔しながらイドルフリートを更に強く抱き締めて──、イドルフリートもまた、そんな王子に抱き締められながら、小さくはにかんだのだった。










---------------
イドルさんが……デレた…だと…







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -