「105、105…と、ここか」
メモに書かれた数字と同じ扉を見つけると、ディークは立ち止まった。 重苦しい空気の漂う、精神科病棟の一角。 この扉の先に、今回の標的が居る。ディークは息を呑んだ。 扉に手をかけようとしたが、ここまで来て人違いだったらまずいと、 慌ててポケットから写真を取り出して確認した。
「…ったく、軍は何だってこんな若僧を…」
20歳前後といったところだろうか。相当若いことには違いない。 その写真の青年とは面識は無い。いや、面識はある筈だった。 どんな人間なのか、自分とはどんな関係なのか…何も記憶が無いだけで。 それを突然「殺して来い」と、軍の人間からそう命令されたのだ。 そうすれば、無くした記憶を全て元に戻してくれると。 青年については詳しい情報は一切与えられなかった。 ただ一つ、気になる情報を渡されただけ。 標的側はこちらを警戒しない筈だ、だから楽に殺れる…と。 何故、警戒しないと言いきれるのか…? これから命を奪おうとしている相手は、一体何者なのか…? だが躊躇っていては、無くした記憶は返って来ない。 彼らから聞かされた。大切な人が、ディークの記憶が戻るのを待っているのだと。 だから急いで記憶を取り戻し、その人の傍へ行ってやらねばならないのだと。 ディークは扉をノックして返事を確認すると、ゆっくりとノブを捻った。
 白い肌に茶色い長髪、深い茶色の瞳。 女性のように小柄で、ほっそりとした身体。 病室に居たのは、確かに手元の写真に映っていた通りの人物だった。 写真で見るよりも、だいぶやつれてはいたが。
「…ディー…ク…?ディーク…なのか…?!」
ディークは思わずその場で固まった。 やはり向こうはこちらの名を知っている。 つい先程までは生きているとは思えないような光の無い目をしていたのに、 ディークの姿を見た途端にぱっと表情が明るくなった。 これは妙だと思っていると、よろよろとベッドから降りた青年が抱きついて来た。
「ディーク…!ああ…お前、生きて…!」
ディークより頭一つほど小さい青年が背伸びをしてまで頬をすりつけてくる様子は、 どう見ても普通では無かった。その行動も言動も、ディークには何一つ理解出来ない。
「…あの…なんで俺…死んだことになってんだ?」
「俺には…そう伝えられていた…お前はもう居ないのだと…。
 ずっと一人で、苦しかった…だがもう関係ない、こうして再び会えたのだから…」
まるで恋人のような物言いに、ディークは混乱した。 軍で聞いた話では、ディークの大切な人というのは何処かでディークのことを待っている筈だ。 だが残念ながら、その人のことは顔も名前も覚えていない。下手をすると、男か女かも分からない。 恋人の他に、愛人が居るのだろうか?何処かで待っているのが恋人で、目の前の青年は愛人なのか? 考えれば考えるほど、解釈はおかしな方向へと逸れた。
「迎えに来てくれたのだろう?今…どうしている?」
一つだけ確かなのは、自分の記憶が戻るのを待っている人が居るということ。 こんな所で油を売っては居られない。
「…そうだな。俺、お前を迎えに来たんだ。ただ…」
ディークは愛想笑いを浮かべて青年を抱き寄せると、すかさずその背中をナイフで突き刺した。
「生きたままって訳には、いかねえんだがな」
普段は身の丈近くもある大きな剣を振り回すディークにとっては不慣れな武器だったが、 それでも隙だらけの相手の前には何の弊害も無かった。
「ぅぐっ…ディ…ク…?何…を…っ」
裏切られた。そういう目をしていた。 つい先程まで活き活きと輝いていた目は絶望で色を失い、涙が溢れそうになっていた。 その目と視線が合った途端、ディークはぐらりと意識が揺らぐのを感じた。
「悪く思うなよ…俺はお前のことは知らない。ただ、無くした記憶を取り戻すのにお前の命が必要なんだ。 俺が記憶を取り戻すの、待ってる人が居るんでな…」
「なっ…嘘…だろう…?…俺がっ…分から…ない…? 嘘だ…嘘…嘘だと言って…くれ…ディーク…!」
青年は背中を刺されたまま、ディークの両肩を掴んで揺さぶった。 訴えるような目、涙で掠れた声、青年の全てがディークの中の何かを強く揺るがした。 身体が震える。それも震え方が尋常ではない。寒気も、吐き気もする。 さらに頭が割れるように痛んだかと思うと、突然青年の笑顔が脳裏に浮かんだ。 記憶なのか幻影なのか、それすらも分からない。 ただ、そのまま焼き付きそうになるほどにしつこく浮かび上がって来る。
「やめろ…そんな目で見るんじゃねえ…俺は…俺はお前なんか知らねえ!!」
脳裏にまとわりつく影を振り払うように、ディークは青年に刺したナイフをぐいと引き抜いた。 鮮血がぼたぼたと音を立てて床に滴り落ちる。 その血の紅さに、ディークは思わずナイフを取り落とした。 血ぐらい、幾らでも見ている筈なのに。今更、怖くも何ともない筈なのに。
「ぐぁっ…おのれ…卑怯者のっ…ベルンめ…!がはっ…」
ディークが青年を捕まえていた手を離すと、青年はそのまま落ちるように床に倒れ込んだ。 倒れてしばらくは潤んだ目でディークを見上げていたが、反応が無いのを確認すると俯いた。
「…最早、愛する人からも必要とされないのなら…」
俯いたまま震える声を絞り出すようにしてそう言うと、青年は近くに落ちたディークのナイフへと手を伸ばした。
「こんな命…もう用は無い…!」
自らの胸を貫こうと、青年が手に取ったナイフを構えたその時。 ディークの手が、青年の細い手首をがっしりと掴んでいた。 何故そんなことをしたのかは分からない。ただ、身体が勝手に動いていた。
「…?…ディ…ク…」
ディークは青年の手からナイフを捨てさせると、その髪を指でゆっくりと梳いた。 この柔らかい髪の感触が好きだった。そんな気がしたから。
…懐かしい。
突然、そんな感情が湧いて来た。つい先程までは、何も感じなかったというのに。
「…なんでだろうな。俺はお前の名前すら分からねえ。なのに俺の身体は、お前をよく知ってるみてえだ…」
ディークは困惑した様子の青年を見下ろしながら、その蒼白い頬をそっと撫で回した。
…こんなにやつれてしまって。悲しい。 何処からか、そんな感情が次々と湧いて来る。
「なあ…俺の大切な人って…お前、なのか…?そうなんだな…?」
ディークの言葉に、青年は微笑んで大きく頷いた。 ああ、そうだ。この笑顔が見たかったんだ。 ディークは青年を抱き起こすとそのまま抱き締めた。 気がつくと、涙が頬を伝っていた。 愛してる…そう言いたいのに、名前すら呼べない。 青年はその細い腕をすっと伸ばすと、ディークの涙をそっと拭った。
「記憶が無くなっても…俺への想いだけは、生きていてくれた。それだけでも…嬉しい」
だからもう、いい。 そんな諦めの言葉にも聞こえた。
「身体は確かにお前を覚えてんだ。このままずっと一緒に居れば、いつかは記憶も…」
「そうかも…しれんな。だが、俺は…もう…げほっ」
ディークの胸元が、青年の血で紅く染まった。 先程から青年を支えている腕も、血でじわじわと濡れてきているのが分かる。 ふと、青年の血を見ただけで思わずナイフを取り落とした理由を理解した。 血など怖くも何ともない。怖かったのは、それが愛しい人の血で、自分が流したという事実。
「しっかりしろ、その傷なら俺が何とかする!傷つけた分俺が責任持って助けるから…頑張れ!」
「俺の…名前…」
「もうよせ、これ以上喋ったら傷が!…ん?…今、何て…?」
「初めの…文字は…R…」
ディークの腕に揺さぶられながらそれだけ言うと、青年は静かに目を閉じた。
「…R…?…R…ル…」

 異変に気付いた看護士が青年の病室に入ると、窓が開け放され、そこに居たはずの青年と見舞客の姿は消えていた。 床に残った大量の血痕が事態の恐ろしさを物語っていたが、何よりも派手に切り取られたシーツが奇妙だった。 後になって流れた噂によれば、青年と見舞客の二人は共にとあるエトルリア大貴族の傭兵で、 ベルン軍の研究所で行われているという人体実験の秘密を暴こうと侵入したきり、行方が分からなくなっていたのだという。 あの日病室で何があったのかも、病室から姿を消した後の二人の行方も、誰一人知らない。

 目を覚ますと、いつもと違う、見慣れない天井が見えた。 今まで居た病室ではない、何処か別の場所であることは確かだった。 そこは薄暗い部屋で、病院の一室ではなさそうだった。どちらかと言えば、廃墟だ。 その部屋には、自分の他には誰も居ないようだった。 どのくらいの間、眠っていたのだろう。 手元の時計の日付を見ると、最後に意識があった時から7日間ほどが経っていた。 7日前と言えば、死んだと思っていた愛しい人が会いに来てくれた日だ。 だが彼はベルン軍の仕業か記憶を失っていて、危うく殺されそうになって。 その後の記憶は霞んでいてよく分からなかった。 あれは夢だったのだろうか。あの人はやはり死んだのだろうか。 眠っている間、ずっとあの人の夢を見ていた。 あの人と幸せに過ごした日々の夢。 いつも自分のことを気にかけてくれていたあの人。
『おはよ、ルトガー。今日は、怖い夢見なかったか?』
目覚めの時にはいつも必ずそうやって声を掛けてくれた。 子供扱いされるのは少し気に入らなかったが、何よりその気持ちが嬉しかった。 思い返せば思い返すほど、幸せな日々だった。 だが今となっては、あれは全て夢だったと思うことにした方が気が楽なのかもしれない。 その時、古びた扉がギィと音を立てて開いた。 驚いて振り向くと、そこには。
「おはよ、ルトガー。今日は、怖い夢見なかったか?」


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