岩礁に波が砕ける音が響く崖沿いに、追い詰められた者独特の焦燥感を放つ初老の男が立っていた。
その男に対峙するのは、すらりとした長身の青年だ。
もみあげの目立つ短髪に緑のハンチングを被り、同色のベストを着ているが、しかしそれがせっかくの優男ぶりを野暮ったく見せてしまっている。
青年は、優雅な仕草で男を指差すと朗々とした美声を張り上げた。
「君のやっていることは、全てお見通しだよ!」
ビシィッ!
キメポーズよろしく指を差す青年、そのまま数瞬の間が開き、波の音が響いたかと思うと─
「ハイ、カーットッ!!」
監督の掛け声に、役者である青年らを含む現場の人間達は皆緊張を解き、思い思いに口を開き、動き出す。
木曜ゴールンデン枠の人気ドラマ『POISOn』の収録現場で、主役格を務める俳優・ココは
マネージャーから受け取った紙コップに口をつけた。
「…あれ?コーヒーの銘柄変えた?」
唇を湿らす程度口に含んだだけで指摘してくるココに、マネージャーのヨハネスがサングラスの上からでも分かる驚きの表情を浮かべる。
「ハイ、いつものものを切らしてしまいまして。申し訳ありません」
「いや、これも美味しいよ。いいものを選んだね」
「恐縮です、ありがとうございます」
そんな些か堅めな雰囲気漂う二人の会話を、呆れたように眺める者がいた。
「…大層に言ったところで、たかがインスタントじゃん…」
ココの共演者にしてもう一人の主役格、今人気急上昇中の若手女優、リンだ。
明るい顔立ちに短い髪がよく似合う彼女は
海風を避ける為、衣装であるワンピースの上から暖かそうなブルゾンを羽織っている。
「たかがインスタント、されどインスタント。だよリンちゃん」
「ふーん、そんなもんなん?」
ウチ、コーヒーなんて飲まないからわからないし〜。
あきらかに興味の無さげな相づちを打っていたリンだったが、監督に次のシーンの準備を指示され
歩み出す。
ココも移動すべく、ヨハネスと共にリンの隣に並ぶと
ふとなにかを思い付いたらしいリンが、茶目っ気たっぷりの顔でココを見上げて言う。
「…そー言えば…お兄ちゃんの出てるグルメ番組に今度から新しいレギュラーが増えるんだって。ココ知ってた?」
「サニーの?いや、初耳だな」
リンの兄サニーは、グルメアイドルとして今でこそ絶大な人気を誇っているが
元はメンズファッション誌のモデルとしてデビューしていた。
ココも同じ雑誌でモデルとして活躍していた経緯があり
サニーのことは、後輩として可愛がっていたものだ…─サニー自身はココの兄貴ぶりを酷く嫌がっていたものだが─。
「そっ。なんかずっと番組にレシピ提供してた一般の料理人らしくて、」
「ああ、こまつシェフ、だっけ?」
「そうそう、小松〜なんかちっさくて、愛嬌のある顔してて和むんだし〜」
くすくすと笑うリンの横で、ココは先だって放送されていた『サニーのビューティフルキッチン!』のEDで流れていた、サプライズバースデーの映像を思い出していた。
誕生日のサニーにスタッフがサプライズで用意した特大ケーキ。
そのケーキのプレゼンテーターとして登場したのが件の小松シェフだった。
番組開始当初からレシピを提供していた事や、最近ではサニーがずっと小松シェフという人物に会ってみたいと言っていた事などが簡単なテロップで説明される中
ケーキを差し出す小松の姿は…なんというか、ココ流にはっきりと言ってしまえば滑稽、であった。
それと言うのも、その低身長や顔立ちの凡庸さはさることながら、所作の全てが危なっかしい。
腕はやたらと上下に振られ、しきりにソワソワと足踏みをし、口を開けばへどもどと要領を得ない。
さる五つ星レストランのシェフを務めるにしては、貫禄が欠け過ぎてはいまいか─そう思いながらテレビを眺めていたココだったが
同時に、彼がいかにサニーに心酔しているか、心からその誕生日を祝っているかがよくわかった。
何しろ観察力の高さには、定評のあるココが感じたことだ、その辺りは間違いはあるまい。
『おっおた…おたんじょうび……おめでとうございますっ…サニーさん…!』
真っ赤な顔でコック帽を握りしめていた、小さなシェフの姿を
なんとはなしに思い出しながら、ココは何気ない様子でリンに尋ねた。
「…リンちゃん『ビューティフルキッチン』の次の撮影日って、知ってる?」
「えー?お兄ちゃんの仕事のスケジュールとかウチ知らないしー」
半ば予想していた返事だったので特に痛痒も感じず、ココは半歩後ろに控えるヨハネスに振り返った。
「ロケ終了までには調べておきます」
こともなく返す優秀なるマネージャーに、ココはにっこり笑う。
「頼むよ」と短く告げると次のシーンを演じるべく、スタッフらの元へ去って行った。
後に残ったリンの登場シーンはまだ先だ。
早速何事かを携帯端末で調べだしたヨハネスに
彼女は呆れたように意味深な台詞を呟いた。
「まーたココの悪い癖が出たし…」
「いつものことですから」
取り合う様子もないヨハネスに、リンは会ったこともない相手ながら
かのシェフの身に降りかかるであろう騒動を思い、空に向かってため息をついたのだった。