“それ”は何の前触れもなく、沸いて出たような唐突さでトリコらの前に姿を現した。


二足歩行を行っているが、明らかに人間には見えない。


(こいつヤバイ─!!)


一目見て─いや、その気配に触れるなり、首の皮が突っ張るような激しい悪寒を感じた。

波打ち際から陸に上がろうとしている生物の手に携えられた網には、先ほどまでトリコ達が舌鼓を打っていたフグ鯨が大量に入っている。

ホザボサの毛に覆われた、表情の伺えない長い顔が無感情にこちらを向いた。


「小松!!離れろっ!!!」


瞬時に戦闘体制に入ったトリコは背後のか弱い存在に、待避の指示を出すが当の本人は状況を呑み込めていないようで「え?」と呆けた声が返ってくるのみだ。


「離れてろ!!!」

再び叫ぶと同時、


「はァアァ!!」


斜め前で構えるココの肌が、鋭い気合いと供に漆黒に変色していく。


致死性の猛毒─つまりは

(ココも本気だ─!!!)

悟ると同時、自らも最大限覇気を高めるためトリコは叫んだ。


「うぉぉああぁああ!!!!」


凄まじい闘気を発する鬼さながらのトリコと、致死毒を纏って殺気を放つココ、両者ほどの手練れが揃っての威嚇にも、かの生物はなんの反応も示さなかった。

いや、あえて述べるならば、長い指先でポリポリと─緊迫した状況にひどく不釣り合いな仕草で─額と思わしき部位を軽く掻いたことくらいか。


そして謎の生物は、緊張しきりのトリコ達の前を悠々と通りすぎ、一度やたら人間くさい動作で振り向いた。


途端、四天王の二人の緊張感がぐっと張り詰めるように増すが、どこを見ているのか定かではない生物の目線は、戦闘体勢を整えた二人をすり抜けてさらに後ろ─へたりこんだ小松を捉えているように見える。


(え…!?ぼ…ボク…?)


それを察知した小松は内心大いに怯えたが、しかし大した間もおかず、謎の生物はゆっくりと洞窟内へと姿を消してしまったのだった─。










後に残された三人は、しばし呆然とした後めいめい緊張を徐々にほどいていった。

致死毒の精製に凄まじい集中力と体力を削り取られたココは、珍しく地面に膝をつき息を上げている。

小松はと言うと、急な展開に声も出ない様子で、地べたにへばりついて立ち上がらない。


未だビリビリと身の内を駆け回る闘争本能を鎮めているトリコは、砂浜に残された奇妙な形の足跡に気がついた。


「今の奴の足跡だ…オレらが来た時には無かった…つまり…海側から来たんだ…深海1000メートルを潜って…」

そんな生き物がいるのか?


トリコの疑問に答えたのは電磁波すらも見透すココだ。

「生き物じゃない」

「え?」


訳がわからない、そんな様子のトリコと小松に、彼は驚異を感じていることがありありと分かる表情で、噛んで含むように繰り返した。



「今の奴は…生物じゃない…!!」










「…フム…」


洞窟を驚異のスピードで抜けた生物─ココに言わせると生けとし物ではないらしいが─は、明るい地上でまたもポリポリと額を掻いていた。

「…アノ《精液人形》ガ、マサカマダ生キテイタトハ、ナ」


機械的な音声が頭部からこもって発せられる。

どうも人語を解するようだ。


「シカシ驚異的ナ 回復力ダ…興味深イ…場合二ヨッテハ…一度回収シテミルノモヨサソウダ」


ひとしきり一人ごちたのち、謎の生物は振り返ることもなくその場を立ち去った。


生物が返り討ちにした、盗賊やグルメ警察らの、惨たらしい死体の山を後にして─。









上方へとぽっかり垂直に空いた縦穴─トリコとココも降りてきた、長い穴だ─を振り仰いで小松は困惑げな声をあげた。


「…すごい穴ですけど…これを登るんですか?」









小松の言にトリコとココは、きょとんと顔を見合わせた。

「んなこと言っても、お前…」


ボリボリと後ろ頭を掻きながら言うトリコの後を、ココが引き継ぐ。


「小松くんだって、ここを降りてきたんじゃないのかい?」


ごくシンプルかつ、もっともな指摘だったが、小松の目は瞠目に見開かれた─。






















強大な力を秘めた不気味な存在との対峙を経て、それなりに疲弊した一行は早々に洞窟を後にしようと出発した。

そもそも洞窟外で、小松救出をゾンゲに請け負ってきた経緯もある。



「ゾンゲ様が!?そうだ、早く戻らなきゃ!きっと心配してます〜!」


事情を聞いて慌てる小松の背中に、ココが何気なく声をかけた。

「仲間思いなんだね」


「はい?」


振り返ってまで聞き返されると困ってしまう。

たいした意味もない、話の継ぎ穂くらいの言葉にすぎなかったのだ。


「あぁ、いや。仲間同士、気遣い合って素敵だねって」

曖昧に笑いながら付け足すと、小松は嬉しげな笑みを顔いっぱいに浮かべ

「ええ!とても素敵なご主人様です!!」


と、元気よく答えた。


その答えを聞いた洞窟内を歩む一行
─と言ってもトリコとココ、二人だが─
の足が極端に鈍くなる。


「“ご主人様”って、お前さー…」


「え、何ですか?トリコさん」


「いや…何でもねェ…」


溜め息のような口振りでトリコは言葉を濁した。何にでもサッパリとした態度のこの男にしては珍しい。

だがしかしココはトリコの反応に、心中同意しかない。


(自分を卑下しているとかいう以前の問題だな、この子は…)


己れが人以下のモノ、所有される存在であることを許容しきっているのがよくわかる。


自ら「ドール」であるとあっさりと明かし、男の精液を「ごはん」などとてらいなく言い放つのがいい証拠だ。


(“ドール”…ねぇ)


ココの視覚は勿論、トリコの嗅覚も、小松が言う「人間ではない」証左を得なかった。


それは取りも直さず、自分をドールだと言う小松の言葉が
─故意ではないにせよ─
嘘であるという事ほかにないのだが…。

しかしその点は、今の時点で二人の四天王の胸中にしまいこまれ、口をついて出ることはない。
ひとまずは脇にやってよい話題であろう。


話は冒頭に戻る。






「小松くんだって、ここを降りてきたんじゃないのかい?」


ココの何気ない質問に息を飲んだ小松は、動揺も露に口ごもった。


「…いや、どうなんでしょうか…なんと言うか、あの、その…」


「記憶が、ない?」


オロオロと言い淀むのを、ココにあっさりと指摘され
小松の目はさらに
─これ以上ないほどに─
見開かれる。


「どうして?って顔してるね」

苦笑するココの横からトリコが口を挟む。


「ココの目じゃなくても、わかるぞ。お前の顔見てりゃ」


「そうなんですか…?」


「暗くて視界が利きにくい上、危険な生き物が多いからね。襲われて逃げているうちに、記憶が曖昧になるのも仕方ない」


ココのフォローじみた言葉にも、小松の表情は晴れない。

薄暗い洞窟内をものともしないココの目には、それがはっきりと見えていたがあえて深い言及は避けた。


「よし、じゃあよじ登るぞ。小松は俺らの背中に乗ってな」


なにが“よし”で“じゃあ”なのかサッパリだが
とにかくそれだけ言ってさっさと岩壁に取りつくトリコを、小松が慌てたように止めた。


「ちょっ…えっ…こんな足場もないような穴、道具も無しで登るなんて無茶ですよ!」


「あれ?小松、フリークライミングしたことねーのか?」


「ふ、ふりー…?…いや、とにかく無理ですってば! 危ないですよトリコさん!!」


半泣きで止める小松の言にさして反応を見せないトリコは「まぁ、そこで見てな」短く言い残し、その巨体をものともせずにヒョイヒョイと岩壁を登っていってしまった。


あっと言う間に上方の暗闇に呑まれるその姿を、小松があんぐりと口を開けて見上げていると

「おい、トリコ。勝手に一人で登るんじゃない、小松くんをどうするつもりなんだ」

同じく上を見上げるココが、呆れ声で呼ばわった。


「お前が連れてくればいいだろ、ココ」

あっさりとした答えが上から降ってくる。

そのやり取りを聞いた小松が、やはり慌ててココに言い募った。


「あ、あの、ボク、こんな穴登るのはとても無理なんで…図々しいかもしれませんが…」

ココさん連れていっては頂けませんか?
そう続くはずの言葉は、苦笑じみた溜め息にかき消される。

「…そうしてあげたいのは山々だけど…ちょっと障りがあってね。
…トリコにおぶってもらったほうがいい」


暗闇の中うっすらと見える苦笑いのココは、呟くようなごく小さな声でそう言うと
今度は声を張り上げてトリコに呼び掛けた。


「オイ!聞こえないのか、トリコ。降りて来いってば」


しばしの間をおいて頭上から

「わかったよ。ったく、ウルセー奴だ」

トリコのぼやく声がしたかと思うと、

「ほっ」

膝を縮めたポーズで地上に着地してきた。


「ホレ、来いよ小松」

「は、はいっ!ありがとうございます」

背を向けてわずかに屈むトリコの分厚い肩に、小松がおずおずと近づく。
と、

「ココだって小松連れて登るのなんてワケねーくせによ」

何気なく呟かれた呆れ声に、
その厚い肩にかけようとしていた小松の手が、ピクリと空中で止まった。


「そうなんですか…?え、じゃあ“障り”って…」


「よけいな事言うなよ、トリコ」


「だって本当のことだろ」


短い二人のやり取りの間に挟まれて、途方に暮れてしまった小松を気遣ったのだろうか。

ココは細い溜め息をつくと、あえかな笑みで核心に触れた。


「僕は“毒人間”なんだ」


「え…?どく、ですか?」


「品のない“精食人間”がいるんなら、もっと品のない“毒人間”がいたって不思議はないだろう?」


口端を持ち上げチクリとやるココの言に、トリコの解説がかぶさる。


曰く、トリコら美食屋の多くは、毒を持つ生物に対し体内に“抗体”を持つのだと言う。

ココの場合、常人をはるかに上回る量の抗体を持つ体質に恵まれていたが
あまりに多くの毒を体内に混入した為それが混合し…
ココの言うところの“最も品がない”毒人間となってしまったのだ、と。


「でも…さっき、砂浜にいた時は…」


小松は思い出していた。

洞窟の砂浜で、火傷の様子を診てくれた、冷たい、けれど大きく優しげな手を。

フグ鯨を捌く際、緊張しきりの小松を励ますように、控えめにわずかに触れた指の先を。


「普段は毒をコントロールしているから、そうそう危険なことにはならないけれど…体を密着して上まで登るとなると…ね。念には念をいれたほうがいい」


薄闇の中でわずかに笑ったその顔に、どこか寂しげな影を見つけた瞬間、小松は思い切り地を蹴ってココの背中に飛び付いた。


「ぅわっ!?あ…ちょっと…小松くん?」


「ボク、ココさんと一緒に登ります!」

「だから、僕は毒が…」


驚き慌てるココに、小松は笑顔で言いきった。

「毒?水清ければ魚棲まず!でしょ!?」

「人間“毒”があるくらいが好まれますよココさん!」


「こ…小松くん…」

「さあ、行きましょう!!」


さっきまでで、半泣きでへどもどしていたのはどこのどいつだよ…
二人のやり取りを眺めて、呆れるトリコだったが
それが小松なりの、ココに対する気遣いでとった行動だということは、考えるまでもなくわかっていた。


「んじゃ、話がまとまったところでさっさと行くぜ」


再度岩壁に手をかけながら、トリコは何故か内心、笑い含みが止まらなかった。


“ドール”ってヤツは、随分と優しい生き物らしい、と。











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