「…松、おい、小松!」
大きな声で呼び掛けられて回想の水底にいたボクは、急に引き上げられた魚みたいな気分であたふたと目の前にいる人へ視線を巡らせた。
「…お前食わねーの?」
呆れたような声で示されて、見やれば残り僅かになった肉が皿替わりの大きな葉の上に乗せられている。
トリコさんが人の食事の世話を焼くなんて、珍しい。
ちょっと面食らいながらも、いただきます、と口に運んだ。
ほどよく乗った脂と旨味たっぷりの熱い肉汁が、口の中いっぱいに広がって、思わず顔が綻んでしまう。
「ぅ…みゃー…」
控えめに、けど押さえきれない感嘆の声に、トリコさんが笑ってこちらを見る気配を感じた。
…そういえば、ボクがこうやって何かを食べている時のトリコさんは、いつもの皮肉めいた笑いかたじゃなくて、本当に嬉しそうに笑ってる。
いつもそんな顔しててくれたら、ボクももうちょっとは彼のこと苦手じゃなくなると思うんだけど。
だけどこうやって美味しいものを食べてても、ボクの思考はすぐに、遠く離れた監獄へ飛んでいく。
…ボクばっかりこんな美味しいもの食べてて、申し訳ないな…。
叶うなら、毎日だってゼブラさんの好物を沢山たくさん、作ってあげたいのに。
「…ゼブラさん、お腹空いてませんかね…?」
ボクの呟きに返されたのは、先ほどの穏やかな笑みを浮かべていた人物が発したとは到底思えないような、荒々しい舌打ちが一つ。
「…な、なんですか?なんか怒ってます?」
なんだか空恐ろしいような雰囲気を感じて首を竦めると、炎の明かりを映した鋭い目付きが剣呑に光ってこちらを睨めつけていた。
「…愛しの旦那さまがいない夜の一人寝は寂しいなァ?オクサン?」
さっきの、一瞬見せた穏やかな空気なんて全部凪ぎ払った、悪意にまみれた笑顔が、ひどく背中を震わせる。
「…今夜は、しないって、…」
「気が変わった」
「…そんな…」
背中をゾワゾワと何かが駆け抜けてく。
知ってる、これは恐怖と嫌悪だ。
時たま、この人はボクに向けて、普通なら女の人に向けるような類いの視線を送ってくる。
もっと直接的に言うなら、情欲の目だ。
正直ボクには全くもって理解しがたい。
25年間生きてきて、女の人にだって言い寄られたことないようなボクに。
ましてやトリコさんみたいな、実力のある美食屋が、なんだって男相手…ましてやボクなんかで性欲処理をしようっていうのかが、理解の範疇を越えている。
「さっさと食っちまえよ」
俺も早くくいたくなってきた。
ギラギラとした目付きでそんなことを言われて、ボクは補食される獲物のような心地になる。
怖い、嫌だ。気持ち悪い。
痛いのは嫌だ。自分の体を玩具みたいに扱われるのは、本当に、嫌だ。
「い…や、です」
震えながら、なんとか乾いた声で訴えるとすぐさま冷たい声が返ってきた。
「…あぁ?オメーに拒否権とかあんのかよ?」
別に俺はいいんだぜ?このまま帰ったって。続く冷笑に、途端に涙腺が緩み出す。
そうなんだ。
今回のハントは、いや、トリコさんのボクを伴うハントの全ては、獄中のゼブラさんの為のものなんだ。
ゼブラさんが捕まって、ボクは彼の釈放を求めて奔走した。
伝を辿って、IGOの上層部の方にも直訴に行った。
最終的にボクの訴えは認められたけど、それには条件があったんだ。
それは、100種類の新種食材を発見すること─。
「別に俺は構わねーぜ?残り…何種だったっけ?…まあとにかく、お前が一人で100種類達成させる為のハントに行くってなら。特に止める理由もねーしな」
残った肉の骨を片手で弄びながら、飄々と言う彼の表情は、真顔のそれとあまり変化がないというのに、どこか愉しげに見えた。
一介の料理人であるボクが、一人で100種類の新種食材を発見する。
それがいかに無茶で無謀な挑戦かなんて、目の前の人が一番よくわかってるはず。
カラン、軽い音を立てて獣の骨が石だらけの地面の上に放り捨てられた。
確実に潤んでいる自覚がある目で、必死に彼を見上げると、つまらなさそうな顔が揺らめく炎に照らされて、ひどく恐ろしげに見えた。
「……………いて、くださ…い……………」
「アァ?聞こえねーよ」
はっきり言えよ、オクサン?
ああもう、いい加減その呼び方はやめてくれ!
力足らずのボクが、どう言われたってもう構わないけど、あの人を汚すようなその物言いは本当に不愉快だ。
なのに、ボクの口はただひたすらに喘ぐような呼吸を繰り返すばかり。
ポタポタと垂れる熱い雫を地面に振り落としながら、ボクは懸命に声を振り絞る。
青い髪の獣に、己を差し出す恥辱の言葉を。
「 」
そうして獣は、酷く野蛮に笑うのだ。
やっぱりテメーは格段に臭えと吐き捨てながら。
それは思慕の香り。
決して手に入れられぬからこそ、憎らしい、親愛という名の。