「あ〜?小松、お前料理人じゃないの!?」
素っ頓狂な声を上げるトリコに、小松が答えた。
「は、はい、料理人としての実績は特にありません」
趣味の手習いです、と苦笑いするその手には、よく手入れされた包丁が一本、大事そうに握られている。
フグ鯨を捌くようココから勧められた小松が放った一言は、先ほどのドール発言よりも余程トリコを驚かせていた。
それというのは
「えぇ?ボク、調理師免許もってないのにいいんですか?」
というもので、これには誘いをかけたココも幾分面食らった。
「小松くん…君、料理関係のお仕事してるんじゃないの?」
不躾でごめんね、と言い添えたココに、不思議そうな
─しかしどこかくすぐったいような─
顔で返す小松。
「いろんなお店でお手伝い程度のことはした経験なら、少し。でも趣味の範囲ですよ」
そして、トリコが小松を運ぶ際に一緒に持ってきていた、真っ黒に汚れたナップザックを大事そうに開くと、中から丁寧に包まれた包丁を取り出した。
「もし…そんなボクでもよいと言うなら、ぜひ挑戦させてほしいです。…図々しいお願いではありますが」
包丁を片手に真剣な目を向ける小松に、ココは一瞬目を見張った後、力強く頷いた。
片やトリコはというと─。
「あ〜?小松、お前料理人じゃないの!?」
と、ここで素っ頓狂な冒頭の叫びに繋がるというわけだ。
「というか…どうしてボクが料理人だと思われたんです?」
小松の問いに、トリコは頬をかく。
「だって、お前すげーいろんな組み合わせの食材の匂いがしたからさ、電車の中で……」
言いかけて、またあの不快な匂いを思いだし、トリコの鼻に自然と皺がよる。
「匂い??」
小松のほうはと言うと、トリコの言葉を不思議に思ったのだろう。
しきりに自分の肩のあたりなどを嗅いでいる。
けれど、パッと顔を上げて、
「…あ!そういえばそうでした!
あの電車の中でも……今も。ありがとうございました!…えっと、トリコ…さん、それと、ココさん、も」
助けられた礼はおろか、自己紹介もまだろくにしていなかったことに
遅ればせながら気づいたようで、つっかえつっかえ礼を述べるのをココが留めた。
「気にしないで。それよりも、とりあえずは先にフグ鯨だ」
僕が指示するから、君が捌いてくれる?
ココの言葉に、小松は緊張しながらも嬉しげに答えた。
「ハイッ!がんばります!」
そんな小松の生き生きとした表情を横からチラリと眺め、トリコは満足気に葉巻樹をくわえた。
が。
「あ。そういや海に浸かったんだった…」
海水で湿気ていることに気づき、頭をかいて苦笑いを漏らしたのだった。
ゆっくり、ゆっくり…丁寧に─。
静かに的確な指示を出しながら、ココは内心小松の腕前にひどく感嘆していた。
小松の淀みない手つき、迷いのない包丁さばき。
失敗しても次は同じミスをしないどころか、言葉で伝えにくい微妙な力加減を感覚で察知し、自ら的確な刃捌きをこなす。
(これでプロでないわけがない─)
それどころか五つの星を冠するシェフと遜色のない腕前かもしれない。
「そう…裏についている粘膜も丁寧に取り除く…」
毒袋を掌に乗せた小松の額は、汗でびっしょり濡れている。
今捌いている個体で最後のフグ鯨だ。
潜ればまだ他にもいるだろうが、ここまで来て失敗は避けたい。
「…やさしく…慌てないで。ゆっくりと…」
波の音が静かに反響する中、ココの声だけが低く響く。
先ほどまで、まだかまだかとやかましかったトリコも、今は熱心に小松の手元を見守っていた。
後は毒袋を取り除くという段になり、ココは改めて感心した─。
緊張のピークに達しようという重要な場面において、小松の手はピクリとも震えず、素早くしかし繊細な動きで毒袋を切除したからである。
「よぉおーーしっ!!成功だ!」
毒が排除されたことにより輝き出したフグ鯨を前に、三人は高く反響する喜びの声を上げたのだった─。
「おいじいです…!こんな刺身初めて食べまじたよ…」
自身で卸した刺身を口に入れ、涙を流さんばかりに感激する小松に、味の余韻に静かに浸り幸せそうに微笑むココ。
そしてトリコは口一杯に頬張った刺身を咀嚼し、ヒレ酒をくっと飲み干し満足しきりの吐息を漏らす。
各々が、深海がもたらした類い稀なる美味に酔いしれている最中、トリコの目が可笑しげに小松に向けられた。
「こんな刺身は、初めて食ったか、小松」
「はい!生まれて初めてです〜」
一生忘れません!と目を輝かす小松に、トリコがニッコリ、どこか人の悪そうな感もある笑みを浮かべて言った。
「な〜んだ。お前セイエキだけ美味いって感じるわけじゃないんだな」
トリコの斜め隣で、ココの肩がかすかに動く。
その眉間には、縦皺が二本寄って見えた。
「あぁ…そうですね。栄養的には全く無意味ですが、皆さんと同じ食物を口にできますし、味覚も変わらないと思いますよ」
意味深な─一見、皮肉っているようにも見えるトリコの態度にも、小松は特に頓着せず答える。
それに対してトリコは、大きな手で箸をくるりと一回転。
うって変わって真面目な表情を作ると、こう切り出した。
「お前本気で自分が“ドール”だなんて信じてんのか?小松よ」
本気で自分が“ドール”だなんて信じてんのか?
唐突なそのの問いかけに、小松の瞳が大きく二回、瞬いた。
「それって…ボクが思い込みの激しいヘンタイって言ってるように聞こえます」
「お、わかってんじゃねぇか」
不調法な物言いでカラカラと笑うトリコだが、小松のほうは特に感情を乱した様子もなくあっさりとした表情だ。
逆に第三者であるココのほうが、トリコのずけずけとした物の言い方に耐えられぬようで、苦虫を噛むような顔をしている。
「お前、栄養学的にどうこうってさっき言ってたけどな…実際に精液“だけ”を糧として生きるなら、お前のその姿からしてまず説明がつかない」
「姿…ですか」
まあ、確かにボクの見映えはいいとは言えないものですが…。
自らを省みた小松の呟きを、大きな手で留めたトリコがさらに続ける。
「俺が言いたいことは、そういうことじゃなくてな……」
面倒くさげな息を吐きつつも、トリコは簡単に、しかし的確な表現で説明を始めた。
そもそも生物の形には、みなそれなりの意味があって今の形を成している。
キリンの首は何故長いのか?
ヘビは何故四肢を持ち得ないのか?
鳥は?魚は?人間は?
─進化の過程で必要な機能を組み入れ、逆に不要と思われる機能は、余分なエネルギーを使うことを避ける為にも捨て去ってきた。
それは取捨選択と言う名の、全ての生物に備わった繁栄戦略だ。
人間の精液のみを栄養源とする生物─。
もしもそんなものが存在したとして、さてその成分だけで果たして人間体を維持し得るだろうか?
また、液体のみを摂取すれば良いならば、歯や消化器なども単純化してしかるべきであろう─例えるならば、生き血を吸うヒルのように─。
─そこまで話したところで、トリコは一端話を区切った。
ペラペラとやりすぎたか唇の乾きを感じ、黙ってヒレ酒を注ぎ直す。
そんなトリコの動作を目線だけで追うココは、先ほどから無言を通していたし
小松はというと、何やら思うところがあるのか、やはり黙りこんでいる。
そんな二人に構うことなく、ヒレ酒に舌鼓を打つトリコだったが、何かを思い出したようにさらに付け加える。
「ああそうだ。なあ小松」
「あっ…はい。なんでしょう?」
「お前さ、プペ・フグレヌって知ってるか?」
「は、はい…?ぷぺぷペ…フグフグ…??」
「プペ・フグレヌ。グルメ界に生息してると言われる人に似た生物の名だよ…そうだったな、トリコ?」
小松の言を訂正したココは、トリコが頷くのを確認すると、自らその後の解説役を引き取った。
「“それ”の主食は主に大型哺乳類の生殖液…まあつまり…」
コホン、と空咳を混ぜて言い淀むココに
「ボクとおんなじ“ごはん”なんですね」
気にした様子もなく、呑気に続ける小松。
さらにトリコが後を追う。
「“そいつ”の姿は俺も標本でしか見たことはないが…」
と、そこで
ザブン!
大きな波音が立ち、トリコの言葉は一時途絶えた。
三人があえかな光を反射する海を振り返ると、銀の鱗が飛沫の合間に光って消えるのが目に入る。
なにがしかの魚が跳ねたのだろう。
─言葉尻をかき消されて興を削がれたのか、首を鳴らしだしたトリコに、小松が話の続きをせがんだ。
「それで、どうだったんですか?」
「あ?どうって、何が?」
「今言ってたじゃないですか〜!ぷぺ…ふぐふれ…?の標本を見たって!」
「プペ・フグレヌ、な。ああ、見たぜ」
トリコの視線が、斜め向かいの小松の目を真っ直ぐに射る。
「“あれ”は人間じゃない。
人の形に似てはいるが、人間界に“あれ”がいても、誰も人とは呼ばないだろう」
トリコの強い視線と言葉を受け止める小松の瞳は、どこまでも澄んで揺るぎがない─かのように、表面的には見えた。
しかし、二人の様子を端目に眺めるココの目は、小松の身の内から沸き立つように揺らめきだす、いくつかの感情の陽炎を確かに見てとっていた。
それは不安、もしくは疑念。
あるいは─。
(─恐怖…?)
「トリコさん…あんたの言いたい事が、ボクにはいまいちよくわからない」
内面の揺らぎなど、微塵も感じさせない声音で言う。
─しかし言葉の端々に今まではなかったかすかな荒っぽさが見え隠れしている。
「へぇ?俺にはお前が、ぜーんぶ“わかってる”ように見えるけどなァ…?」
トリコの鼻も、すでに小松の荒れる心中を嗅ぎとっているのだろう。
まるで獲物を追い詰めるような気配を剥き出しにして、挑発めいた台詞を吐く様に小松の肩がぐっと内に寄せられる。
あまり彼を追い詰めるな、トリコ─。
まるでネズミにじゃれつく猫
─そんなカワイイものでは断じてないが─
のようなその様に、一言注意を促そうとココが口を開きかけたその刹那─。
ぞぁっ
「!?」
冷たい汗が背筋に沸くように、ココの体に致死毒が滲み覆い隠す。
本能レベルで起こる防御反射だ。
もちろん、トリコも立ち上がりすでに臨戦体制に入っている。
確かに、その場の空気が一変していた。
それは、あまりにも濃厚な。
死の気配、だった─。