たどり着いた砂浜は、どこか幻想的な雰囲気を醸し出す美しい場所だった。
高く広がった洞穴の天井部から乳白色の鍾乳石が連なる様子を、ヒカリゴケがぼんやりと照らしている。
かたや、澄んだ海水がささやかな音を立てて打ち寄せる浜辺の砂は、海蛍の淡い光を反射して円やかな輝きを放っていた。
しかしいくらそのように美しい情景だとて、意識のない怪我人を抱えたトリコらの目を惹き付けるには足りなかったようだ。
砂浜の岩影に小松を寝かすよう指示したココは、持参していた飲料水を清潔な布に含ませトリコに手渡した。
「汚れが酷いから、拭ってやるといい」
「お前は?」
立ち上がったココを目線で追いかけ尋ねると
「手当てに使えるようなものがないか探してくるよ」
と、海に向かって歩き出す。
「ついでにフグ鯨の様子も見てこいよ!」
と注文すると、
大きなため息と共に
この食いしん坊ちゃんが、とたしなめる声が遠ざかっていった。
なんとでも言え。
確かに人命救助は大事だが、そもそもなんの為にここまで来たかという話だ。
10年に一度しか味わえない美味をすぐ間近にして、トリコの心中はソワソワと落ち着かない。
ぞんざいな手つきで、真っ黒に汚れた小松の顔を拭いてやる。
煤を拭うといくぶん表情が露になってきた。
「よぉ、また会ったな…っつってもまだ夢の中かい?小松シェフ」
目はしっかりと閉じたまま眉を寄せているのに、少し汚れた唇はかすかに開き、そこからぽってりとした丸い舌がかすかにのぞいて見える。
焦げ臭さに洗われて、今は嗅ぎとれない例の“不快なブレンド臭”を思いだし、トリコの眉間に無意識に力がこもった。
「…品のねぇコックさんだこと」
さらにごしごしと乱暴に口元を重点に拭ってやると、
「…っぷ…はァっ!」
ようやっと反応があった。
静かすぎるほどだった呼吸が忙しくなり、閉じた瞼が震えて今にも目を覚ましそうだ。
(お、お目覚めかい?)
さらに覚醒を促そうと、軽く頬を叩くつもりで手を差し出したトリコだったが─
…ちゅぽ
…どこか間の抜けた水音と同時に、己の右手親指に湿った温みを覚えて、唖然とした。
ちゅっ…ちゅぱ
指を咥えて、舐められている。
予想だにしない─誰が予想し得るというか─状況に、豪放磊落を地でいくトリコと言えど茫然とする他ない。
ちゅーっ
ちゅぱ
常人よりも太いトリコの親指にしっかりと吸い付く小松の舌使いは、子どもが乳を求めるような懸命さが垣間見える反面、性的な印象も否めない。
とにかく、意識がない状態で人の指をしゃぶり倒すという珍技を披露してしまうこの男が、本気で理解不能だ。
時間にしておよそ数十秒、小松の口元にうっすらと涎がたれ始めてきた頃になり、ようやっとトリコは自失状態を抜け出した。
それと言うのも、トリコの指を舐めしゃぶる小松の腹から
ググゥ〜…
相当な大きさで空腹を訴える音がしたもので。
な、なんだコイツ!
なんなんだ、コイツ!?
「…オッ、オイコラ!人の指を咥えてんじゃねぇっ!」
この、エロコック!!
動揺しきりのトリコの叫び声は、静かな波音を反響する洞窟内に、相当な音量で響いたという─。
意識のない状態で人の指を咥えて吸いまくり、あまつさえ腹の虫まで鳴かせるという
ある意味太巻きすぎる神経っぷりを発揮してみせた小松であったが、トリコの発した大声にようやくはっきりと覚醒をしたらしい。
大きな目を
パッチリ
と、音が聞こえそうな様子で開くと、何度かまばたきをしながら視線を巡らせ、未だ動揺覚めやらぬトリコと目を合わせた。
たった今目が覚めたとは思えないほどはっきりとした視線に、なんとなく気圧されつつも様子を伺う。
沈黙の合間に、波の音が静かに響く…が、しかし。
ぐるきゅるるぅぅ〜
「…おなかすいたなぁ…」
盛大な腹の音と共に呟く呑気な料理人に、食いしん坊と揶揄されるさしもの美食家も毒気を抜かれ、呆れの混じった笑いを漏らす他ない。
「お前、丸焦げになっといて開口一番に言うことがそれか。
なかなかの神経してんな」
「…まるこげ…?」
「覚えてねーか?」
「……………………」
トリコの問いに望洋とした視線になってしまった小松だが、無理もなかろう。
洞窟内でなにがあったかは知らないが、焼け千切れたようなデビル大蛇の肉片や、異常に上がっていた洞内の温度、凄まじく煤で汚れきり一部火傷も負って倒れ伏していた小松…
状況をまとめて考えれば、こうして錯乱することもなく意識を保っていることこそが大したものだ。
仰向けに横たわったままぼんやりとしている小松の傍らで胡座をかくトリコは、自分が段々と落ち着かない気分になっていくのを感じていた。
ココの奴、もうフグ鯨は見つけたか─?
そう、何度も言うようだが、自分はここへ人助けに来たわけではないのだ。
旅の途中でふと袖すり合った縁もあるし、なにせ洞窟の入り口で会った男があまりにやかましいのがいけなかった。
助けるなどと口にしておいて、それらしき人物が倒れているのに出くわして放置するほど鬼ではない。
しかし少々ぼけっとはしているが無事だとわかったからには、奇怪な行動をとるこの小男よりも
深海から10年ぶりにやってきた珍味のほうがずっと魅力的だ。
振り返って海の方を眺めたが、海蛍の光を反射する波の合間に知己の占い師の姿はないようだ。
ちょっくら行ってくるか…!ココに知られたら、怪我人を置いて行ったことをねちっこく言われそうだが、トリコの腹だってもう限界だ。
思いたったらすぐにでも実行しようと、上衣に手をかけ上半身だけ裸になる。
小松に声だけはかけていこうと、意識をやったトリコだったが。
ぐきゅるるるぅ〜
またも大きく腹を鳴らしながら身体をいくぶん横にひねったような格好の小松が、トリコの膝近くまで這いよってきていた。
「…ごはん…」
飢えた目をして膝上までにじり寄ってくるのに少々驚きはしたが
空腹を訴える姿に同情もして、小さな頭に軽く手を乗せて宥めてやった。
「オゥ、腹減ったよな。
今俺の連れが海でなんかしら採ってく─」
言葉は唐突に途切れた。
黒く煤で汚れた両の手が、トリコの下半身をまさぐっている。
いや、もっと正確に表現するならば、股間を剥き出しにしようとしていた─信じがたいことだが、現実だ。
「わーっ!なにやってんだ、お前っ!」
ちょっ、離せヘンタイッ!
わめきながら小松の顔を大きな手で押しやるが
小松のほうも負けてはいない。
手は離さずに下衣をくつろげ続けるし、あまつさえ口をだらしなく開いたかと思うと舌を伸ばして
こちらの股間に必死に顔をやろうとしてくる。
潤んだ目はひどく溶けきり、正常な思考回路など働いていないことは一目瞭然だ。
力で来られてもトリコからすれば、赤ん坊のようなそれをはね除けるなど容易なことだが、とにかく動揺著しいので押し留めるのも力が入らない。
なにこいついきなり同性のチンコ咥えようとしてんの??
電車内で嗅いだあのブレンド臭が、脳裏を燻す。
─淫売にもほどがあんだろ、クソコック─
急激に腹から沸き上がり出したのは不快感。
耐えきれそうもない。
苛立ちのまま、いまだに下半身から手を離さない小松の頭をガッと片手で鷲掴みにした。
「ごはん…」
かなり強い力で小さな頭を掴まれ、苦悶の表情を浮かべる小松だが、それでもまだトリコの股間にむしゃぶりつこうとする気配は途絶えない。
…こいつは病気だ。
頭をつかんだ手に力をこめ、小さな身体を力づくで振り払おうとしたまさにその瞬間─。
「何をやってるんだ、お前は…」
海から上がってきた─水も滴るいい男─ココが、これ以上はないというくらい冷たい視線をトリコに向けていた。
小松の信じられない行動に動転して、気配も感じなかった。
「…まさかお前がそんな奴だったとは…見損なったよ、トリコ」
え…?ソンナ奴って…ドンナ奴???
トリコは混乱しつつある頭を必死に回転させる。
ココの氷点下の眼差しが、今の自分たちの状況をどうとらえているか─
上半身裸の大男。
下衣は寛げて。
先ほどまで意識のなかった、あきらかに非力げな男の頭を鷲掴み。
股間の近くにある彼の目はかすかに潤んでる……………………………………………………………………
「ちっ!ちっげーぞココ!お前はなにか勘違いをしてるっ!!!!」
「黙れ、この性犯罪者!」
ポイズンドレッシング!!
「ギャアアアアアッ!?」
…静かなはずの砂浜が、しばし阿鼻叫喚の毒地獄と化したのは言うまでもない。