別れの言葉はどうだったか。
あまりに昔のことでよく覚えてはいない。
ただ、洪水のような涙を流しながら追いすがってきたあの泣き顔だけは、今もよく覚えている。
若きパーピュアの物語
自然界で紫の色素を持つものは、存外少ない。
その珍しさも手伝ってか、背の低い樹に寄り添い合うように固まる紫の実の粒に、あいつは感嘆の声を上げて手を伸ばした。
それはやめとけ
と俺は言った。
なんでですか?
とあいつは尋ねた。
食えねぇからさ。
食いもしないのに、無駄にむしることもないだろ
とそんな風に俺は答え、あいつは残念そうに実を眺めた。
こんなに綺麗な実なのに、と。
それもまた、随分と昔の話だ。
カリカルパの名を持つその紫の実は、別名を
花不知〈はなしらず〉
と言った。
無花果のように、花を咲かさずに実をつける。
紫の美しい実は、極上の染色材として名高いが、食用には適さない。
まるであいつのようだ。
自由気ままに孤独を貪って日々満足していた俺を、いつの間にか己の色で染めあげといて、いざ手を伸ばすと食えないんだとさ。
花を咲かさずつけた実に魅せられ、俺が伸ばしたその腕を、あいつはすげなく振り払った。
どうしてだ?
と俺は尋ねた。
食べられないからです
とあいつは答えた。
実をつけたように見えたって
それはまがい物なんです。とも。
僕も貴方も、男ですから。
あいつは俺を美食屋のパートナーとして、生涯を誓う覚悟をもって見ていたんだろう。
それでも俺は足りなかった。
足りなくなってしまった。
耐え難い飢餓に負けて食えない実をむしりとり、あいつを壊してしまうその前に、俺はあいつを置いていった。
もう二度と会わないと言い残して。
要は逃げたんだ。
あいつが追ってこれぬようなグルメ界の奥深くまで。
「おじちゃん、だあれ?」
久しぶりに帰った人間界は、ひどく体が軽く感じられて少し調子が狂う。
俺の足元で俺を見上げる小さな子どもを、思わず抱き上げてしまうほどに。
「俺はトリコだ」
腕の中の子どもは、とにかく小さくて、やわこくて、少し力をこめればすぐ壊れそうだ。
「トリコってしってるよ。
おとうちゃんがよくはなしてたもん」
「そうか」
「おおきくなったら、トリコのおよめさんにしてもらいなさい、って」
「…そうか」
置いていかないで
僕も連れてってください
トリコさん!
そうやって泣いて叫んで追いすがってきたあいつは、もうこの世にいないと聞いた。
けれど、俺の腕におさまる幼子の目は、別れの涙なんて知らないんじゃないかと思うくらいにキラキラと輝いている。
「…俺の嫁になるんなら、おまえ、ちょっと鍛えなきゃな」
ちびっこい体はまるまるしいながら華奢っこくて、あちらこちらに連れて歩くにも心もとない。
「お前の名前は?」
「こむらさき」
「…そいつはまた、ずいぶんと呼びにくい名前をつけられたもんだなぁ…」
あの時俺が置き去りにした、咲かずに実った紫の実。
食えないその実は地に落ちて、また新しい芽を出し育ち行く。
新たなその樹に花は咲くのか?
咲いたとしたら実は食えるのか?
それはまだ、誰も知らない。
誰も知らない物語。
花不知の実、カリカルパ。
さらにまた別の名を
小紫
と言う。