まだ生きているのではないか、と錯覚する程安らかな顔の上に白い布が被せられる。三月前から既に何度か喀血を繰り返していたというのもあって、今この室にいる者たち全てがもう死期が迫っていた事を悟っていた。ただ一人を除いて。

幸村は信玄が寝所で療養し始めた頃から、毎日訪れては看病をしていた。信玄が苦しげに血を吐く姿を何度も目にしている。それでも幸村は彼が死んでのちの先を、一度も考えたりはしなかった。

「自身が死んで後3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めよ」「己が大将として、武田を守れ」

その様な遺言を受け取り頷いても、影では「そんな未来がある筈は無い」と信じて疑わなかった。以前、臣下が信玄に対し悲観的な言葉を漏らしているのを耳にし、日頃の穏和な性格からは考えられない程の剣幕で幸村は否定した。それだけ信玄に心酔していた。幸村は、信玄が病から復活し、再び戦場に舞い戻るのを待ち続けていた。

だがそれは叶わなかった。信玄の褥を取り囲む家臣一同は悲しみにくれる中、いつか病が直ると信じていた幸村の顔を、誰一人として伺うことはできなかった。幸村は信玄の死に顔の前でそっと俯き、涙を耐えるかのように膝の上で拳を握り締めていた。

彼女の道標は途絶えてしまった。




日も暮れ慌しい音もしなくなった夜、幸村は私室で静かに座っていた。とうに涙は枯れてしまったのか、目元が赤く腫れていた。佐助ですら部屋に通す事はせず、静まり返った部屋の中でぼんやりとしたままだった。古い、黒く色づいた床柱が、幸村の視界に入る。小刀で切りつけたような傷が何箇所も残っているが、それは信玄との思い出に大いに関係するものだった。

まだ幸村が幼子で弁という名前だった頃、信玄が一年に一回の頻度で、彼女の背丈を床柱で測ってやっていた。確実に伸びている事を教えてあげては二人で喜んでいた事を彼女は思い出す。あの頃は、「早く大きくなれ」と信玄が願うと共に、幸村もまた、早く大人になって信玄の戦の手助けができればと思っていた。


八つの頃槍をとり、十四で初陣を飾り、十七になってようやく立派な大人になった頃のある日、信玄と酒を飲んでいた時の事だ。少しばかり酔いが回ったのか、耳をやや赤く染めた信玄がぽつりと零した。

「今更かも知れんが、お前には申し訳なく思っている」

突然何を言い出すのでございます、と幸村は驚きながら言う。信玄は幸村に注がれた酒を見つめながら、困ったように笑った。

「お前は真田の一人娘。本来ならば立派な所へ嫁がせ、女としての幸せを掴ませるべきだった」
「何を言われまするか。今の某は、こうしてお館様に仕えることが一番の幸せにござります。何の後悔もしておりませぬ」
「そこらの並の男より、お前は滅法強く育ったものなあ」
「はい!この幸村、そう易々と隙をつかれるような武士ではございませぬ」

その言葉を聞いた信玄は高らかに笑った。一頻り笑って、しばらく口篭る主を幸村は心配そうに見つめた。


「……だが。もしこの先、お前が共にいたいと思える男が見つかったなら、お前の思う通りにせよ」

それを聞いた幸村は釈然としない様子だったが、ようやく意味を理解した途端、瞬く間に顔を紅潮させた。

「な、何ゆえそのような事を仰せに…っ!?」
「お前は、儂の自慢の部下じゃ。だが、お前とて槍を下ろせば普通の娘御と変わらん。生きていればいつか、惚れた男のひとりやふたり、出て来るのは当然の事よ」
「破廉恥にございますっ。ゆ、幸村は、嫁ぎなど致しませぬ!」

己が必死に反論する姿を見つめる信玄の目は、とても優しいものだったと彼女は記憶していた。




幸村は、床柱につけられた傷をそっと指でなぞった。同時に、枯れていた涙が再び溢れ出す。

「…お館様、幸村は、……」

誰にも聞こえないよう口元を手で抑え、嗚咽を閉じ込める。堪えられず頭を下げた拍子に、綺麗に纏められていた項の部分が少しだけほつれた。構うことなく幸村は泣き続け、やがて蹲るように体を横たえる。異変を感じた佐助が部屋に入ってくるまで、彼女はずっとそのまま動かなかった。






その半年後、幸村は武田軍を率いて上杉領へ向かった。その頃には既に信玄が死去したという噂が上杉に行き届いており、宿敵であった謙信は信じかねている状態だったが、幸村の口から直接聞いてから、ようやくそれを受け入れた様子だった。

「そうですか。もうあいまみえることは、にどとかなわぬのですね」

謙信はどこか寂しげに、落ち着いた声音で答えた。それから幸村は、信玄がもし自身に何かあった場合は上杉に頼れと言っていた事も全て話した。謙信も最初から分かっていたように、刃を向けるような真似は一切見せることなく応じてくれた。

「どうか、おのれをみうしなうことのないよう…。わかきとらよ」
「上杉殿、忝うござる。」

謙信が放つ言葉の数々は、武田の若き大将の道標の代わりとなった。






武田領に戻り部下からの通達で、幸村は徳川から和平交渉の書状が来ている事を知った。徳川はかつて豊臣に属していたが、反乱を起こした上、秀吉を討ち取り政権を崩壊させた。現在は旧豊臣軍に対抗する為、各地と同盟を結び戦力を蓄えているらしい。

信玄が病に伏せてからは、武田軍は昔のように猛威を奮えなくなった。今頃に書状が送られたという事は――いぶかしむ幸村の隣で、佐助は小さく耳打ちした。

「降伏しろって事さ。飲まないとどうなるか、という警告でもある」


信玄が倒れたのは、武田領内で徳川勢と衝突した時だった。相手側の圧倒的な兵数と武力により武田軍は大きく損害を受け、退却を余儀なくされた。幸村はそれを思い出すと、苦渋に満ちた顔つきになった。あの頃から幸村は徳川に対し畏敬と、嫉妬の念を抱くようになっている。それは他者が考える程、生温いものではなかった。

幸村の頭には、徳川に下るという選択肢は存在しなかった。その時の彼女は、赤い鬼と恐れられていた姿と相違ないものだった。





 * * *




ばきりと、金属が砕ける音が混じったような音が響く。細身で上背のある男が刀を収めた後、相手をしていた兵士は腰を抜かしたように床へ座りこけた。


「お見事にござる」

幸村は両手を叩いて近付くと、男は目隠しを外しながらそちらへ顔を向ける。そう、此処は太閤が治めていた大坂の城であり、男は太閤の左腕と呼ばれていた石田三成であった。



丁度幸村の隣に兵士が駆け寄り、綺麗に両断された刀の柄を見せてきた。

「もう使い物にならぬ故、廃棄しろ」

はっ、と兵士が答え下がるのを見送り、幸村は感嘆の声を漏らして三成に言った。

「まるで目が見えているかのようでござった」



「貴様の兵士は殺気が目立つ。まるで、此処にいると示しているようなものだ」

三成はきっぱりと口にした。真剣を使って稽古をするというのも考え物だが、話に寄ると今まで戦に出てきて傷を負った経験はないとの事だった。その上木刀はすぐに壊れるから使い物にならないそうで、何とも珍しいものだと幸村は思う。

「貴殿らから学ぶことは多い。是非、武田の兵達に教えてやって頂きとうございます」
「…考えてやる」

襷を外し、三成は素っ気無く背を向け稽古場を去っていく。幸村はこの場に残ったまま、目線を床に移した。




西軍の門を叩いてどれくらい時が経っただろうか。東の方で好敵手の伊達が徳川と同盟を組んだという情報を、幸村は忍を介して知った。戦の火蓋が切って落とされる時はもう迫って来ている。最初から時間など残されていなかった事は、既に彼女も知っていた。

大谷からの書状を受け取って大坂まで参じた時、狂いそうなまでに徳川を憎む三成を見て、けして人事ではないと幸村は思った。大谷の目論見もあったが、幸村は進んで三成の狂気を逸らす役目を負うようになり、やがて懇意な間柄になった。場面によって態度に差のある男だが、裏を返すと無邪気な子供のそれと同じく、純粋なるが故のものだった。

幸村は昨日の晩の出来事を思い出し、無意識に耳元が熱くなった。幸村は三成を、異性として好いていた。



此処に来るまでに様々な事があった。深く傷つき、膝をついてしまいそうになった事も幾度かある。だが幸村は今、自ずと歩みを進められているような気がした。

信玄が望んでいた姿に、少しでも近づけただろうか。答えが返らずとも、それは幸村自身が導き出せるものだった。




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