裏側の街


 後ろに傾いだ降谷の背中へ腕を回したが、想像以上に重みのあった半身を慌てて抱き寄せるようにして受け止める。

「……銀狐」

 ザァッ、と血潮の巡る音が耳元で煩く騒ぐ。荒ぶ心を、今更鎮めようとも思わない。ごめんな、降谷。これは全部、私のせいだ。
 降谷を畳に寝かせ、衝動のままに素早く銀狐の背後へ回り刀を抜き首筋に刃を充てる。

「…………返せ」

 くつくつと、銀狐は実に楽しそうに肩を震わせる。わかってる。私がまだ、銀狐を殺せない事くらい、わかってる。

「へぇ、返して欲しいの?」
「当然だ」
「そぉ、そんなに大切なの?」
「当たり前だ」
「ヒトなんて、すぐ死んじゃうのに?」
「だからこそだ」
「ふぅん? その言い方だと、自分にも不老長寿の呪いがかかってること、知ってるんだぁ?」
「それは……今更だろう」

 確かに私は人の輪廻を外れた。もう二度と戻る事は無い。それが私の能力の代償。そんな事、とうの昔に気が付いている。

「……ねぇ、柊。この子を返して欲しいなら、当然……ボクと、遊んでくれるんだよねぇ?」

 一切合切、拒否権のない銀狐の問い掛けに、私は……昂った両眼の紅を瞠目しながら、怒りに震える右手を叱咤して、静かに漆黒の刀身を鞘へと納刀した。

 *

 そこは、真っ白な世界だった。

(そう、か……死んだ、のか……?)

 先程までの追体験を思い出し、身震いする。

 あれは夢などではなく、現実だった。

(……雨音は、知っていたのか)

 自分がいない世界で、俺たちがどうなるか。

 並行する二つの違う人生に頭が混乱する。

(それにしても……ここはどこだ?)

 見渡す限りの白。

 自分が立っているのか、横になっているのかさえ分からない。

 自分の掌を目の前に掲げてみれば、確かにそれは、ちゃんとある。

 自分だけが存在する、不思議な空間。

(臨死体験と云うものだろうか)

 そうだ。確かに自分は死んだ。でもまだ生きてもいるはずだ。

(……『今』はどっちだったか)

 そんな事を考えた時、真っ白な空間に、シャン! と鈴の音が響いた。

 *

 泥濘の様に重たい意識が浮上する感覚がして、ゆっくりと目を開ける。

 夕陽の反射でオレンジ色に染まる天井。視線を窓へとずらせば、少し開いた掃出し窓でレースのカーテンが揺れている。何だかいい匂いもするような……ここは、どこだ。

 身体を起こし、室内を見回す。ベッドの正面にはモダンアンティーク調の、一見質素に見えるが拵えがどう見ても豪奢な執務机。見慣れぬ外国語の書籍と書き掛けの書類が整然と並べられている。その机の左側には扉と、部屋の隅に鎮座した、中をくり抜いた球体がぶら下がった様な変わったデザインの……ハンギングチェア、だったか。その内側は雨上がりのような青空の模様に、常磐色のクッションが敷いてある。そこから更に視線をずらして行くと、ベッドの左横側、真ん中にある扉は開けっぱなしになっていて、廊下と繋がっている様だ。恐らくリビングであろう方向からは、誰かの気配がする。

 警戒しながらそろりと音を立てない様にベッドの横に両足をつく。そこで、自分がスーツではなく白いスウェットに着替えている事に気がついた。いつの間に? どう言う事だ。

 開け放たれた扉の、更に左側には電子ピアノとアコギとベースが並び、ベッドの真横のシックなテーブルにはデスクトップパソコンとノートパソコン、それとは別にモニターが三つ。カスタムされた通常の倍ほどの長さのキーボード、ゲーミングマウスとキーパッドが混ざった様な、使い方がまるで謎な……マウスだろう。なんだこれ。

「……よぉ、やっと起きた? フルヤくん」

 声を掛けられ、視線を扉へ移すと……マグカップを両手に持った隼雀がゆるりと微笑んだ。待て、今近付くどころか、一切の気配が無かったぞ?最大限警戒していたと言うのに……悔しい。

「……隼雀……ここは?」
「澪の家の澪の部屋。日付は跨いでない。カザミさんたちには連絡してある。今日はゆっくり休んでいいってさ」
「そうか……それで、雨音は? と言うか、神域? に居たはずなんだが」
「あー……それなぁ……」

 言い淀むと、隼雀はサイドチェストに「毒は入れない主義だから」とマグカップを置くと、その隣のPCチェアを引いて座り、自分の分のマグカップに口を付ける。それに倣って自分もそれを手にする。色と香りからして、コーヒーか。毒は入れていないと言ったが、今まで染み付いた習性から、それを口にするのは躊躇われたので、冷えた手元を温める道具と化した。

「フルヤくんさぁ、気を失ってから何見た?」

 いつもの黒縁眼鏡を外した隼雀は少し幼く見えるが、俺を見据えた双眸は鋭い。

「……夢を、見ていた」
「へぇ、夢……ね。どんな?」
「一生分の、雨音や隼雀たちが居ない俺の人生の…夢だ」
「……そう、か」

 俺から視線を外すと、隼雀は自分の手元にそれを落として口を噤む。

「……結論から言うと、フルヤくん、その見た夢の分、澪に記憶消されるな」
「……は? なんでだ」
「うーん、何でって言われてもなぁ。俺からはっきり言える理由は二つ。脳に負荷が掛かり過ぎるのと、絶対に澪が嫌がるから」
「雨音が? どうして」
「……その夢の中で、フルヤくん死んだでしょ。怪物(スピリタス)が“死んだ”場所で。死因は瓦礫による圧死。違う?」
「なっ、んで……知ってるんだ?」
「だいぶ前に澪が言ってたから」

 いや、待て。あの時…最後に雨音を見たような……?

「……澪はその時のフルヤくんと交わした約束を果たした。だからフルヤくんまで、それを思い出す必要は無いんだってさ」
「どう言う事だ? あれはまさか、夢では無いって事か?」
「……さぁ、な? そこら辺は俺の専門じゃ無いから詳しい説明は出来ないけど。たぶん、よくある『ifの世界』ってヤツだと思うよ?」
「もしそうだったとして、どうして雨音が干渉できるんだ?」
「……フルヤくんが見たのは、銀狐に連れてかれたらしいけど」
「それで……」
「あとさぁ、銀狐のトコ行く前にフルヤくんを必ず守るって約束したのに……って、えらく落ち込んでたぜ?」
「は? ……いや、確かに口約束はしたが……こうやって無事に戻ってきたんだから大丈夫だろ」
「俺も同じ事言ったけどさぁ、それであの澪が納得すると思う?」
「あぁ……絶対にしないだろうな」

 責任感が強く自己評価が低い雨音の事だ、内心相当落ち込んでるに違いない。

「……それで、その雨音は何処に行ったんだ?」

 その質問を口にすると、途端に隼雀は顔を顰めた。

「……『裏側の街』に行ってる」
「裏側の、街?」
「死人と異形と影の街。俺も一回だけ行ったことがあるが、少なくともあそこは、とてもじゃ無いが生きた人間が行くような場所じゃない」
「……雨音は大丈夫なのか?」
「まぁアイツは、良くも悪くも慣れてるからなぁ……ただ、今回は銀狐のお遊びに付き合わされてる」
「遊びって……何だ」

 心底嫌そうな顔をしながら、コーヒーを飲み込んだ隼雀が深い溜息を吐く。

「……今日はヤマタノオロチ狩りだって」
「…………は??」
「まぁ、澪なら負けないだろうけど」
「…………は!?」

 そんなの、どう考えても神話の世界だろ!? アイツは本当に一体何をやってるんだ!!

「まぁ落ち着けよフルヤくん。俺らに出来ることはなーんもないからひたすら待機だ。あ。それでさぁ、さっきも言ったけど、澪が戻ったらフルヤくんの記憶消すと思うから」
「……嫌だ、と言ったら?」
「無理。問答無用で消される」
「……消さなくていい、と言ったら?」
「それはどうかな。知らん」
「……覚えていたい、と言ったら?」
「覚悟が無いならやめてやれよ」
「……覚悟?」

 聞き返せば、隼雀に鋭く睨まれる。

 この男から初めて向けられた、僅か……なのだろう。殺気の乗った怒りの感情。雨音ほどとまでは言わないが、背中に冷や汗が伝う程度には、それは実に恐ろしいものだった。

「……フルヤくんさぁ、本当に澪の事、全部受け止められんの? その覚悟もないのに、軽々しく『覚えていたい』なんて言うなよ? さすがの俺もおこるぞ」
「……隼雀は、その覚悟をしたのか」
「当然だろ? とっくの昔に約束したからな」
「約束……」
「でもさぁ、俺はきっと、アイツが自分の為だけに生きる(かすがい)にはなれないんだよ」
「その理由を……聞いてもいいか」
「…………澪は、人間に未練がないからな」
「人間に、未練……?」

 どう言う意味だ。

「まぁ、澪からそれを聞き出して、約束でも出来ればワンチャンあるんじゃね?」

 そう言って肩を竦めると、一瞬で殺気を引っ込めた隼雀は部屋から出て行った。

 *

 永劫に繰り返される茜色の空を劈く咆哮に、ビリビリと空気が震える。

(あと三つ……落せるか)

 先程不意を突かれ、強かに地面に頭を打ち付けた際、ざっくりと切れた右の額から、止めどなく流れる鮮血が目に入って地味に痛いしうざったい。血を吸った軍服は重た過ぎて、流石に衣装を変えたのだが。スピリタスのパーカーも、大分血濡れになってきた。出来れば立ち止まって傷を塞ぎたいのだが、もう既に首を三つ切られた大蛇は、怒り狂って死に物狂いで追いかけて来るので、気配を絶ってビルの隙間を縫いつつ距離を取る。

 ──ここは、『裏側の街』。
 輪廻の輪に還る、死者と異形の住う場所。
 街並みは東都などと同じだが、ここに生者は居ない。いや、今は私が居るか。

(……ここに『業士』も居るはずだが……オロチを仕留めない事には探すに探せないな)

 指を弾いて姿を消し、左手を額に当てて傷を隠す。大蛇の気配は向こうの通りで私を探している。静かに指を弾いて衣装をスーツへと変える。少し血を流し過ぎたかもしれない。乱れた呼吸を整えながら、姿を表すためにまた指を弾いて通りへと飛び出す。

 アスファルトを蹴り跳躍して背後から一閃。漆黒の刀身は正確に大蛇の頭を一つ落とした。あと二つ。

 のたうち回るオロチの背中に一度着地してから、それを蹴りビルの屋上の柵へと降り立つ。この『裏側の街』では、『理論構築出来る事象』ではなく、『現の理を逸脱した術』しか使えないので、どうしても策略が限られる。それを悟られぬよう、声色を落としゆっくりと口を開く。

「……そろそろ降参してくれないか、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)殿。既に勝負は目に見えている。此方としては、時間が惜しい」

 私が促すと、オロチは真っ赤な二対の眼で私を射殺さんばかりに睨む。先程からオロチの放つ、瘴気混じりの神気で異形も死人も逃げ出して、ここには今、私とオロチしか居ない。

《ヒトの分際で、良い気になるな……!!》
「強情だな。大人しく負けを認めれば、悪い様にはしないものを」
《黙れ黙れ黙れ……!! 九尾の(かんなぎ)を喰らえば、また昔の様に……!!》
「私は一度たりとも銀狐の巫になった覚えは無いんだがな……どいつもこいつも……」

 これに関しては本当に心外だ。私は銀狐の所有物になったつもりは一度たりとも無いと言うのに。
 血払いのため右手に携えたままの刀の柄を左拳で叩き、くるりと切っ先で宙に円を描いてから静かに納刀する。

「……悪く思うなよ」

 そして、目の前に掲げた右手を強く弾いた。

 *

「……うまい……何だこれ……」
「何って、ただの野菜炒めだろ」

 なんだかんだで隼雀が作った夕食をご馳走になっている。前々から料理上手だとは聞いていたが、本当にうまい。何だこれ。野菜炒めなのはわかるが、滅茶苦茶うまい。
 キャベツにもやしとピーマン、ニンジンと玉ねぎ、それからキクラゲと豚肉という、オーソドックスな材料なのに、オイスターソースのコクと深みがある、黒胡椒が少し強めに効いた味付け。しっかりと火が通る寸前の、シャキシャキの野菜の食感。中華なのに、和食派の俺の舌を唸らせるとは。先程からご飯が止まらない。
 エノキとわかめとふんわり卵の中華スープも絶品だ。隠し味の醤油の風味が素晴らしい。片栗粉も入れたのだろう、フワフワと踊る卵が目も楽しませる。付け合わせのナムルと、しっかり冷えた搾菜と筍のラー油炒めも美味しい。すごい。何だこれ。自家製ガラスープとラー油だと?絶対に後でレシピ貰うからな。

「めっちゃ食うなぁ、フルヤくん。ご飯おかわりするかぁ?」
「……する」

 雨音も規格外の料理上手だし、本当に何なんだこの二人は。自分もそこそこ料理が出来ると思うのだが、何というか、ベクトルがまるで違う。初めて食べるのに、どこか日本人には懐かしい味付けの数々。その匂いだけで胃袋が歓喜の悲鳴を上げる、そんな感じだ。今の俺に語彙力は無い。とにかくうまい。
 ご飯のおかわりを受け取って、久々に他人の作ってくれた食事を堪能する。隼雀が部活帰りの高校生みたいにがっつく俺に温い視線を投げて来るが、ちょっと今はそれどころじゃ無い。

「……フルヤくん見てるだけで腹いっぱいになりそ」
「前から思ってたが、お前も雨音も細すぎだ。もっと筋肉つけたほうがいいぞ。折れそうでこわい」
「俺も澪も昔から小食だからなぁ……あまり筋肉つけても使い道ないし」
「それなのにあの鬼みたいな近接戦のレベルはどう考えてもおかしいだろ」
「あー……あれは力じゃなくて技術だからなぁ」

 雨音は言わずもがな、いつだか隼雀と二人で手合わせした際に、一撃も入れられなかった事は未だに解せない。何度も膝をつかされ投げ飛ばされ、挙げ句の果てに片手で後ろ手に拘束された事は墓まで持っていく。

「隼雀はもっとこう……女子受けのいいイタリアンとかフレンチを作るイメージだった」
「フルヤくんが映え系大好きな可愛い女子だったら喜んでそうするけどさ……正直、あーゆーのって腹膨れないからなぁ。雰囲気食べる感じだろ? 組織に居た時はベルとかに連れてかれたけど、それでもたまーに心の中で牛丼食いてぇ……って思ってた」
「わかる……俺もシェフの気まぐれサラダより今は紅生姜山盛りの牛丼食べたいんだよ……って三徹目くらいに連れてかれるとよく考えてた」
「はっは、バーボンはベルのお気に入りだったからなぁ。あと皿がでかかったり妙な形だと、洗ったりすんのめっちゃダルそうって感想しか湧かない」
「わかる……凄く良くわかる……」

 確かに見栄えは良いんだろうが、管理が大変そうだよな。わかる。

「……それより隼雀、ここ雨音の家なんだよな?」
「うん、そうだけど?」
「……勝手知りすぎじゃないのか」
「まぁ、俺の家が同じフロアの向かいだからなぁ。徒歩三秒でスープも冷めない。だから衣食住はほぼこっちだけど、おハギとかまっつぁんの言いつけ通り、最近は一緒に寝たりしてないけど? 夜にはちゃんと寝に帰るよ?」
「いや、どういう事だよ……」

 なるほど、今俺が着ているスウェットは隼雀の私物か。納得したが同じフロアの向かいって……それはもうほぼ同棲なのでは。相変わらず距離感がおかしい。最近“は”ってどういう事だよ。それまで一緒に同衾してたって事だよな? うらやまけしからん……後でヒロにも言いつけるからな。

「……雨音が一切恋人作らないのって、もしかしなくても隼雀のせいなんじゃないのか」
「心外だなぁ。じゃあ俺の方はどうだって言うんだよ」
「どう考えてもお前は遊びすぎだ」
「えー? 最近はそんな派手に遊んでないけどなぁ?」
「そもそもの分母が常人と違い過ぎてる事を自覚しろ」

 アラサー手前で三叉四又当然とか……もういい。ギリギリ法に触れない隼雀のぶっ飛んだ倫理観は知らん。知りたくない。
 そんな時、ダイニングテーブルの端に置いていた隼雀の携帯端末が鳴った。液晶には『双葉』の文字。
 一瞬、彼女か?と思ったが、チラッと俺に目配せした隼雀の表情を見るに、どうやら違うらしい。そして隼雀は通話をスピーカーモードにして電話を受けた。

「おー、ニケ。どした?」

 いつもの口調の隼雀に、おっとりと間延びした口調の女性の声が答える。

『みゃ〜ちゃん、いま大丈夫かしらぁ〜?』
「おー、大丈夫だけど? もしかしてタナトス戻って来た?」
『えぇ、そうなんだけどぉ〜……怪我の治療と異能の処置が終わったら、どこに届けたらいいのかしらぁ〜?』

 ……は? 怪我……? あの雨音が……?

「あー、今本部にロキ居るか?」
『居るわよぉ、死んでないって何度も言ってるのにぃ〜……もぉ、さっきからうるさいったらないわぁ〜』
「だったら本宅に連れて来てくれって言っといてくんね? どうせまた意識無いんだろ?」
『そうなのよぉ〜! 察しがよくて助かるわぁ。それにしても、珍しいわよねぇ……うぅん。これはまた後で話すわねぇ〜? じゃあ、ロキに伝えておくから。おやすみなさぁい、みゃ〜ちゃん。また今度、ゆっくり話ましょうねぇ〜』
「おー、りょーかい」

 通話を終えると、隼雀はテーブルに肘をつきこめかみを押さえた。

「ハァ……さて、フルヤくん。腹は括ったか?」

 鳶色の双眸が、冷徹に最終通牒を告げた。

 *

 揺蕩う意識を掻き集めて、目蓋の裏に舞う星々を眺める。

(まだ……生きてる……)

 そのままそっと意識を外に向け、ここが自分の家の自分の部屋の自分のベッドの上である事を認識してから、薄く目を開く。

 見慣れた天井に、外界から漏れる藍色の光の筋が伸びている事に、にわかに安堵する。ちゃんと戻って来れた。途端に観測した視覚情報から脳が勝手に推測を始める。時刻は夜。日付は超えていない。外の天気は薄曇り。気温は二十度前後。僅かに揺れるカーテンから、掃出し窓は薄く開けっぱなし。

 視覚情報の後は触覚と聴覚と嗅覚が分析を始める。胸元まで掛けられたタオルケットは先日衣替えしたもののまま。意識を失う前までは、酷く様々な血に汚れていた筈の体躯は清められ、清潔な身体から香る石鹸とお気に入りのシャンプーのにおい。素肌に纏うのはいつもの短パンに長袖パーカーの毛足の長いパジャマ。怪我を塞いだはずの額と、その後負傷した左大腿には少し大袈裟なガーゼと包帯が巻かれている。枕から微かに他人の甘い匂い…これは、ゼロか。そう言えば自分でここに寝かせたな。そして開け放たれたドア、その先のダイニングから三人の気配。微かに聞こえる声からして……ミヤとロキ、それから……ゼロ。
 
(……やっぱり、居るよな。それはそうか)

 ひっそりと、誰にも目覚めた事を悟られないよう、密やかに息を吐く。

(どんな顔して会えと言うんだ……)

 ゆっくりと瞬きをしながら考える。

 オロチは下した、業士も捕縛して姫御前に預けた。そしてまた、銀狐に余計な能力を付けられた。

(……天候変化とか、そんなに使い所ないだろう)

 南方の竜神が代替わりしたとかで、その先代の能力を貰って来るとか、遺品分けじゃないんだからいい加減にして欲しい。自然事象操作は負荷が大きいと聞くし、実に要らない。
 それよりだ。業士が『裏側の街』に現れた事で、姫御前の管轄が大忙しになった。今頃総出で探索と討伐に当たっている事だろう。

(……そろそろ起きないとな)

 いつまでもこうしていても埒があかない。降谷には申し訳ないが、元々はなくてよかった記憶だ。

(仕方ない……では済まされないが)

 恨んでくれていい。これはどう考えても、私の手落ちだ。

 *
 
 午後十時を回った頃。

 『黄昏の会』の本部から、雨音を連れて来た月夜(ロキ)に隼雀と二人で事の次第を聞いていた。

「半日でヤマタノオロチ退治して、業士も捕縛。相変わらずぶっ飛んでんなぁ」
「ニケが言うには、また何か能力付いたらしいが……判別不能だから後で本人に聞いとけってよ」
「また新しい能力か? まだ出来ない事があるって事の方が驚きなんだが」
「……あと、時間操作くらいじゃねぇの」
「はっは、だったらクロノス要らずだなぁ」
「それ言ったらオレたちだってそうだろーがよ」
「それな。言えてる」

 けらけらと笑う隼雀を他所に、月夜はダイニングテーブルに肘をついて顎を乗せ、俺の方をじっと見た。

「……何だ?」
「オマエさぁ、こんなにこっち側に首突っ込んでどうなりたいワケ?」
「どうもこうも、不可抗力だろ。あとオマエって言うのやめろ。一応月夜よりは年上だろう」
「あ゛?」
「っはは! ロキが! フルヤくんより年下!? ないない」
「ちょっと待て隼雀、どう言う事だ」

 月夜はどう見たって未成年だが……まさか雨音みたいに超童顔なのか?

「ハァー、腹いてぇ……あのなぁ、フルヤくん。ロキって三千年くらい生きてるんだぜ?」
「…………は……っ??」

 三千年? 普通に化物じゃないか?

「わかったかクソガキ。ナメたクチきいてんじゃねぇぞ」
「なっ、えぇ……何なんだ本当に……」

 不老不死とか、そう言う類の能力なのだろうか。あまり羨ましくはないような。

「……起きたな」
「ん? あ、ホントだ。そのうちこっち来るだろ」

 二人が廊下の先に視線を向ける。俺には気配も音も感じられないが、やはりこの二人には分かるらしい。

「で、フルヤくん。最終確認だけど、フルヤくんは記憶消されたくないんだよな?」
「……あぁ」
「説得できそう?」
「……善処する」
「それで、俺たちは居た方がいいか? それとも席を外すか?」
「……それは……」

 もしもの時の保険として、居てもらった方がいいのかもしれない、が。

「……いや、雨音と二人で話したい。悪いが席を外して貰ってもいいか」

 俺の返答に頷くと、二人は静かに席を立ち、揃って玄関へと消えた。


 * * *


 雨音の自室へと続いている廊下から、微かな気配がこちらへ向かってくるのを背中で感じた。

「……降谷」

 どこか申し訳なさそうな、少し硬い声色に、ゆっくりと振り返る。

「おはよう、雨音。怪我の具合はどうだ?」

 右瞼には大きなガーゼ、ショートパンツからすらりと伸びた細い脚の左太腿には包帯がぐるぐると巻き付けられていた。

 俺の質問が予想外だったのか、雨音は射干玉色の双眸をぱちりとひとつ瞬いたあと、困った様に眉を寄せた。

「あぁ、もう殆ど治ってるから大丈夫だよ」
「……そうか」

 イスから立ち上がり、リビングの一歩手前の廊下で立ちすくんだままの雨音の手を引いてソファーに腰を下ろす。逡巡のあと、少し距離を開けて雨音も隣に腰掛けた。俯いた横顔がひどく思い詰めていて、予想通り自分を責めているのだとわかる。

「……澪」

 名前を呼ぶと、おずおずと顔をこちらに向ける。いつも凛とした佇まいの彼女からは想像もできない表情。相当思い詰めているらしい、迷子の子供みたいなその様子に思わず手を伸ばして形の良い頭を撫でる。

「……澪、助けてくれてありがとう。こうやって戻ってこれたのは、お前のおかげだ」
「違う、私は君を守れなかった。危険な目に合わせたし、銀狐が君が知るべきではない記憶を追憶させるのを止められなかった。全て私の力不足だ。すまない、降谷」

 ただでさえ色の白い雨音の両手が、強く握り込んだために更に色を失う。頭を撫でていた手を震える肩に添わせると、薄い肩が一度だけ小さく跳ねた。それに構うことなく、出来るだけ優しく引き寄せ、腕の中に閉じ込める。

「お前のせいじゃないだろ? ほら、俺はちゃんとこうやって生きてる。それで充分じゃないか?」
「でも」
「なぁ、澪」

 雨音の言葉を遮って、出来るだけ優しく声を掛ける。

「俺もお前も、こうやって今ここで一緒に生きてる。それで充分じゃないか?」

 雨音が小さく息を呑む。

「……君が赦してくれるのならば、私も己の非力を許容しよう。だが、その記憶は貰い受ける」

 『タナトス』の声色で言葉を紡いだ雨音が顔を上げた。赤と青の瞳が俺を射抜く。

「……その事だが、雨音。俺とひとつ賭けをしないか?」
「……賭け、か。いいのか? 今の私は思考が読める」
「構わない。だから……俺がその賭けに勝ったら、約束してくれないか」
「……後悔する事になるぞ」
「あぁ。そうかも知れないし、そうならないかも知れない」
「全く……強情だな、零は」
「澪には言われたくないな」

 そして雨音は、いつもの射干玉色の双眸を細めて淡く微笑んだ。



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