novel | ナノ






こんにちは、アキラです。今日もとてもいい天気です。具体的にどういった天気かと言いますと、爽やかな風が頬を撫でて、日本晴といいましたか、空は雲などひとつもなくどこまでも澄み渡り、抜けるような青さです。何もないせいで高度の判断はつきませんが、そこになんだかの鳥──残念ながら鳥類の知識は持ち合わせておりません──が一羽飛んでいます。実に気持ち良さそうで、なぜ人間には羽根がないのかつらつらと考え込んでしまいそうです。あ、先ほど一羽と申しましたが、もう一羽おりました。もしかするとつがいなのかもしれません。だとすると近くに遠くに飛ぶ二羽の仲はきっと円満です。幸せそうでいいですね。しかし本当に気持ち良さそうです。羨ましいものですね。ところでなぜ俺がこうも青空の様子を縷々述べられるのかといいますと、俺の目線がその青空と垂直にあり俺の身体がその青空と平行にあるからです。回りくどいですね。要するに俺は今地面に寝そべっているのであります。ちなみに所は庭崎町のとある一角、日野一家の住む家の玄関口でございます。ええはいそうですね、場所よりも所以を説明すべきですね。至らずすみません。さて理由はいかにといえば、一言で述べると投げ飛ばされたのです。それはもう見事な弧を描いて俺の身体は宙を舞いました。念のため言っておきますが、羽根が欲しい空を飛びたいと思ったがゆえに望んで飛んだわけではありません。はい承知しております、述べるべきはなぜ俺が吹っ飛ばされたかですよね。この家の長女である日野てつこに勝負を挑んで敗北を喫したからです。さらに詳しく言うのなら、とある理由からここを幾度となく訪れる俺を不審に思った彼女が正当防衛を大義名分にその実力を披露してくれたからです。ああ、ご心配なく。こうして俺が悔しくも瞬殺されるのはいつも通りのことですので。またとある理由とやらも別に日野一家に危害を加えようだとかでは断じてないので、そちらもご安心ください。ところでその腕っぷしの素晴らしい彼女はといえば、今俺の真上、あ、俺の頭の上の方ですね、そちらで仁王立ちしています。なんというか、とても迫力があります。この世界のどこにここまでセーラー服と仁王立ちが似合う女性がいましょうか。この二つを同時にここまで完璧にクリアできる女性はきっと彼女だけでしょう。あ、はい、なぜ彼女が制服姿かといえば、そうです、今日は平日なのです。時間は、確かここに向かう途中に確認したとき12時47分でありましたから、多分13時20分辺りでしょう。今日は彼女の通う中学校はテスト──いつ聞いても嫌な響きです──だということで、午後の授業はないんだとか。それを知って俺はここに参上したわけです。頭を上向くようにして目線を上げれば強そうな彼女の靴が見えます。ローファーというんですよね、最近知りました。教えてくれたチームメイトがついでに別名はノーウィージャン・フィッシャーマンズ・シューズだと言っていたのですが、これは本当ですか。まあともかくその革靴が見えるわけです。さらに目線を上にやると紺色のハイソックスが目に入りました。もっと上にやると可愛らしい膝小僧が。いつも思うのですが、彼女はとても真面目です。校則をきっちり守ります。長い髪は常に結い上げられ、髪留めも靴下も指定された色です。そして決まりをどこまでも遵守した彼女のスカートはもちろん膝丈で、覗く肌色は顔と首と腕と膝小僧──今は夏だからあれですが、冬ともなれば防備は完全となってしまいます──のみで、彼女の脚は誰彼の目に触れることはありません。かといって膝頭とそこから下だけとはいえ非の打ち所のない脚線美だけは拝めるので、余計悶々とする男子生徒は多いのではないでしょうか。全く思春期の男子には優しくありません。思春期といえば、当時の俺の好みは分かりやすく胸の豊かな年上の美女でしたが、今は変わってしまったようです。いえ、今もオネエサンは大好きですが、今現在俺の胸を焦がす相手がそれと真逆も真逆なのです。人間分からないものです。というか恋が分からないものです。そんなことをうだうだ考えていたものだから、つい何も考えずに目線をもっと上へ向けてしまいました。

(あ、白)

ナイスアングルともいうべき素晴らしい角度から、今まで封印されていた太股が見えて、その上の方までバッチリ見えてしまいました。違います、不可抗力です、見たのではありません。見えたのです。決して眼福などと思ったわけではありませんし鼻血出そうとかもあんまり思ってないです。ただつい釘付けになって硬直してしまったのも男なら仕方ないことです。勘の良い方はすでにお気づきかと思いますが、俺は彼女に恋慕しております。その俺が彼女の未知なる聖域を侵そうなどと思うわけがありません。ただそこはやはり健全な成人男子ですので並々ならぬ想いを切に寄せる相手のそのような光景には身体も目線も固まってしまうわけです。

「──ちょっと。…見てんじゃないわよ」
「…………みてねぇよ」
「あ、そう? ならいいわ」

見てくださいこの信じやすさを。いまもって見上げたままのこっちが至極後ろめたくなるほどの素直さです。それがまた危うくも彼女の魅力のひとつでもあるとは思うのですが。思わず彼女の顔を見ようとまたまた目線を上へやったのが間違いでした。ああなんたることでしょう、彼女の腹部まで見えてしまいました。だから違います。見たのではありません。見えたのです。白くみずみずしい肌は触り心地が良さそうで、なんともたまらない心持ちになります。さすがにこれ以上上を見てはなりませんね。下だけでなく上まで色やら柄やらを確認してしまったらもう言い訳などできなくなりますから。いえきっと彼女によく似合う可愛らしい上下セットを着ていると思いますが。しかし、どうしてセーラー服の下にキャミソールとかスリップ、えーとスリップで合ってますよね名称、とにかく何か着ないのですか。思春期の男の子の精神衛生上たいへんよろしくないです。もっと言えばもしかしたら不特定多数の思春期男子が彼女自身や彼女の腹チラだとかうっすら汗をかいて透けて見える下着の線だとかの彼女の制服の下にドキドキしているかと思うと非常に落ち着きません。叫び出してしまいそうです。というか無性に腹が立ちます。俺だって彼女と青春時代を過ごしたかったんです。なぜ俺は彼女より先に生まれたのでしょう。なぜに彼女は俺より後に生まれたのですか。いえ、同じ年度に生まれたかったなどとは言いませんから、せめてあと少しだけでも彼女と生きる時間が近かったならと。そう思わずにおれません。そういった意味で彼女の隣家に住む妙に大人びた少年や、すでに会社を持ち世界に名を轟かせる天才児が羨ましくて仕方ないのです。ああ、だんだん空の青さが目に痛くなってまいりました。そういえば、いつの間にかめおと鳥がいなくなっています。空にはもう何ひとつ存在していなくて、だから目に痛いのに違いありません。そう、きっとそれ以外に理由などありません。だから微かにくぐもった声が俺の喉から聞こえたなんていうのは、ただの勘違い、いわば気のせいというやつなのです。ええ、何も言わないでください。そうやって大の字のまま唇を噛みしめた俺に、彼女が声を発しました。いつ聴いても綺麗な声です。こんなにも透き通った、心が落ち着く声を俺はほかに知りません。秀麗な音(ね)は鼓膜を震わせてゆっくりと体内を血液か酸素の如く循環して俺の何かを満たしていきます。どうです、綺麗な声でしょう。

「…ねぇ! 聞いてる?」

──すみません、聞いておりませんでした。いえ、もちろん彼女の声は聴いていたのですが、あまりにも音に感動していたので言葉として認識していなかったのです。

「わりぃ。…なんだ?」
「いい加減起きたら? って言ってるの」

身体を投げ出したまま微動だにしない俺に、腕を組んでため息をつく様もなにやらの芸術品のように整っています。こんな絵画があったなら、少ない給料をつぎ込んで購入するでしょう。見とれた俺はやっぱり身動ぎひとつできません。そんな俺に呆れたのかそれとも諦めたのか、彼女は立ち位置を変えて、俺の右側、ちょうど十二指腸の辺りに立ちました。それから、ほら、とまた繊細でありながら華のある美しい声で俺の心を打ち震わせながら、白く華奢な手を差し出します。そうして俺はようやく上体を起こすべく繊細なその手を取りました。誓って言いますが、男の矜持がないわけではありません。以前、初めて優しく手を伸ばされたときですが、その手に気づかないふりをしてさりげなく起き上がったら、一瞬にも満たないごく僅かな刹那の間ではありましたが、彼女の表情は確かに歪んだのです。聞けば彼女は不登校であった時期があるのだとか、詳しくは知りませんが、ともかくそのせいで彼女は人からの拒絶をひどく恐れているようです。こんなにも清廉で可憐で優麗な彼女を拒んだり否定する人間がいるなどとは信じられません。事実存在しないでしょう。なぜなら俺が知る限り、彼女は周囲──もちろん俺を含んでいます──の人間全てに例外なく愛され恋われています。だから彼女の不安はただの杞憂以外の何物でもないと俺は断言できます。けれども彼女を苦しめる過去を、彼女を追い詰めた当時を、俺はまるで関知していないので誠に残念ながら伝えることができません。嗄れるほどに喚声してその心配は無用だと俺が訴えたとしても彼女は信じてくれないでしょう。俺はただ全てを胸三寸に畳んでおくことしかできないのです。悲しいですが、俺と彼女の距離と関係はそんなものなのです。ああ、すっかり脱線しましたね。話を戻しますと、心底惚れ抜いた人の翳った顔など見たくありませんし、無論させたくもありません。だから俺の取るに足らない自尊心など無視して、彼女のその手を取るのです。だいたいにして俺のプライドなどやたら優秀な同僚やらデキる男の代名詞とでも言えそうな上司やらを前に折られるどころか粉砕されてしまっているのですからなんら問題はありません。さてそうやって小さく柔らかな指を握ると彼女の顔には気づくか気づかないかというほどに僅かではありますが、安堵の色が浮かぶのです。俺が身体を起こすと目線を合わせるかのようにしゃがんでスッとまた手を伸ばしました。俺の頬に触れてぶん投げられたときについた埃を払って、俺に怪我がないか改めて注意深く観察して、最近は上手く受け身を取れるようになって全くの無傷である俺に安心したようにふぅと息をつきました。俺はといえば、毎度のことでありながら未だこの至近の瞳と触れる温度に一向に慣れず、息を止めて固まっていたりします。全く以て恥ずかしい話ではありますが、きっと俺は一生慣れることはないでしょう。情けないですが確信しています。願わくば彼女が俺の頬に違和感をいだかないでほしいです。熱を持ったことに気づかないでほしいです。どこまでも鈍い彼女ですから、熱くなった頬ごときで俺の恋情に気づくことはないですが、優しい彼女のことです。熱がある具合が悪いのかと勘繰るに違いないのです。余計な心配をかけたくないので、どうか気づかないでくださいと俺はひたすら願うのです。依然二酸化炭素を吐き出すことも酸素を取り込むこともできずにいる俺からようやく離れた彼女はふわりと微笑みました。今度は呼吸どころか心臓まで止まるかと思いました。言うまでもなく止まりはしませんが、代わりに彼女の眩しい笑顔に鼓動がとんでもないことにはなりました。激しく脈打つその律動が彼女に聞こえはしないか気がかりです。そんな不安に苛まれながらも、俺はなんとか立ち上がりました。

「まぁ悪さする気がないならいいわ。ほら、上がりなさいよ」

お茶くらいなら出すわよと続けた声はやはり涼やかで澄み、湛える笑みは温かで愛くるしさといじらしさが同居する麗しいもので、目が眩むかのような衝撃に息を飲みました。目頭が熱くなり潮騒に似たざわめきが聞こえて、滑落したかのように前後不覚で足元は不確かになり、身体は芯から震えていきます。ああ、今日もまた、と俺は自覚しました。そうです、ただでさえ日ごと想いは募り夢寐にも忘れないほどだというのに、毎日のように俺は彼女に恋をしてしまうのです。






He falls in love with her day after day.
(ひどくなきたくなるんだ)
(きみはしるよしもないだろうけど)







2010/05/08