novel | ナノ







「心ってどこにあると思う」


始まりは、寝物語気味に呟かれた一言だった。

彼は黒目がちな瞳を眠そうに─実際眠いのかは知らない。そういう目付きをするのだ─下げながら、私に訊いた。


「…何?」
「心だよ」
「ついに頭が沸いたの」
「いや?たまにはロマンチックな話でもしようと思って」


法廷の話や娘の話じゃ君も退屈でしょ、と彼は軽く笑いながら言った。

確かにそれまで彼は、家族の話や共通の友人の話をぽつりぽつりと─或いは面倒そうにも見えるが─語っていた。

肌を重ねた後のピロートークと考えるならば、確かにいささかナンセンスな内容だっただろう。


─しかし、退屈ではない、と思う。


私達の話題が、それ位しかないのが事実なのだから。

私は言うなれば、家族やら友人やらではなく、彼の最大の特徴─であり欠点─である毒舌を聞きたがっているのだ。

辛辣な、残酷なそれは。
間違いなく彼らしさであり。

恐らく私は話題の端々に滲み出るそれを聞く事によって、彼が彼のままでいる事を確かめているのだろう。

だからこそ、彼の口からロマンチックなどという言葉が出た事自体、私には驚きだったのだ。

今にして思えば、心が何処にあるかという─具体と抽象を織り交ぜた─話は、ロマンチックなそれとしては少しばかり違ったのだろう。

気付かなかった私も、私かもしれないが。

弁解するならば、彼が元よりほんの少し─毒舌を除けばの話だが─ずれている事を、24時間常に頭に入れておくには、私達は長く共にいすぎたのだ。


「心ってさ。心臓とイコールが成り立つじゃない。英単語的な意味で」


新たに話を始めた彼に、そうね、と私はとりあえず相槌を打つ。

心臓、心。どちらもハートという名詞になるという事だ。


「だけど感情は脳が司るんだよねぇ。何で、昔は心が胸にあると思ったのかな」


言いながら、彼はこの辺りかな、と私の鎖骨の下をそっと指で押す。


「それとも本当に、ここに心があるのかな?どう思う?」


私は、解らないわ、と答えた。
貴方はどう思うの、とも訊いた。

すると彼は、
同じだ、僕も解らないと言った。
正直興味もないのだけれど、とも付け足した。


「じゃあ何故こんな話をしたの」
「君に休憩させようと思って」


彼は私の髪を撫でながら言う。
随分伸びたねぇ、とも言った。

解らない。という言葉は。
彼の得意のハッタリなのだろう。

興味もない、は真実だけれど。

結局は、感情を司るのは脳だ。
彼には─科学的にも明確な─その真実だけで充分で、それ以上の説はいらないのである。


「そうね。私もどうでもいいわ」
「そうだよ。心がどこにあるかなんて」


本当にどうでもいい。
そう彼は呟いた。


「大事なのは」
「何」
「僕は君を凄く好きで、法廷や娘や心の話をしてようと君を抱きたいと思ってる事。だろう?」
「─……そうね」


私は小さく言った。

荒々しい口付けをされながら考える。

もしも今、嘘をついたわ、と言ったら彼はどうするだろう。

解っている。
そう、意外だね、と至極どうでもよさそうに言うに違いない。

彼は元よりそんな─例えるならば淡白が服を着て歩いているような─人間で、だからこそ私は今まで─そして恐らく、いいや間違いなくこれからも─彼に勝てないのだ。


─嘘をついた。
いや、正確には言わなかった。


心ってどこにあると思う。


彼の最初の問いかけへの答え。


─私が思うに。

心は即ち、血液だ。


我ながら、突拍子も無い事だとは思っている。

しかし心が何処に在るものかとふと思考した時、私が辿り着く答えはいつだってそこだ。


心と呼ばれた臓器から、
躯を巡り巡る感情を伴う液体。


考えてみればそうだ─いや、屁理屈なのかもしれないが。

心と心臓の等式が成り立つならば、心と血液のイコールも成り立たない筈が無い。

それに、悲しみや喜びの証である涙の一粒一粒も、元を正せば血液なのである。


様々な感情は様々な成分とイコールを結ぶ。


例えば私の赤血球は、
頑固で酷く付き合いづらいのだ。

例えば私の白血球は、
プライド高く嫌われやすいのだ。

例えば私の血小板は、
臆病でいつでも震えているのだ。


一つ一つが、
私を私らしく構成している。

自分の意見を曲げずに、否定されるとむきになって反論して、そのくせそんな自分を酷く情けなく思っている、そんな私を。


「どうかした」
「…別に。何でもないわ」
「そう。嘘つきだね」
「貴方こそ、いつから嘘発見機になったの」
「そっちが嘘が下手なだけだよ。僕が聡い訳が無い」
「…それもそうね」
「あ、酷いなぁ」


例えば私の赤血球は、
彼を好きで堪らないのだ。

例えば私の白血球は、
彼に勝ちたいと喚いているのだ。

例えば私の血小板は、
彼を本気で死ぬ程嫌いたいのだ。


例えば。
私の血液は──、


「─っ、」


貴重な休日の、午後の事だった。

よくある話だ。
捲っていた雑誌で指に小さな傷を作ってしまった。

こんな雑誌で怪我─と言えるかどうか解らないほど小さな傷だったが─をしてしまった事に、私は小さく溜め息をついた。

すると人差し指の、1センチほどの傷から、僅かばかりの赤い液体が零れた。


─思わず、あ、と声を洩らす。


普段なら、すぐに止まると気にもしないほどの出血だ。

だが、心が何処に在るかと訊かれたのはつい最近の夜の話であり。

更にそれに対し─訊かれた本人には言わなかったが─心が血液だという持論を頭の中で─ぼんやりと─考えていた事を、ふと思い出したのである。


唇を結んで、指から零れた血をじっと見つめる。


私の心。精神そのもの。
私の感情、すべて──。


「あ。もしかして切ったの」


のんびりとした声がして、目の前にゆっくりと彼が座った。

不意に現れた彼に、私はどうして、と呟きそうになり、ここが彼の事務所兼自宅である事を思い出し慌てて口をつぐんだ。


「大丈夫?」
「…えぇ」
「そう。一応絆創膏でも貼る?」
「いいわ、別にこれくらい」
「それもそうかもね」


彼は私の手から雑誌を取ると、そっと傷ついた方の右手首を掴んだ。

それから、


「じゃ、これだけさせて」
「?─っ、」


彼は止める間もなく、私の人差し指を咥えた──いや、感覚自体は食われたに近かったかもしれない。

指先に絡む舌の、あまりにリアルな感触。

それは共に過ごした夜の記憶を、強制的に引き摺りだした。

私が息を詰めたのは、果たして驚きのせいだっただろうか、それとも、欲情のせいだっただろうか。


「…何、して……」
「いや、─美味しそうだったから?」
「………」
「どうかした」
「…、何でもない、の」
「嘘が下手だね」


彼は口角を上げて、私の耳元で囁いてみせるのだ。


「ね。血だけじゃなくて、君も美味しそうだよ、冥ちゃん」
「─、」


雑誌が無造作に床に投げられて、私は夢中で彼の髪を掻き回して、彼を煽ってみせる。


「…成歩堂…龍一、」


例えば。例えば、私の血液は。
一滴残らず、彼のものなのだ。

好きで堪らないとしても。
勝ちたいと喚いていても。
死ぬほど嫌おうとしていても。

どんな感情があろうとも、
流した血液も流れる血液も、
赤血球も白血球も血小板も、
全てが彼のものなのだ。


この、淡白で自由奔放な、
酷く憎たらしい男のもの。


─心は即ち、血液だ。


例えばこの、深い赤は。
愛を表す薔薇にも似ている。





2011.01.22