いくらかして、てつこはカタカタと震え出した。 長い睫毛に縁取られた瞳に滴が盛り上がって、
「…っ、ぅっ」
声が漏れたとき、耐えきれなくなったようにぼろっとこぼれ落ちた。 そして、決壊した。
「だってっ! だってりゅ、のすけ…最近ぜんぜ、笑わないんだもん…っ」 「…………はい?」
全く意味のわからないことを言われた当の龍之介は間抜けな声をあげた。 しかし泣き出しているてつこは構わず──というより気づいていない──言葉を続けた。
「ちょっ…と前まではあたしが勉強がんばったら、笑っ、てほめてくれたのにっ、…あたしがちゃんとわかるようになったら、ぼくも嬉しいですよって頭撫でてくれたのにっ…今はしてくれないじゃない…!」
龍之介が呆気にとられる前で、わんわん泣くてつこはとうとう座り込んでしまった。しゃくりあげて、それでも叫ぶことをやめない。
「っふ、うっ…さいきん…いっつも不機嫌だ、し! ひくっ…逃げても、おっかけ、てくれなくなった、し…勉強のじかん短くなった!…あたしのこときらい、になったんでしょ…っ!」
幼子のように泣き声をあげる、自分が長らく仕えるお嬢様を呆然と見ていた龍之介は声も発せずにいたが、ようやっと我を取り戻した。 盛大に泣く少女を放置できるわけもなく、逡巡するように意味もなく周りを見回してから、扉から離れて、今日初めててつこの室に足を踏み入れた。
戸惑いがちに歩を進め、未だ全身を震わせて涙するてつこの前に片膝をついた──ついた、は、いいが、さてどうしたものか。 仕えて数年になるけれども、気丈が代名詞のこのお嬢様のこんな弱々しい姿は初めて目にする。対処法がまるでわからない。 俯いて泣くてつこのつむじを見下ろして困り果てていた龍之介は、てつこの言葉を反芻していた。
おずおずと、手が動く。 ゆっくりと腕をあげて、数秒宙をさ迷った手は、ぽん、とごく軽い音と共にてつこの小さな頭に置かれた。 ぴくん、とてつこの両肩が小さく跳ねる。びっくりしたかのように、声が止まった。 恐る恐るといった風に顔を上げる。
紅く染まった目尻には大粒が溜まっていて、気遣わしげに揺れる濡れた瞳に見上げられた龍之介は面映ゆくなって、それを隠そうと目を逸らした。
「…なんですか。こうされたかったんじゃないんですか」
つい怒ったような尖った声が出て、内心しまったと思うも、出てしまったものはしょうがない、代わりにできうる限り優しく撫でるように努める。
「──あなた、が、どう感じたかは知りませんが。…ぼくはあなたを嫌ったつもりはありませんし、事実嫌ってません」
静かだが、きっぱりと言い切る声にてつこは数回まばたきした。
「──、うそっ」 「嘘ついてどうするんですか」 「そ、それはそうだけど、でもっ……まえと、ちがうもん…」
最後の方は消え入った声に龍之介は心持ち顎を引いた。
「……わかりました。いっこいっこ解決していきましょうか。じゃあはい、ぼくがあなたを嫌いになったと思った理由は?」
てつこの濡れた頬に左手をやって──右手でやろうとしたが、撫でるのをやめた途端てつこが眉を八の字にしたので──下睫毛をなぜるようにして、親指の腹で涙を拭う。 くすぐったそうに身をよじったてつこだが、抵抗はせず龍之介にされるがままに大人しくしていた。
「……撫でて、くれなくなった」 「あなたがそのような年齢ではなくなったからです。…まぁ今まさに現在進行形で撫でてるけど」 「…ほんとにそれだけ?」 「それだけです」
実際は執事長にあまり分を超えて触れるなとお達しがあったりするが、それは龍之介が仕え始めた当初から言われていたことだし、第一この屋敷でそれを遵守している人間は稀だ。
「…あたしが逃げても、追いかけてくれなくなった」 「ていうか追いかけられたくて逃げてたんですか」
まずそこだろとつっこむ龍之介に、てつこはかぁっと真っ赤になった。 まだ手が触れたままのすべらかな頬が熱を持って、覗き込んだ先の瞳は動揺と焦りがちらついていた。かわいそうになった龍之介は追及をやめて軽く息をつく。
「理由は二つ」 「ふた、つ?」 「えぇ。一つ目は、シュバインさんがあなたを追いかけるようになったからです。それがあの人の仕事ならぼくは介入できません」
さらっと言われたてつこは納得したような、よくわからないような表情を浮かべた。
「─…ふたつめ、は?」 「二つ目は……」
一つ目のときと違って妙に口ごもる龍之介は、途中で止めてそのまま黙してしまった。 てつこは不安げな色を見せた。やっぱり嫌いになったのでは、だから言いづらそうなのではと睫毛がふるりとした。 それを見とがめた龍之介は息を吸った。
「違いますよ」
と、まずてつこの焦燥を否定して一旦言葉を区切った。
「二つ目は、…単純なものです。ていうか一つ目と同じようなものですけど」
相変わらず歯切れの悪い龍之介だったが、てつこに見つめられて観念したのか、がくりと項垂れて、そして今度は天井に目をやった。
「あなたの足にぼくが追いつけなくなったからですよ」 「えっ?」
目を見開いてぱちぱちとしばたたいたてつこに、龍之介はだから言いたくなかったのに、とこっそり舌打ちした。
「今この屋敷にいる者で逃げるあなたに追いつける人間なんて数えるほどですよ。だから執事長のシュバインさんがあなたを捕まえる担当になったんです」
どうせ捕まえるの無理なんだから無駄に体力消費しようとすんな、大人しく部屋にいろ、と言い含められて、確かにそれもそうだと従っていたのだ。 が、それによりてつこに泣きながら責められる羽目になったのだと考えるとちょっとオールバックの男が憎らしく思えるが、仮に言ったとしてもそりゃ悪かったなと流されるのは目に見えてまた腹が立つ。いいけど。
「…じゃぁ、ゆっくり走ったら追いかけてくれるの?」
遅まきながら第二の理由を理解したてつこはぽそ、と呟いた。 思わず龍之介は沈黙する。
「……そんなにおっかけてほしいんですか」
なんというか、呆れる以外の選択肢がない。
「そういうわけじゃ! ない…こともない、けど…」
声に出したつもりはなかったらしく口に手の甲を押し当てながら否定したてつこは、ふぅん?と目を細められて途中で素直になった。 さっきあれだけ泣き喚いて醜態を晒したのだ、強がったところで効果も意味もない。 そう思ったてつこは、最も気になっていたことをちゃんと聞こうと胸の前で手をきゅ、と握った。 ──まだ、龍之介は頭を撫でてくれていて、その手はとてもあたたかで、だから大丈夫だと思えた。
「─…あの、あのね?…べ、勉強時間が、短くなったのは…どうして、なの?」
ここ一ヶ月ほど、以前より勉強時間が減っていた。それは5分とか10分という時間にすれば短い、取るに足りないものだけれど、それでも今まで笑顔で褒めてくれた龍之介が、笑うことも減った状態でそれというのは勘繰ってしまうというもの。
「…それから、あんまり笑わなくなったのは、なんでなの?」
ためらいがちに尋ねるてつこは、緊張している自分に気がついて乾いていた唇を舐めた。 そうして、きちんと聞くべく龍之介を見つめた。それを待っていたかのように龍之介は口を開いた。
「時間が短くなったのは、あなたの理解が早くなったからです」 「え…?」 「今までより理解が早くなったら必然的に時間が余るでしょ」 「で、でも、じゃあ先に進むとか…」 「学習内容には適度な区切りがあるんです。先に進んで変に途切れたら教えづらいし教わる方にも良くない」
そんなこともわからないのかとでも言い出しそうなほどごく普通に、平坦に言われて、てつこは拍子抜けした。
「それ、だけ…?」 「それだけ」
嫌われたんじゃないかと本気で心配して、そうでないにしろ何か大仰な理由があるのではと案じていたら見事に杞憂だったようだ。
「理解が早いのは良いことだし、喜んでいいことですよ。学習時間が減れば、その分自由時間も増えるんだから」
言い終えて、ぽかんとするてつこに長い息を吐く。 ほらもういいでしょう、と立ち上がっててつこの手を取り、抱き起こそうとした龍之介は、そのてつこに押しとどめられた。
「待って」 「なんです?」 「もいっこの方きいてない」
ぴし、と龍之介の表情が止まった。 反射的に龍之介の袖をぎゅうと握ったてつこは、く、と息を飲んだ。
「──言えないようなことなの…?」 「…いえ」 「じゃあどうして」 「──正確には言えないんじゃなくて言いたくないんです」
無意識に眉間に皺を寄せた龍之介は、てつこが言葉を失ったのを目にして、
「あぁもうっ! わかりましたよ!」
珍しく声を荒らげて、またてつこの前に腰を下ろした。
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