novel | ナノ







─想像して貰いたい。

例えば貴方がとある図書館の地下にいて、そろそろ帰ろうかと借りる本を抱えて、エレベーターに向かっているとしよう。

目をやると、誰かが乗ったそのエレベーターの扉が、今まさに閉まろうとしている。

当然ながら─まぁ貴方が相当ののんびり屋でなければ─貴方は焦り気味に乗ります、と声をかけて小走りでエレベーターに乗り込むだろう。

そうして、顔を上げた瞬間。


「……あ」
「…何階?」


その乗客が顔見知りで、同級生で、それも友達の友達、などというかなり微妙な関係の人間だったとしたら──、


「─……い、1階」


貴方は声を硬くせずにいられるだろうか?

─かいつまんで説明すると、鏑木真哉はそんな状況に陥っているのである。

真哉がいたのは地下3階──学生に優しい個別の自習室がある階だ。

元々、あまり知り合いに会いたくないからと地下3階まで来たというのに──まさかエレベーターで遭遇するとは思わなかった。


「………」
「………」


─気まずい。

真哉は目が泳ぐってこういう事かと思いながら、冗談じゃなく冷や汗をかいていた。

傍らの同級生は、ただ平然と扉を見ている。

沈黙が嫌に耳に痛い。

こんなに地下3階から地上までが遠いと感じる事は初めてだ。

何か、何か話さなければ。


「…も、本好くんも、よく地下まで来るの?」
「そうだけど。…まぁ、静かで便利だし、ここ」


突然の問いかけに、同級生──本好暦はさらりと返した。


「そ、そうだよねぇ〜……」
「………」


会話終了。沈黙が落ちた。


(…あぁぁぁ気まずいっ……!誰か助けて……!!)


エレベーターが加速すればいいのに、と一瞬真哉は本気で思い、それでエレベーターが故障して閉じ込められたらもっと気まずい事になると気付き、ボタンを殴るのは止めておいた。

そうして、真哉はちらりと本好を見る。

本好は黒いポロシャツにブラウンのボトムというラフな格好で、白いショルダーバッグを掛けている。その手には何故か、黒い立派な傘を持っていた。

今日は晴れてるのにな、と真哉がぼんやり思っていると。


「何?鏑木さん」


本好がふいに、振り向いた。


「っ?!!え、えと、」


ばっちりと目が合った真哉は、居心地悪そうに─というより実際居心地が相当悪かった─口をもごもごさせる。

まさか格好をじろじろ見ていたなどと言う訳にもいかず、真哉はだらだらと汗を流し、必死に言い訳を考えた。

と、その時。

─ちん、と音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。


「…着いたよ、1階」


本好の言葉に、真哉ははっと我に帰る。


(た、助かったーー!!)


「う、うん、またね本好くん」


どっとした疲れを感じながら、真哉はこそこそとエレベーターを出る。

すると、


「鏑木さん」


背後から静かに声をかけられた。


「っ!、な、なな何?」


恐る恐る振り向くと、本好は扉の開閉ボタン─もちろん開く方─を押しながら、真哉を無表情で見つめる。


「傘持ってる?」
「……へ?」


本好の予想外の質問に、真哉は思わず間の抜けた声を出した。


「持ってないんだね。知らない?今日のこれからの降水確率、70%」
「……う、嘘?!」


真哉は慌てて窓の方に目を向ける。

確かに空は雲に覆われ、辺りが暗くなっている。

すると、本好は持っていた黒い傘を、すっと前に出した。


「これ使えば?」
「…え?!で、でもそしたら本好くん」


そんな少女漫画よろしく濡れて帰られたら、こっちも相当困る。


「俺?俺は大丈夫だよ別に。もう一本折り畳み傘持ってるし」
「…あ、そ、そうなんだ」


本好らしい言葉に多少ずっこけながら真哉は言った。


「じ、じゃあ…その、お言葉に甘えて」
「そうして、じゃないと本が濡れるし」


真哉に傘を渡した後、それに、と本好は続ける。


「その本、割と新品だし。一番困るの図書館側じゃない?…後」


言いながら、本好は閉める方のボタンを押したらしい。

エレベーターの扉がゆっくりと閉まっていく。


「部活の為に特訓でもしてるんでしょ、鏑木さん」
「!!」


真哉が呆気にとられている内に、扉は完全に閉まって。
エレベーターは上の階へと移動していった。


「………」


真哉は己の抱えた本を見る。

表紙には毛糸やフェルトなどの写真、そしてピンクで可愛らしく書かれた─手芸入門、などというあまりにあからさまなタイトル。

息を吐いて、ばれてた、と呟いた。

これだから知り合いに会いたくなかったのだ。こんな初歩中の初歩の段階などと。

それでも、と真哉は思う。

会ったのが本好で良かったかもしれない。

頑張れ、とは言わなかった。
まだそんな所?とも言わなかった。

ただ、特訓でもしてるんでしょ、と考察のような言葉だけをくれた。

まるで突き放したような、心底興味なさげなあの声が、真哉にとってどれだけ楽なのか、きっと本好は知らないのだろう。


「ありがと、本好くん」


真哉は呟くように言って、本を抱えなおし、本好が残した傘をぎゅっと握った。

─外では、いつのまにか雨が降り出している。



2010.08.18