助教授室のドアを開けて中へ歩を進め、手のなかのカルテを捲りながら顔を上げた加藤の目は少しだけ大きくなった。そして一瞬のち、今度は細くなる。眉もしかめられた。 細いヒールのパンプスはカツカツと音を立て、部屋の奥――デスクにたどり着く。
「起きなさい」
短い言葉とともに華奢な加藤の手が振り下ろされ乾いた音が響いた。パシッというその音とごくごく軽い痛みにうーんと呻き声を出したのは朝田龍太郎であった。 デスクに伏せていた身を起こし、大きな欠伸と数度のまばたきをして、
「おっはー」
と加藤に爽やかに笑いかけた。
「ふざけてないでどきなさい」
とうに聞かなくなった挨拶を冷たくはねのけた女は、そのまま朝田をぐいぐいと押す。 さもありなん、そこはまごうことなく加藤昌のデスクなのだ。こいつがこの部屋のこの席で寝ていることがおかしいのだ。さあ退け。
「えー……ヤダ」 「叩かれ足りないのかしら。それとも頭が足りないのかしら」 「かとちゃんのイジワル!」
両手を握って口元に持っていきポーズをキメて上目遣いで裏声でしなを作る。作られても成人男性だ、すこぶるかわいくない。ましていつも加藤に手間をかけさせている朝田である、加藤に怒気が立ち上った。 けれども全く意に介さない男はへらへら笑っていた。楽しそうだった。クールな美人が自分の意のままに感情を揺らすのが愉快なのかもしれない。 なんとなく面白がられていることを察した女は、一度大きく息をして額に手をやり気持ちを落ち着けた。この男に良いようにされるのはごめんだった。
「だいたいなんでここで寝てるのよ。嫌がらせ?」
キッと睨みながらデスクから適当にファイルを取り上げ、そのままパシパシと相変わらず座したままの男の頭をはたく。このくらい許されるだろう。避けようと頭部を右に左に動かされたが追ってはたく。 パシンパシン。 退くまで続ける意思が感じられた。 攻撃を回避するのを諦め、しかし立ち上がる気のなさそうな朝田はますます背もたれに体を沈めた。
「なぜそんなに頑ななのかしら」 「俺はここを守る騎士なの」 「医師でしょ」
ファイルを持っていない方の手で、キリッとした顔で軽口を叩く男の口を捻り上げる。わりと強めにつねっているが朝田はなにやら嬉しそうだ。加藤はどん引き、もとい戸惑った。
「そろそろ気持ち悪いわよ?」 「だって助教授サマと遊ぶの楽しーし」 「遊んでる気は毛頭ないんだけど。いい加減そこ退いてよ」
とうとう蹴り出す加藤だが、痛い痛いと言うだけでやっぱり退かない。実は接着されてるのかな、とちょっとだけ馬鹿げたことを考えた加藤は頭を振った。存外自分はいつの間にかバカ(朝田)の影響を十二分に受けてしまっているようだ。悲しい。
「なんで退かないのよ…」
最早疲れすら感じて、加藤は薄い肩を落とした。
「逆になんで退いてほしーの?」 「逆に? なにがよ馬鹿にして。こ・こ・は・わ・た・し・の・せ・き」 「じゃあ今から俺の席になったってことで」 「はぁん?!」
苛立ちが募り取っ組み合う覚悟を決めかける。ついさっきまで惰眠を貪っていた奴と違い、こっちは疲れているのだ。座りたいのだ。無駄なやり取りがとてつもなく癇に障る。 ファイルを卓上に丁寧に置いてから、これまた律儀に丁寧に朝田の首を絞めにかかっている加藤をよそに、当の朝田は生命の危機をスルーし頬を膨らませた。だからいくらかわいこぶられても大の男ゆえにかわいくないのだ。加藤の眉間のしわは深くなる一方だった。
「ていうかせっかくいい夢見てたのに無理やり起こされた俺、カワイソウじゃないわけ?」 「爽やかに起きてたと思いますけど?」 「んー? それはほら、起きてすぐ美人が目の前にいたら嬉しいだろ? たとえ中身が可愛くなくても」 「私は喧嘩を売られてるのかしらね」
ぎりぎりと締め上げる。減らず口とともにいっそ呼吸も止まってほしかった。もちろん医者だからといってこの迷惑野郎を蘇生してさしあげる優しさなど見せてやるつもりはない。
「ちなみに夢の内容気になったりしない?」 「しない」 「なんで」 「てんでまるで全くちっともさっぱりからきし少しも露ほども些かも興味ない」
きっぱりバッサリ言い捨て明後日の方角を向く加藤に、朝田はといえば不満げに口を尖らせている。
「お前の夢なのに」 「興味ないってば、……は?」 「加藤の夢」 「…………あっそ」 「えっっろい加藤センセーでした」 「はぁ!?」
なんて夢を見てくれているのだ。
「じ、冗談でしょ?」
勝ち気な普段の姿と違って、焦りにどもる女医を前に男は口元をこれでもかと弛ませうへへと笑ってみせた。わざとらしく品がなかった。
「いやー加藤ってあんな風になるのなー。意外と声も大きいしー。あ、ああいうねだり方誰に習ったの?」
本当になんて夢を見てくれているのだ。
「朝田くんが勝手に見た事実無根な夢をさもあったことのように語るのはやめてくれる?」 「正夢かもしれないだろ?」 「セクハラで訴えられて圧勝されたいの?」
いよいよ苛ついている加藤はもう一旦この部屋から出て行こうかと視線を入り口に投げた。このまま朝田と相対していても疲れがたまるだけなのは目に見えている。
「超リアルだったぜ? 実際あんなんになるんじゃないの」 「しつこい。ただの夢でしょ、言いがかりも甚だしいわよ」
もういいや外行こ、と踵を返す加藤の白衣は軽く翻る。 その裾を捕らえる手があった。無論朝田である。外科医向きの大きなその手が白い布を引き、そうして足を止められた女の腰はそのまま捕まった。 ぐい、と思い切り後ろに引き寄せられてしまえば当然バランスは崩れ、ヒールで踏みとどまれるはずもなく足は縺れる。
「きゃ、」
という短い悲鳴をあげ終えたときには、さっきまで取り返したかったが諦めてしまった加藤自身の椅子に座っていた。いや、正確には、加藤の椅子を奪取していた男の膝に収まっていた。後ろから抱きかかえられていた。 予想もつかない展開にさすがの加藤晶といえど、思考は完全に止まっていた。ショート寸前ってやつだった。
「実際はどうなんのか確かめさせろ」
意地悪い声を発すると同時、男は腕のなかの未だ硬直したままの女の耳に唇を寄せ――パクン、と啣えた。 状況把握に手間取る加藤は、それでもやっぱり固まったままだった。背後の男はそれを至極自分勝手なことに了承の意と捉えた。小さな耳を含む唇を薄く開くと、舌を出した。ぬる、と舐めあげてなかに侵入を試みる。 試みられたところで、やっと加藤は我に返った。
「なにしてるの! 放しなさいっ」
じたばたと暴れて、腕が作る檻から脱しようと懸命にもがく。しかし加藤とは比べ物にならないたくましい腕はビクともしない。だからといって逃れることを放棄してされるがままというわけにはいかない。そんなのお断りだ。 だが、唐突に、ぬらぬらと舐め遊ぶのをやめたと思いきや今度は首に甘く噛みつかれて加藤の身体は知らず反る。まるでとても甘露な味がするかのように延々と食んでは吸い上げられる。やがて拘束する腕は片方になり、伸ばされた左手が、暴れて捲れてしまい晒された白い太ももを辿る。上下にいやらしい刺激を与え続けられて、段々と力のこもった筋肉は弛緩していく。
「ふぅ――くっ、んんン……!」
この外見でこの年齢だ、生娘であるはずもない。すでに快楽を知り尽くし覚えている女の肢体は、今が夜であるかのように、ここが臥所であるが如く錯覚し反応するのを止められない。それどころか、悦楽を余さず受け止めようとでもするように全身がますます敏感になっていく。密着する男の体温は燃えるように熱い。最も接触する背中が感じるその熱も、間近で感じる荒い息も、男が発するなにもかもがゾクゾクと五体全てを戦慄かせた。 悔しさだとか戸惑いだとか羞恥だとか様々な感情が渦巻いているが、それらまるごと放り投げてこのまま流されてしまいたいような気にさえなり、加藤の視界はぼやけていった。 だが、
「――エロ……っ」
という急に聞こえた男の声音が妙に響き、その途端はた、と我を取り戻した。 セクハラも甚だしい夢を見られてにやけられて怒っていたのに、それを遥か上回るレベルの痴漢行為を堂々働かれてなにを許しているのだ私は。ちょっと、いや、かなりの強さで自分で自分を殴りたい。 加藤はいきなり上体を倒した。本来連れ合い同士がする行いを未だに続けている男は、その行動も己が被らせた享楽による反応だと解釈して――ありていに言えば油断していた。そして、とっくに冷静中の冷静になっている加藤は、背中ごしでもその隙を逃さなかった。 倒していた身体を勢いよく元の角度に戻す。鈍い音が部屋に響いた。冷静ながらに相討ち覚悟なアタックを選んだ加藤であった。先ほど感じた自分を殴りたいという思いをついでに叶えるには都合の良い攻撃を選んだのかもしれない。要するに、強烈な頭突きを朝田に見舞ったのだ。
「イッテェ!!!」
女だてらに差別の多い大学病院で助教授に登り詰めた知識たっぷりの頭を、もろに食らって唸る朝田からさっと逃れて立ち上がる。男に向き直りながら、私も痛かったんだからと言わんばかりに後頭部をさすりつつねめつけた。
「危うく舌噛むとこだったじゃねえか」 「いっそ噛み千切って絶命すれば良かったのよ」
どこまでも冷たく言い放つ声は平坦で、先刻まで喘いでいたとは思えない。とても惜しい。残念すぎる。もっと聞いていたかったのに。胸中でぶつぶつ言う(口に出せば第二撃が来そうだから)朝田に対して、加藤はやはり冷淡に見下ろし、
「冗談にしては度が過ぎてるわ」
酷薄に吐き捨てる。腕組みをして仁王立ちし、これ以上ないほどに私は不愉快ですと全身で主張するそんな加藤を前に、朝田といえども閉口せざるを得なかった。けれど言いたいことはある。 物言いたげに見上げてくる様が普段の朝田とは雰囲気が異なっていて、加藤は一瞬間怯むが被害者はこっちだと無視することにした。
「タチが悪すぎる。あのね、私相手だからまだいいけど、他の人間にやったらどうなるかわからないわよ」 「え?」 「え? じゃないわよ。朝田くんの誰が相手でも気負いなく接せられるところは評価してるけど、いくらなんでもこういう形はヒドイでしょ」
不快さは姿を消し、変わりに心の底からの呆れが顔に浮かんでいる。
「……いやあの、加藤さん?」 「いやあのじゃないわよ。準強制猥褻罪食らう気?」 「イヤイヤイヤ」 「朝田くんが嫌がっても罪は罪なの。捕まりたくなきゃイタズラの程度と種類をしっかり考えなさい」
完璧に説教→注意勧告という流れを取る加藤に、上向く朝田の方にもなにやら呆れの表情があった(でも少しだけ加藤がイタズラって言うとエロかわいいななどと阿呆なことも思っていた)。
「あんたどこまで鈍いの?」 「は?」
ぼそりと呟いた不満が見え隠れする一言を、耳聡く聞きつけた加藤の柳眉が上がる。
「なんで耳だけ鋭いんだよ」
ほかの部分も鋭くなれよ、心中で毒づいてから気を取り直した。普段の悪乗り具合を余さず見咎められ小言を言われていたことを鑑みると、かーなーり譲歩するがなるほど悪ふざけの延長と思えなくもないような気がしないでもなかった。普通はどう考えてもないが。 なんのためにこんな資料やら本やらくそが付くほどの真面目さで溢れ返る場所にこの自分がいると思っているのだ。今度は聞き咎められぬようとても密やかにひとりごつ朝田は、結構身勝手な自覚が皆無だった。順番を激しく間違えていることに思い至っていなかった。 それでも、わかっていない男なりに、流れを変えるべくやり方を変えてみようと思い立つ。
「俺がここで寝てたのはお前の匂いがするからって言ったらどうする?」 「キモチワルッて言うわ」 「……そんだけ?」 「変態とでも付け加える?」
朝田の努力もむなしく、加藤昌はどこまでも加藤昌だった。ぶれない。指針がずれないのが彼女の長所であり、朝田も好ましく思っているところだ。だが今はそれが邪魔以外のなにものでもなかった。腹立たしい。
「……じゃあ、お前の夢が見たかったから、お前の匂いがするここで寝てたって言ったら?」
軽くジト目になって、もうやけだと言わんばかりに投げやりな言い方をした。 それがいけなかったのだろうか。
「このセクハラ男! て言ってあげる。ていうか、くどいわよ、もう」
とても恥ずかしいというそれなりのリスクを負って言った台詞も相変わらずのノリで返されて終わった。朝田は、なにこの難攻不落女? とうなだれるしかなかった。そもそも、やり方と平生の行いをことごとく誤ってきたのが悪いというのは棚にあげていた。まあそうでなくとも、加藤のこの方面に対する鈍感っぷりも突き抜けている、結果は似たようなものかもしれなかった。
「望み通り美人な加藤昌サマの淫夢が見られて良かったデスヨ」
負け惜しみがごとくそっぽを向いて、でもしっかり本音な文句を言えば、
「あらそう良かったわね。今度裁判起こしてあげるから、続きも見れば?」
はいはい、と適当にあしらわれて、ちょっと前まで軽い男女の睦み合いを交わしていたとは思えない空気はどうあっても変えられそうもなかった。
「なんかお腹空いたから食事に行くわ。好きに夢見てなさい」
もう椅子取りゲームをするつもりはなくなったらしく、加藤はどうでもよさそうに右手で再び取り上げたファイルで朝田の頭に何度目かわからないはたきを食らわせて、扉へ歩いていった。ノブに手をかけてから、顔だけこちらへ向けて、
「よだれ垂らさないでよ?」
叱るように言い含めると廊下へ消えていった。最後の最後までおばかさん扱いのままだった。朝田はデスクにバタンッと盛大に突っ伏した。イニシアチブを取っていた今し方が凄まじく懐かしかった。いっそ最後までいけば良かった。殴られたかもしれないが。いや十中八九殴られるだろうが。 言葉にするのは苦手なのだ。先に身体が動くのは昔からの性分だった。だからこそ、加藤を相手のアプローチがこの上なく困難だった。いっそどんな術式より難しいのではないか。 朝田は誰かに捕まるのは好みではない。ひとところに縛りつけられるなど勘弁だ。 ――だが、あの女を取り逃がすなど考えられない。
「くっそ……ヨダレつけてやる」
でも今は敗北感でいっぱいで、次の一手など浮かぶ余地はなかった。ふて寝するしかない。夢に逃げよう。お言葉に甘えて、都合のいい素敵な夢の続きを見させていただこう。 覚えてろよ、と甘やかな香りに包まれてストンと寝落ちしながらの呟きは空気に溶けていった。
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ずっと待ってたドラマ医龍4がやって嬉しすぎるので朝加書きました。ドラマ朝加も好きですが、より好みなのは原作朝加。 朝加は朝→→→加くらいが理想。おもしろかわいい。んで、加藤せんせは総受けだといいなというか、鬼加も好きなので、鬼頭せんせにちょっかい出される加藤せんせに朝田は猛烈に焦ってたらいいよ
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