あのこは、俺達のおひめさま。とびきり可愛くてにぶくて、大事な大事な幼なじみだった。本当は「だった」なんて使いたくないけど、そうしないとうまく折り合いを付けられない。仕方ないんだ。彼女は今日、俺達と繋いでいた手を離す。いや違うな。ほんとはもっともっと前から離れてたんだ。俺達がそれを信じたくなかった。少しずつ離れていく月子本人を見たくなくて、思い出の中の、俺達のものだった月子と手を繋いでただけ。本当のあのこはもうずっと、俺達とは違う男の腕の中にいる。手も、肩も、俺達が抱き寄せちゃいけないものになってた。

 穏やかに微笑むあのこは一際綺麗だった。白いヴェールから覗くすっきりとしたあごの線を見つめて、俺は溜め息をついた。こんなに、こんなに綺麗だったんだな、おまえは。可愛いってことは知ってたけど、今日初めて、おまえを綺麗だと思ったよ。触るのをためらってしまいそうな美しさを持って、おまえはそこにいる。ほんの数メートル先、けれど俺達の手が届かない遠い場所に。

 けっこんするの、って恥ずかしそうに俺達に伝えたおまえのはにかんだ顔、今でも覚えてるよ。ごめんな、俺は卑怯だから、おまえとおまえの恋人が別れれば良いのに、って一度だけ思ったことがあるんだ。謝るよ。ほんとにごめんな。おまえの不幸を一瞬でも望んだ俺を、どうか嫌わないで。

 隣を見ると、哉太がものすごく情けない顔をしてた。中学生のときかな、殴り合いの喧嘩に負けてぼろぼろのどろどろになったとき、月子には言うなよ、ぜったいだからなって、そう言って悔しさを噛み締めていたあの表情よりももっと、ひどい。目の縁に今にも零れそうな涙の粒をくっつけて、ぎりぎりと音をたてそうなくらいくちびるを噛み締めて、両手に握り拳を作って、哉太は花嫁姿の月子を見つめていた。その姿かたちを目に焼き付けるように、あるいは目の前の現実を疑うかのように。

 なあ月子、俺達はほんとに、おまえが大好きだったんだ。幼なじみとして、女の子として、心から好きだったよ。ずっと。いつか離れていくおまえに、俺達は怯えていたんだ。ただ並んで、一緒にいられたらって思ってたけど、そんなわけないよな。そもそも、高校生になってまで一緒にいられたことが奇跡だったんだ。普通の幼なじみより離れるのが遅かったから、こんなに辛くなっちゃうんだな。後悔してるわけじゃないけど、この奇跡が、今は、辛くて、苦しいんだ。

 哉太。おまえがいてくれて良かったよ。羊はどうしても仕事が抜けられなくて来れなかったって言ってて、それは寂しかったけど、離れていく月子の姿を見なくて済むのは、ちょっと羨ましいな。いや、来たくなかったわけじゃないんだけど、さ。月子の晴れ姿を見られて、俺は嬉しいよ。でも、やっぱり切ないな。複雑、って言えば簡単なんだけど、その言葉ひとつで表現されるより、もっともっと、ぐちゃぐちゃしてるんだ。はは、俺、もう支離滅裂だな。

「なあ、哉太」
「なんだよ」
「つきこ、きれいだな」
「馬子にも衣装だ」
「ほんとにきれいだ」
「……ああ」
「なあ哉太」
「なんだよ」
「手、繋がないか」
「なんでだよ、バカか」
「だって、もう月子がいないから」
「は?」
「もう俺達の間に、いないから」

 ぽっかりと空いた俺と哉太の間には、ひとりの女の子がいるはずだった。だから空いてる。ひとりぶん。俺達が手を伸ばせばその隙間はなくなる。俺はその隙間を埋めたかった。嬉しさを邪魔する寂しさを埋めて上手に笑えるようになりたかった。

「ガキじゃ、ねえんだから」
「そう、だな」

 俺達は隙間を埋められない。ぽっかりと空いた空間に月子はいない。俺達は隙間を埋めたくて、でも埋めてしまうことで月子がこの場所に戻れなくなるのが嫌だった。

 月子はチャペルの玄関口で幸せそうに笑っていた。俺達はそれを眺めている。遠かった。あまりにも、遠かった。

「月子ぉーーー」

 後ろから、声が聞こえた。哉太が後ろを振り向く。タクシーの扉が閉まる音。慌ただしく走る足音。哉太が目を見開く。そして俺達の空いた隙間に人影が入り込んで来て、そいつは繋がれなかった俺と哉太の手をぎゅっと掴んで、万歳をするように、両手を上げた。俺の右手がぐいっと持ち上げられたが、その力があまりにも強くて少しだけ関節が痛かった。哉太は面食らった顔で、その男を見ていた。

「結婚、おめでとう! ずーっと、あいしてるー!」

 羊はいつになく明るく、大声で、その中性的な顔をくしゃっと崩して、泣いてるんだか笑ってるんだか、どっちかにすればいいのに、ぼろぼろ涙を零しながら、それでも笑顔で、腕を振り上げる。あいしてる。だいすきだよ。だから、しあわせになってね!

 羊は、すごい。すごいよ。ずっと抱いていた優しい恋心を、自然に、当たり前みたいに、友愛に変えていったんだな。すごいよ。すごいな。俺は、できるかな。この手にこびりついた愛着とか執着とかを、ささやかな友愛に変えていくことができるのかな。

「ッ、つ、つき、こぉー! 月子ーーーォ」

 続いて声を上げたのは哉太だった。瞳にくっついてた涙の粒はとっくに崩れて、一筋になって哉太の頬を流れていく。

「しあッ、う、うぅ、幸せに、なれよ! ずっと、ぜったい、ッ、幸せでいろよ!」

 なあ、俺も言えるかな。自分勝手な傷心なんかにサヨナラして、心から、おまえの幸せだけを祈れるかな。頼むよ。大事な友達が泣いてるんだ。俺も便乗して、泣いたって良いだろ? それくらい許してくれよ。子供みたいに大泣きしたら、この寂しさとか辛さはどこかに放り投げてしまえるから。

 花嫁姿のおまえが振り向いて、三人で手を繋いで万歳する俺達を見つけた。まず、来れないって言ってた羊がいることに驚いて、それから哉太が泣いているのを見て目を丸くする。最後に俺を見てポカンと口を開けた。そうだよな、俺、おまえの前で泣いたこと、ないもんな。驚いたか? これはきっと俺がおまえに見せる、最初で最後の涙だよ。

「月子!」

 俺と哉太の間が空いてるのは、おまえのためだと思ってたよ。でも少し違ったな。羊が来てやっと分かったよ。

「いつでも帰ってこい! いつだって、俺達が、味方になってやる!」

 羊が来て、隙間が埋まる。きれいな三角形ができる。それは羽ばたいていくおまえが、帰ってくるときに休める巣になるよ。いつでも帰っておいで。いつだって迎えてやるから。俺達はいつまでたってもおまえをあいしているから、幸せを祈っているから。

「大好きだ! 月子! 幸せになれ!」

 喉が痛くなるくらいに叫んだ。月子は幸せそうな笑顔の上から涙を流した。俺達は月子の幼なじみだ。そして月子は、俺達の大事なおひめさまだ。それだけで良い。俺は何も失わない。

 月子、月子。

 幸せになれ。