::お嬢様、お手をどうぞ・前 『どうしても明日は人手が足りないのニャン。手伝ってほしいニャ』 「だが断る」 『時給千円出すニャン』 「ぐっ……! 金で人を釣るなど、卑怯だぞフェイリス・ニャンニャン!」 『なら千百円でどうかニャ?』 「……」 『キョーマー?』 「……本当に明日だけだな?」 『勿論ニャ。猫耳に二言は無いニャン』 「……」 岡部の沈黙を肯定と受け取ったフェイリスは、『交渉成立ニャン。明日の朝九時にメイクイーンでお待ちしておりますニャ、クロト様♪』と言って電話を切った。岡部は通話終了の電子音を片耳で聞きながら、盛大に溜め息を吐く。 「どうしてこうなった」 またあの堅苦しい燕尾服を着なければならないと思うと、気分はとても憂鬱だった。 *** 「ま、待って待って、それだと苦しいから!」 「クーニャン、動いちゃダメニャン! 緩めるから待つニャ」 「そうだよークリスちゃん、きちんと着つけないと動いてるうちにはだけちゃうからー」 「やっぱり私には似合わないわよ……これならメイド服の方が、着たことがある分ましだったわ」 「そんなことないニャン。後は髪をまとめてアップにすれば完璧ニャン」 「うんうん。オカリンが見たら何て言うかなー♪」 朝の九時、夏の日差しを避けながらたどり着いたメイド喫茶、メイクイーン・ニャンニャンの扉に手をかけて押し開くと、楽しげな女子のおしゃべりが聞こえてきた。まだ入らない方が良いだろうかと躊躇していると、いきなり自分の名前が話題に上がり、岡部は目を丸くした。どうしてこう、女子の会話はとりとめなくころころと話題が変わっていくのだろう。 「なっ何で岡部の話題がここで出てくるのよ! あいつは関係ないでしょ」 「関係あるニャーよ?」 「今日はオカリンも執事さんをしてくれるんだよー」 「えっ、よりにもよって給仕の方で来るの?」 「ニャフフ、クーニャン、浴衣でキョーマをおもてなしして悩殺する方が良かったのかニャ?」 「違うわよ!」 ……浴衣? と疑問に思い、岡部は店の入り口に置かれたままの看板を見た。体をかがめて覗き込むと、フェイリスが自ら手がけたらしい丸い文字で「メイクイーン・ニャンニャン本日浴衣デー」「浴衣姿のメイドさんがご主人様をお出迎え♪」と書いてある。浴衣を着ていてメイドなのか? メイドのアイデンティティはどこにあるんだ? 「あれーオカリン、来てたんだー?」 鮮やかな青の浴衣に明るい黄色の帯を締めたまゆりは、扉を開いて岡部を見つけるとのんびり微笑んだ。裾の方には跳ねる金魚が描かれており、幼い顔のまゆりに良く似合う可愛らしい浴衣である。 「オカリンも着替えるんだよね。早く早くー」 「入って平気か?」 「平気だよー」 先ほどの会話からして着替え中かと思ったのだが、もう終わったのだろうか。ぐいぐい手を引かれ、岡部はメイクイーン・ニャンニャンの扉を開く。 「キョーマ! お帰りニャさいませ……じゃなくて、ようこそニャン!」 「な、ちょっと岡部、来るの早いわよ!!」 ちらりと見えた紅莉栖らしき影は、岡部の来訪を知るとカウンターの姿を隠した。フェイリスに視線を向けると、彼女は肩をすくめて笑った。 「ほらークーニャン、今日はそれで一日接客するのに、キョーマの前にも出れないようじゃダメニャン!」 「うう……」 フェイリスが急かすように紅莉栖の手を引く。渋々と言った様子で姿を現した紅莉栖に、岡部は目を見開くことになる。 「……じろじろ見るな……」 紅莉栖の着ている白地の浴衣には藤色でまとめられた花が多く散りばめてあり、濃紫の帯が全体の印象をスマートに引きしめていた。岡部は浴衣の良し悪しについての知識は無かったが、まゆりとは対称的に大人っぽい印象があるな、と思った。紅莉栖はもじもじと気まずそうに顔をそむけ、頬を赤く染めていた。 何故カウンターに隠れる必要があったのだろう、こんなに似合っているのに。そう思っても言葉に出せないのが岡部倫太郎であった。 「キョーマ、見とれるより先に褒め言葉の一つでもかけてあげるニャン」 「み、見とれてなどいない! 俺はこの浴衣の花の数を数えていてだな」 「言葉にできないくらい似合ってて可愛いってことだよね? オカリン♪」 「まゆりはその超解釈をやめろ!」 岡部が慌てて否定すると、紅莉栖は諦めたように溜め息を吐いた。 「もう良いわよ、こんな大人っぽい浴衣、絶対似合ってない……」 「フン、知らないのかクリスティーナ」 「……何をよ」 「浴衣は胸が無い方が似合うらしいぞ。その論理で言うと、お前はどんな浴衣も似合うということになる」 「死ね! 氏ねじゃなくて死ね!! 二回死ね!!」 紅莉栖はムキになって腕を振り上げ、岡部に殴りかかる。「見切った!」とその腕を掴みにやにやと笑う岡部と、悔しそうに歯噛みする紅莉栖の二人を見ながら、 「素直に似合うって言えば良いのねぇ」 「キョーマは局所的ツンデレニャ」 フェイリスとまゆりは顔を合わせて笑った。 *** まずは洗面所に向かって髭を剃り、渡された衣装に着替える。裾の長い燕尾服は普段着ないもので、鏡を見て合わせても違和感ばかりだ。 「キョーマ、準備出来たかニャ?」 「後は髪形だけだ。しばし待て」 「髪はフェイリスがやるニャン。完璧にクロト様にしてあげるニャン♪」 ひょこりと顔を出したフェイリスは、岡部が手に持っていたムースの缶を取り上げた。 「おい」 「時給を出す以上、オーナーのフェイリスに従ってもらうニャン」 「……分かった。手早く頼む」 「合点ニャ!」 いつもよりもきっちりと髪を後ろになでつけられたかと思うと、フェイリスは指先で前髪を少し崩し、右に左に移動しながら調整していった。目が真剣そのもので、岡部は動くことができずに体を硬直させる。 「随分とこだわるな」 「当たり前ニャ! キョーマは今日一日、お嬢様方に傅く執事のクロト様なのニャ。中途半端なのは許されないのニャン」 「思ったんだが、俺は浴衣でなくていいのか? 浴衣デーなんだろう」 「それはダメニャ。もしもキョーマが浴衣を着ると、『浴衣の女の子に囲まれた一人の男』って絵面になるニャ。それはお嬢様にもご主人様にも受けが悪いニャ」 フェイリスは岡部の顔をぐいっと動かして自分の方を向かせると、じいっと見つめてから微笑んだ。「これでバッチリニャ!」と言うと口元に指を当て、 「キョーマ、クロト様になりきるためのポイントがあるニャ」 その指でちょんと岡部の胸の辺りを指した。 「引いて、控えて、丁寧に、もう一度引いて、大きく押す。そして最後にまた引く、ニャン」 「……難解過ぎないか?」 「態度と仕草のことだと思えば良いニャン。それと今日は浴衣デーな分、妙なことを仕出かすご主人様も出てくる可能性があるニャ。だから、良く周りに気を配ってほしいニャン」 「何故そこまでせねばならん!」 「うちに来るご主人様は心得ているご主人様ばかりと思うニャけど……。浴衣は体のラインも出るし、ついうっかり、なんてことがあったら困るニャン。特にクーニャンは接客に慣れてないから、良く見ていてあげてほしいニャン」 「……」 「キョーマー」 「……あくまで出来る限りだからな」 「頼んだニャン♪」 お前、紅莉栖って単語を出せば俺が従うと思ってないか。しかし口にしてしまえばそれが事実になってしまいそうだと思い、岡部は口をつぐんだ。それと同時に背後の扉が開き、フェイリスはひらりと身を翻すと岡部から離れた。 「フェイリスさん、岡部用のネクタイってこれ?」 「そうニャ。じゃ、キョーマ、準備が出来たらお店の方に来てほしいニャ」 「おい待て! まだネクタイが」 「クーニャンに結んでもらうと良いニャー」 フェイリスはするりと紅莉栖の横をすり抜けつつ「キョーマは自分でネクタイ結べないから頼んだニャン」と言うと、紅莉栖に向けてパチンと完璧なウィンクをした。紅莉栖はしばらく意味を飲み込めず、手に持ったネクタイを見つめる。 「……は!?」 紅莉栖が気付いたときには遅く、フェイリスは急ぎ足でホールに向かうと他のメイド達に声をかけ始めた。「鞄にキョーマ用のネクタイを忘れてきちゃったから探してきてほしいニャ」と言われたから持ってきたというのに、何故そのまま岡部にネクタイを結んであげる、という話になっているのだ。紅莉栖は困惑していた。 「……いつまでそこに突っ立っているんだ。入ってこい」 「う、うん」 紅莉栖はネクタイを持ったまま岡部に近付く。岡部は気まずそうに頭をかこうとして、その髪形がフェイリスによって完璧にセッティングされたものだということを思い出して手を止めた。 紅莉栖はいつの間にか髪を高く結い、くるりと巻いて一つにまとめていた。更に左耳の少し上に大ぶりの花飾りをつけており、紅莉栖が動くたびに金属で出来た飾りがしゃらんと揺れた。 「俺はネクタイが結べないんだ。だから」 「あ、あんたね。どうせ必要になるんだから覚えなさいよ」 「どうしても覚えられないのだから仕方ないだろう」 「……ったく、もう」 紅莉栖はネクタイを持ったまま岡部に近づくと、「動くなよ」と一言告げてからネクタイをそっと首元に回した。紅莉栖の浴衣の袖が、するりと肩を、首を撫でていく。 体と体の距離が数センチまでに狭まって、空気を通して緊張が伝わってしまいそうだった。岡部はそのほっそりとした指が、ゆっくりとネクタイを結んでいくのを見つめた。 「じ、じろじろ見るな」 「見ないと覚えられないだろうが」 「それなら自分でやらないと覚えられないわよ」 「どうやるんだ?」 「だからこうやって、」 結び目が分からずに岡部が手を伸ばすと、紅莉栖の指にぶつかった。紅莉栖はびく、と肩を震わせて動きを止める。腕を上げているせいで浴衣の袖が下がり、白い腕が露わになっていた。右腕の内側に小さな、ぽっちりとしたほくろがある。思わずそれをじっと見つめていると、紅莉栖は戸惑うように声を上げる。 「……お、岡部!」 「な、何だ」 「そっちじゃなくて、こっちだってば」 紅莉栖は岡部の指をつまんで、結び目の部分を掴ませた。顔の距離が近いせいで、紅莉栖が俯いていてもその頬が真っ赤になっているのが丸わかりだった。やんわりと、弱い力で引っ張られて、岡部はのろのろとその指に従い、ネクタイに手を添える。 「こうやって、引っ張って調整して」 「……こうか?」 「それで、そのまま苦しくないくらい根元まで引き上げて」 ここまでやれば分かるでしょ、と、紅莉栖の手がネクタイから離れようとする。しかし岡部はそれを引きとめた。小さな体が再びびくりと跳ね、慌てて顔を上げると大きな瞳が岡部を見上げた。高く結った髪が揺れ、髪飾りがしゃらんと音を立てる。 「何よ!?」 「さ、最後までやらんか」 「ここまでやったら分かるでしょうが!」 「それでも、だ!」 まるで子どものような駄々に戸惑いながら、紅莉栖はネクタイを持つ岡部の手に自分の手を重ねて、引きあげてやる。その手の甲の固さや、骨ばった感じに、紅莉栖は自分の心臓がばくばくと音を大きくするのを感じていた。 手の大きさが、かたちが、全然、違う。 この手が、いつも自分の手を掴むのだ。手を繋ぎたいのに繋げなくて、勇気を出せないとき、ひっつかむように無造作に、照れを押し隠しながら、自分の手をすっぽり包んでしまう。 おんなの自分のものとは違う、おとこのひとの、大きな手だった。 「これで、良い、から」 「……ああ」 きちんと整ったネクタイを見て、紅莉栖はそっと一歩下がった。 「私も店の方に行くから、あ、あんたも最終確認してさっさと手伝いに来なさいよ!」 「待て、紅莉栖」 岡部は、後ろを向いて駆けだそうとした紅莉栖の腕を掴んだ。露わになったうなじを、浴衣を、背を、裾から覗く足を、見つめた。 「白は、膨張色なんだ」 「へ?」 「それでも、お前は太って見えない。着こなしている」 それ以上の言葉を言い出せず、岡部は口をつぐんだ。けれど最後の一言を言わなければ引きとめた意味がないと、大きく、一度深呼吸をした。 「に、似合っている。だから自信を持って店に出ると良い」 恥ずかしさを誤魔化すように、わざと、上から目線で告げる。すると紅莉栖もまるで何でもないように「それはどうも」と言って、岡部の手をすり抜ける。 ぱたぱた駆けていく足音を見送り、岡部は頭を抱える。もっと直接的な言葉で言えればいいのに、と思いながら、鏡を見てもう一度ネクタイをきゅっと絞り、気持ちを引き締める。 一方、紅莉栖はホール手前で足を止め、両手で顔を覆った。顔が熱い。けれど戸惑いよりも嬉しさの方が勝って、顔の筋肉が緩んでしまう。 「……も、ばか」 突然あんなことを言い出す岡部も、たったひとことでここまで舞い上がれる自分も。 どっちも、もう、おおばかだ。 |