::ある未来の話



「オカリンおじさーん!」
「グハアッ」

 窓をガラリと開けて、小さな子供は机に向かう背中に飛び移った。体重が軽いとは言え勢いよく飛びかかられてはひとたまりもない。机のへりの部分に腹部を強打し、岡部はゴッホゴホと思い切り咳き込む。

「狂気のマッドサイエンティスト、破れたりー!」
「ぐ……鈴羽……め……」

 けらけらと明るく笑う少女は岡部の背中にべったりと張り付いている。橋田鈴羽は好奇心旺盛の目をくりくりと輝かせていた。岡部はぐったりと机に突っ伏したふりをして、「不覚……」とがっくりうなだれた。

 しかし鈴羽がこの程度で満足するはずがない。フフンとご機嫌に鼻歌を歌う鈴羽が油断している隙を狙って、岡部はゾンビよろしくゆうらりと立ち上がる。

「わわわ!」
「ククク……フゥーハハハハ! だが! この狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真! その程度の攻撃ではやられんわ! くらえ! 狂気のジャイアント、スッウィーングッ!」
「きゃはははは!」

 咄嗟に逃げようとした鈴羽を後ろから捕まえて、脚を掴んでぐるぐると回してやる。乱暴な扱いにも鈴羽はころころ笑い転げるだけで動じなかった。

「フゥ、この辺で勘弁し」
「隙ありぃ!」

 岡部に脚を掴まれた鈴羽は床に手をつき、腕を回して体を捻る。しまったと思ったときには遅く、鈴羽は岡部の腕から抜け出すとそのまま蹴りを繰り出した。

「グハアッ!」
「やりー! 勝利!」

 鈴羽の蹴りは岡部の胸部にクリティカルヒット。岡部は悪役のように後ろへバッタリと倒れこんだ。鈴羽は日に日に身体能力を上げてくる。さすがワルキューレに参加して単身でタイムトラベルをしてくるだけのことはある。違う世界線、しかも数年後の話ではあるが、素質そのものは変わらないということか。岡部はじんじんと痛む胸部をさすりながら、しみじみと昔を思い出した。

「……オカリンおじさん、だいじょうぶ? あちゃー、やり過ぎたかな」

 いつまでたっても起き上がらない岡部を心配して、鈴羽はひょっこりと岡部の顔を覗き込んだ。髪を二つに分けて三つ編みにしたおさげは、今はまだ肩口でゆらゆらと揺れている。肩を越して胸まで届くようになったら、彼女ももしかしたら、かつて別の世界線で起きたことを思い出すのだろうか。

「いいや、大丈夫だ。お前は日増しに強くなるな、鈴羽」
「なんたって戦士だからね!」
「半人前だがな」
「すぐに一人前になるよ!」

 できるなら、あの辛い思い出だけはずっと封じたままでいてほしい、と思う。
タイムトラベルによって記憶を失い様々な困難に直面し、失意の果てに自殺した鈴羽。自分のエゴが引き起こした最悪の結末。この思いこそがまた同じようにエゴだとしても、あんなに辛い記憶だけはどうか思いださないでくれ、と、日に日に昔の鈴羽の面影に近付いていく彼女を見ながら、岡部は祈っている。

「今日はダルはどうした?」
「父さんは母さんとお出かけ。コスプレのなんかイベントがあるって」
「全くあいつらは……」
「あたしはコスプレとかあんまり興味ないし。せっかくの夫婦水入らずだから邪魔するのものどうかと思ってね」
「お前はよく出来た子供だな」
「褒めて褒めて」
「おーよしよし」

 ぺしぺしと軽く頭を撫で叩いてやると、鈴羽はくふくふと満足そうに笑った。子供らしく顔全体で笑う鈴羽を見ていると、岡部も自然と笑みを零してしまう。

「……あれ、そう言えばあいつは?」
「確か外で遊んでいるはずだぞ。近くの公園にメンバーで集まっているから、もし鈴羽が来たら伝えてほしいと」
「えっ嘘。ずるい!」
「家にまで誘いに行ったがいなかったと言っていたぞ」
「あちゃー、多分ランニングに行っててすれ違ったんだな」
「お前も行ってきたらどうだ?」
「うーん、でもオカリンおじさんとも遊びたいし……」

 鈴羽は幼い眉をきゅっと真ん中に寄せて思案する。それと同時に、ガチャリ、と扉が開いた。ちょうど出口に頭を向けていた岡部にガンと扉がぶつかる。

「ガッ」
「まだぬるぽって言ってないわよ。……あら、あんた何で床に寝転んでるの?」
「紅莉栖おばさん、うーっす」
「いらっしゃい鈴羽。……また窓から入ったの?」

 紅莉栖はドアノブを掴んだまま、風にはためくカーテンを見て苦笑した。鈴羽が木やベランダを伝って岡部家の窓から侵入してくるのは日常茶飯事で、毎日色々なルートを模索しているそうだ。

「訓練だよ訓練!」
「あまり危ないことはしないようにね」
「はーい。もう、オカリンおじさん、紅莉栖おばさんもお休みなら先に言ってよ」
「イタタタ……。……ん? 何故だ?」
「夫婦水入らずを邪魔するほど子供じゃないってこと。じゃあ、あたしはあいつんとこに遊びに行ってくるね!」

 鈴羽は立ちあがって、ドアのそばに立つ紅莉栖の横をするりとすり抜けた。出ていくときは玄関から、というのは彼女の良く分からないこだわりだ。ぱたぱたと駆けていく鈴羽の背に、紅莉栖は声をかける。

「お昼はどうする?」
「食べに来て良いの?」
「今日橋田達は出かけてるんでしょ? 良かったらいらっしゃい」
「じゃあお昼になったらあいつ連れて帰ってくるね!」
「お願いね。いってらっしゃい」
「いってきまーす!」

 おさげを揺らして走っていく鈴羽を見ながら、紅莉栖はくすくすと笑った。

「ほんと、あの橋田夫妻からどうやったらあんなアクティブな娘が生まれるんだか。七不思議のひとつね」
「それを言ったらあいつもそうだろう」
「確かに。私達の子供であれだけまともに育ったのは不思議よね」
「論破癖はあるけどな」
「時々厨二病発言するけどね」

 紅莉栖はその場にかがみこんで、床に寝そべった岡部の額をちょんと小突いた。起き上がるのが面倒でそのまま紅莉栖を見上げていると、彼女はほんの少し頬を膨らませていた。

「鈴羽はあんたに懐いてるわねー」
「戦士には悪役が必要だからな。……何だ、やきもちか?」
「なっ、ば、バカ違うわよ! そうよ、鈴羽が私よりもあんたに懐いてることに納得がいかないのよ」
「同じ言い訳をあいつが生まれたときもしていたぞ、クリスティーナ」
「だからティーナじゃないと言っておろうが!」

 ほとんど反射的にそう噛み付いてしまって、紅莉栖は恥ずかしそうに視線を逸らした。確かにあの子が生まれたばかりのときも、紅莉栖は岡部があまりにも子供を構うからほんのちょっとやきもちをやいていたのだ。彼の厨二発言だって、同年代からすると痛々しく見えても、子供からすればノリノリかつ本気で構ってくれる面白いお父さんである。頭でっかちで難しい話しかできない紅莉栖よりも、岡部はよっぽど親としての柔軟性があった。

 どっちにやきもちやいてるんだか分からない、と紅莉栖がいっそう頬を膨らませていると、岡部はほんの少し笑って、寝そべったままで腕を伸ばして紅莉栖の頬にふれた。やわらかい、父親の笑顔だった。

「紅莉栖」
「な、何よ」

 低く穏やかな声で名前を呼ばれて、紅莉栖は戸惑いに視線を揺らした。男の魅力は三十代から、というのは良く聞く話だが、紅莉栖は毎日それを実感しているのでとても困っているのだ。

「子供に妬かなくても、俺が愛しているのはお前だけだぞ」
「なっ、えっ、あ、う……」
「お前はどうだ? 紅莉栖」
「……ば、ばかじゃないの……」 

 ほら、こんな風に当たり前のように、岡部はあっさりと愛の言葉を囁いてしまう。紅莉栖は相変わらず素直に伝えられないでいるというのに、岡部ばかりが、年を取って余裕を持っていくのが紅莉栖は悔しかった。

 対して岡部は、自分の人生に少しだけ疑いを持っていた。かつて紅莉栖を救うためにやってきた鈴羽と、NDメールを送ってきた未来の自分。α線でもβ線でも、二〇二五年時点で自分は死んでしまっていた。どの世界線からの干渉を受けない新しい世界線にいる自分も、もしかしたらその年までに死んでしまうかもしれないのだ。鈴羽が予定通りの年に生まれてきたように、あらゆることがこれまで経験してきた世界線と違うように進んでいくとも限らない。

 だからそれまでは、彼女には両手いっぱいの愛情を向けてやりたい。できないこともたくさんあるけれど、彼女の望むような幸せな家庭を作ってやれるような男でありたいと岡部は思っている。

 しかし、こういったクサイ台詞を口にすると、奇妙な気恥ずかしさに襲われるのも事実だった。もぞもぞと心の奥をくすぐられる感覚に勝てず、岡部は紅莉栖の頬をむにっと引っ張った。紅莉栖は突然頬を引っ張られたことに驚いてきょとんとしている。

「フゥーハハハ! これぞ変顔だな、助手よ」
「……あーんーたーはー! この、バカ!」

 甘ったるい夫婦の空気は一気に散って、紅莉栖は仕返しとばかりに寝転んだ岡部の頬を思いきり横に引っ張った。いふぁいいふぁい、と岡部は言葉になっていない声で訴えかけるものの紅莉栖は耳を貸さず、しばらくタテヨコに岡部の頬を引っ張って鬱憤を晴らした。

「……倫太郎、あのさ」
「いたたた……。何だ?」

 紅莉栖の気が済んで解放されても、力いっぱい引っ張られた頬はひりひりと痛みが続く。岡部が頬をさすりながら紅莉栖に問いかけると、紅莉栖はぺたりと床に座り込んで、お腹をさすった。

「……二人目、」
「え?」
「二人目、できたかも……」

 唐突に告げられた言葉に、岡部は起き上がって紅莉栖を見た。今度は岡部が驚く番だった。紅莉栖の目に冗談の色合いは一切ない。昔より少し短くなった髪、母親として大人びた顔、肩に、胸に視線を落としていって。紅莉栖がそっと包むようにふれる腹を、岡部はじっと見つめた。

「ほん、とうか?」

 紅莉栖は黙って頷いた。あのね三十で産むのもどうかって思ったんだけど今は珍しくないらしいしあの子もきょうだいが欲しいて言ってたし。慌てて言い訳のように言葉を連ねる紅莉栖を、岡部は黙ってぎゅうっと抱きしめた。腕の中で紅莉栖が体を固くする。彼女はおずおずと背に腕を回すと、産んでいい、と小さな声で尋ねた。岡部は頷いた。

 ああ、長生きしたいな、と思った。
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