::素足



「痛ッ」

 カップを持ってローテーブルの隣を通った紅莉栖が、眉を寄せて太ももの辺りを抑えた。岡部は「誤字脱字チェックして」と押しつけられた彼女の論文から顔を上げて「一体どうした」と問いかける。

「これ、テーブルの隅っこ欠けてる。もう、脚引っ掛けちゃったじゃない」
「それも拾い物だからな。後で補強しておこう」
「ああああ!」
「だから何だ!」
「ストッキング伝線した!」
「……電気でも通しているのか?」
「バカか!」

 これだから男は、という目で睨まれる。

「これよこれ。ストッキングは一本糸が切れただけでこうなるの」

 紅莉栖の指さす膝の辺りを見ると、黒いストッキングに一筋、線が走っている。なるほどこれが「伝線」という現象か、と岡部は興味深く眺めた。ストッキングなるものには(少なくとも三次元では)とんと縁が無かったため、実際に見るとなかなか面白い対象だった。しかしあまりにまじまじ見ていたためか、紅莉栖はむうっと頬を赤らめ、ぺちんと岡部の額を叩いた。

「じろじろ見るな!」
「お前が指さしたんだろうが」
「どうしよう。このままじゃ外歩けない……。あ」

 紅莉栖はちょうどいいとばかりに岡部を見ると、財布から千円札を取り出して岡部の前に差し出した。岡部は思わず受け取って、それから首をかしげる。

「……どういうことだ? お布施か?」
「そんなわけないでしょ。あんたが代わりにストッキングを買ってきなさい。コンビニにあるから」
「何故!」
「このラボはあんたのラボ。ここで起きた傷害はあんたの責任。それに私はこんなみっともない格好で外に出たくない」
「別にその程度、誰も気付かんだろう」
「万年ジーンズの男には理解できないでしょうね。ついでにハコダテ一番とドクペも買ってきて」
「俺はパシリか」
「だってストッキング一つだとお金余るし、余ったらあんた使い込みそうだし」
「……お前のドクペを半分貰うぞ」
「オーケー。それがパシリ代ね」

 腕を掴んで「立ちなさい」と言われ、岡部は渋々立ちあがる。こうなった紅莉栖に逆らうと後々面倒なことになる、と岡部は知っていたからだった。

「こら、背中を押すな」
「ならだらだら歩くなー」

 紅莉栖はどこか楽しそうに岡部の背中にくっついて、ほらほらと玄関まで追いやろうとする。

「黒いやつね。肌色のやつはダメ。コンビニに置いてあるのは大体Mだから、サイズは見なくて大丈夫」
「分かった分かった」

 ご丁寧にラボの玄関まで背中を押されて、玄関まで見送られる。紅莉栖は扉を開けて岡部を追い出すと、笑って「ハイ行ってらっしゃい」と扉を閉じる。

 ほんのちょっと新婚っぽいと思ったなんて、いやまさかそんなことはない。うん。


   ***


 黒いストッキングとハコダテ一番とドクペ、残ったお金で苦し紛れに買ったチロルチョコ数個をコンビニ袋に詰めて、夏の秋葉原を歩く。

「全く人使いの粗い奴め」

 恨みがましく呟いてみても、チロルチョコの選別の際に彼女が好きそうなものは何かと考え込んでしまったのだから、その言葉には少しも信憑性がない。

「おい助手、買ってきたぞ」
「サンキュー」

 ラボに戻ると、紅莉栖はソファに座って数枚つづりのレポート用紙とにらめっこをしていた。

「岡部。これ、全体的には悪くないけど、ちょこちょこ気になるところがある」
「どこだ?」
「赤つけといたから、疑問があったら伝えて」
「分かった」

 天才少女のレポート添削は的確で厳しい。しかし彼女の検閲を乗り越えたレポートは評価が一段階違うことが分かっているため、ないがしろにはできなかった。岡部はビニール袋を渡す代わりに、レポートを受け取る。そして視線を止めた。

「……おい、助手よ」
「何?」
「何だその格好は」
「? 何かおかしい?」

 ラボにいるときいつも羽織っている白衣に改造制服、ネクタイ、ホットパンツ。何もおかしいところはない。岡部の目を引くのは、その白衣の合わせ目から覗く、日に焼けていない白い脚だ。岡部の視線の意味に気付いたのか、紅莉栖は肩をすくめた。

「ああ、だって破けたストッキング、いつまでも履いていたくないし」

 別に普通の格好でしょう、と彼女は涼しい顔をしている。確かに日本の夏のハイティーンには、ホットパンツと素足という組み合わせなんてありきたりだ。しかし紅莉栖は常にストッキングを併せて履いていたいたし、何より上はいつも通りに着ているせいため、その脚がいつも以上に油断だらけに見えてしまう。

「ストッキングは既にハサミで切って処分済みよ。あんたや橋田が変なことに使わないようにね」

 ぬかりないわと自慢げに笑う紅莉栖は脚を組みかえてからコンビニの袋を漁る。普段見えない膝小僧が目の前に晒されていて、思わずじっと見つめてしまう。

「よしよし。あれ、チロルチョコ入ってる。これ食べていいの?」
「……ああ」
「やった、これ好きなのよね」

 ストッキングをテーブルに置いて、紅莉栖は立ちあがる。チロルチョコを冷蔵庫に入れると「冷やして食べる方がおいしいの!」と言い訳のように言う。その間も、岡部は白衣の隙間からちらちらと見える彼女の脚に目が奪われる。

 黙って携帯電話をスライドさせて、耳に押し当てた。

「俺だ。今まさに甚大な精神攻撃を受けている。何、回避は不可能……だと……? これが運命石の扉の選択か!」
「はいはい厨二乙」

 紅莉栖は再度ソファに腰掛けると、コンビニ袋からペットボトルを取り出して口をつけた。すぐに岡部の視線に気づいて首をかしげる。

「何よ?」
「……早くストッキングを履け」
「うーん、後で。やっぱり素足は涼しいわね。しばらくこのままでいるわ」

 岡部の葛藤に、紅莉栖は気付きもしない。

「良いから履け」
「何でよ」
「それが運命石の扉の選択だからだ」
「何で私のストッキングにシュタインズ・ゲートが関係あるのよ」

 分厚い洋書を持って、紅莉栖はゴロンとソファに寝そべる。仰向けになって膝をゆるく立てると、膝小僧をくっつけて本を開く。するり、と膝にかかっていた白衣の裾が床に落ちた。

「言うことを聞け」
「嫌」

 既に本の世界に入り込んでいる紅莉栖は生返事しか返さず、岡部は眉を寄せた。紅莉栖から手渡されたレポートを机に放り投げて、つかつかとソファに寝そべる紅莉栖に近付く。紅莉栖は自分の周りが翳ったことに気付いて顔を上げた。

「何……って、ちょ、ほんとに何?」
「お前が言うことを聞かないからだろう」
「はあ? え、何」

 ソファに寝転ぶ紅莉栖の上にのしかかると、彼女はすぐに顔を赤くした。

「ちょっと岡部! どきなさいよ!」
「何故だ」
「それはこっちの台詞よ! ちょっと、や、だめ」

 手に持った本ごと岡部を押し返そうとする紅莉栖。その本を取り上げて床に落とせば、ゴトンという鈍い音に紅莉栖は肩をびくりと震わせた。落ちた本を追おうとする視線は、不穏な手の動きを察してすぐに岡部に戻される。

「や、」

 するりとかかとをなでられて、くすぐったさに声が漏れる。脚を持ちあげられて、紅莉栖は恥ずかしさから膝小僧をすり合わせて脚を閉じようとする。

「紅莉栖」
「ッ、何でこんなときばっかり名前で呼ぶのよ!」
「こんなときとは?」
「ばか!! このHENTAI!!」

 かたく閉じた膝を開くように、岡部はそこにかみついた。皮膚の奥に骨があることが分かる。歯の動きに合わせて紅莉栖の脚が震えた。

「ちょ、痛い、おかべ」
「お前がいつまでも生足を晒しているからだろう」
「私のせい!?」
「お前のせいだ」
「理不尽すぐる!!」
「@ちゃんねる語を隠せていないぞ、助手よ」

 ちゅ、と音を立てて脚に口づけると、紅莉栖はいっそう顔を赤くした。ぎゅうっと脚に力を入れて、それ以上の侵入を阻もうとする。それでも真っ白な脚は隙だらけで、岡部は太ももに手を添えた。

「岡部、もう、ほんとにやめて……」
「ならば蹴り飛ばせばいいだろう」
「ち、力が入らないのよ!」
「……そうか、お前は脚が弱いのだな。頭に入れておこう」
「あんたは救いようのない大馬鹿よ!!」

 ばかばかばか、おかべのばか。繰り返される弱い罵倒を無視して何度か太ももをなでていると、その声が涙混じりのものに変わってくる。いつものように意思のはっきりとしたものではない、ふにゃふにゃとした懇願の声だ。

「ね、もうやめ、ッやだぁ」
「さっきからそれしか言っていないぞ」
「だってここ、ラボだし、いつ人が来るか」
「安心しろ。これ以上はしない」
「え……?」

 つ、と線をなぞるように脚に舌を沿わせると、紅莉栖は涙目のままでびく、と体を固くする。

「俺はただお前の脚を触っているだけだ」
「それだけじゃない!」
「訂正しよう。触って舐めているだけだ」
「言い直すな馬鹿! 恥ずかしいわ! ……あっ」

 添わせた指を太ももの内側に滑り込ませると、紅莉栖はのどの奥から甘い声を零す。人差し指、中指、と順に爪を食いこませると、恥ずかしさからいっそう強く脚を閉じようとする。

「んん、あ、だめ、や、やめて。ねえ、お、岡部ってばぁ……」

 左足の膝裏に手を入れて持ち上げると、紅莉栖は今度こそ泣き出しそうな声で懇願した。太ももの裏側にガブリと噛み付く。犬にでもなった気分だった。何度か繰り返すうちに、紅莉栖の脚は噛み痕と、岡部の指と爪のあとで赤くなっていく。

「紅莉栖……」

 力の入らない体で逃げようと上半身を動かすから、着ていた白衣にも皺が寄って段々と肩からずれ落ちて行く。それが腕の動きを妨げて、もう紅莉栖は岡部を押し返せず、ただ肩にすがるように指を添えているだけになる。

「は、んん、岡部、おかべ……」

 これ以上はしない。そう言ったはずなのに、紅莉栖の赤い頬と涙を浮かべる目を見ていると、ぐらぐらとその決心が揺さぶられた。子供をあやすように頬を撫でてやると、無意識なのか、紅莉栖は猫のように頬を手にすりつけてくる。

「岡部……」

 やめて、も、いや、も言わなくなって、紅莉栖はねだるように岡部を呼ぶだけになる。岡部はごくりと唾を飲み込むと、熱に浮かされたように紅莉栖の脚の付け根を指でなぞる。ホットパンツと脚の、その隙間に、く、と指を滑り込ませて――。

 ガガガガガガガガッ

 突然の騒音に、紅莉栖と岡部は二人してびくっと肩を揺らした。机の上を見ると、紅莉栖の携帯電話が机の上で振動している。

「……で、電話っ! 出るから!」
「……あ、ああ」

 甘ったるい空気は、電話のバイブレーション一つで一気に霧散する。岡部がソファから立ち上がれば、紅莉栖は慌てて白衣を着直すと携帯電話を手に取った。

「は、ハロー! ……あら、まゆり? え、いやいや何でもない何でもない! で、何? 明後日? 明後日なら大丈夫だけど……。……分かった。明後日ね」
「……まゆりか」
「うん、明後日暇なら、ラボメンガールズでお泊まり会しないかって」

 電話を切って、紅莉栖はふう、と安堵の息を吐く。いいところを邪魔されてむしゃくしゃして、岡部はプイとそっぽを向いた。あと気まずい。すっごく気まずい。まさにノリノリの空気だったために、この中途半端に高まった気分が行き場を失って、じりじりと羞恥心が湧き上がってくる。

「……岡部」

 くい、と白衣の裾を引かれて、岡部は横目で紅莉栖を見る。体を固くして、脚をぴったり閉じて、紅莉栖は顔を背けている。脚にうっすらと浮かんだ赤い痕が見えて、何やってたんだ自分、と恥ずかしくなる。

「何だ」
「……機嫌悪い?」
「別に、悪くないぞ」
「……あの、ね」

 もじもじとうつむいたまま、紅莉栖はごく小さな声で告げる。

「遊びに行くのは、明後日だから……、その、今日は、私のホテルに」

 来ない? と問いかけられて、

「……まずストッキングを履け。そうでないと」

 俺がホテルまで待てないぞ。そう言うと紅莉栖は顔を赤くしたままこくこくと頷いた。



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