菅野さんはヒーローみたいな人だ。空閑は漠然とそう感じ取っている。

「すみません、空閑くん。少しよろしいでしょうか」
「あ、す、菅野さん」
「あれ、空閑くんに用事?」
「はい、お話し中、申し訳ありません」
「ううん、気にしないで! じゃあ空閑くん、よろしくね」
「は、はい」

 空閑は女性恐怖症だった。ずっと昔に根付いた苦手意識、恐怖心というものはそう簡単に拭うことはできず、高校生になってもう三か月はたったというのに、女の子とはいまだにうまく話すこともできない。呼吸が苦しくなったり頭の中がぐるぐると渦巻いて、何を話せばいいのか分からなくなるのだ。

「……はあ」
「大丈夫でしたか?」
「え、あ、うん……」

 そんな中、風羽だけは少し違った。空閑が女の子に話しかけられて過呼吸を起こしそうになる少し前に、彼女はこうしてさりげなく助けてくれる。見かけたときは必ずだ。それでいて空閑のパーソナルスペースを侵さない距離を保って話してくれる。風羽は空閑が唯一まともに話せる女の子だった。

「あの、菅野さん、ありがとう」
「いえ、お節介でしたら申し訳ありません」
「ううん……、その、嬉し、かった」

 まるでヒーローみたいだ。困っているときに力を貸してくれるヒーロー。幼い頃の日曜日、眠い目をこすって、家族を起こさないように抜き足差し足、居間にある大きなテレビの前に座ってテレビのスイッチを押した。子供の指にはテレビのスイッチが押しにくくて、けれどそれがいっそうわくわくと胸を躍らせたものだ。電気は消したまま、テレビの音量は小さくして、休日であることを理由にまだ眠っている姉達や両親を起こさないよう、息をひそめてテレビにかじりついていた。

 人間には救う側と救われる側があるのだと、ぼんやり意識し出したのはそれが理由なのかもしれない。前者はごくごく一部で、大概の人間は後者だが、その中には時折ヒロインと呼ばれる存在がいる。それは数少ない救う側の人間に選ばれた特別な立場の人間のことだ。

 つまり、人間には元々特別な人間と、特別な人間に選ばれたから特別になる人間と、その他の不特定多数で、三分割にされるのだ。空閑は自分が不特定多数の一人であることを漠然と感じ取っていた。ただ言葉にする勇気は無かったから、その考えを誰かに話したことはない。

 風羽はヒーローだから、特別なのだ。彼女は一体誰を選んで、誰を特別ないきものにするのだろう。

「……あれ?」

 昼休み、昼食を終えてぼんやりと教室の外を眺めていると、風羽が花壇の傍に座りこんでいた。立ちあがって窓を開けると、さわさわと夏らしい温い風が教室に入り込む。空閑は教室のクーラーが苦手で今も長袖を着用しているが、そろそろ半袖に変えて、教室内でだけカーディガンを羽織るようにした方が良いかもしれない。外の空気は日に日に暑さを増していく。

 そして空閑は首を傾げた。思わず窓を開けてしまったけれど、何をしようと思ったのだろう。風羽に声をかけようとでも思ったのだろうか。自分の行動の意図が自分で分からないという奇妙な違和感に、空閑は首を傾げる角度を深くした。それと同時に温い風がじわじわと空閑の周りにまとわりついてくる。

 風羽が動いたのはその時だった。空閑はその様を、首を傾げたまま見ていた。傾いた視界の中、風羽が右腕を伸ばして、花壇の上の花に手を伸ばす。もうしおれそうな古い花だ。用務員が植え替えを怠ったせいで、春の花が中途半端に残っている。

「……あっ」

 ぶつり、という音が聞こえた気がした。風羽の手がしおれた古い花を、花壇からむしるように引きちぎった。空閑はその光景を見たまま動きを止める。彼女はその花を一輪持って、そのまま姿を消した。彼女の歩いて行った方には、今はもう使われていない焼却炉がある。

 空閑は傾けていた首を元に戻して、のろのろと窓枠に手をかけて身を乗り出した。風羽が乱暴に摘んだその花の場所をじっと見つめる。ここからではただ黒い土が見えるだけで、しおれた花が一輪減ったことなど誰も分からないだろう。その様子を見てしまった空閑ひとりを除いて。

「空閑くん、どうしたの?」

 そんなに身を乗り出したら危ないよ。振り向くと広瀬がいた。空閑は今見たものを説明しようと口を開いたが、

「……」
「? 空閑くん? 顔色が悪いみたいだけど、大丈夫?」
「……大丈夫。何でも、ないよ」

 結局何も言えなかった。広瀬はその言葉を聞いてから、少し間を置いて、そう、とだけ答えた。

 空閑は見てはいけないものを見てしまったような、しかしながら奇妙に目に焼きつくあの光景を、結局誰にも話すことができなかった。けれど心の中で、考えを少しだけ改めた。世界はヒーローと、ヒロインと、その他大勢の三分割では構成されないのだ。

(彼女は、誰なんだろう)

 空閑の場所から彼女の表情は窺えなかった。ただしおれた弱々しい花が、暴力によって損なわれたのを見ただけだ。空閑は、窓なんて開けなければ良かった、と思った。

 けれどあの引きちぎられた花には、何か、ヒーローの本質のようなものが隠されているのではないかとも、思った。けれどそれを確かめる勇気を持てない空閑は、永遠にその他大勢であるしかないのだ。