「お久し振りです、カークランドさん」

 掠れて聞こえにくい、例えるなら白色の木綿糸みたいな声を前にすると、きゅっと気管支が絞まって呼吸が難しくなった気がした。ぼんやりとした視線を前方へ向けたまま、背筋をぴんと伸ばした彼は清潔で、潔癖だった。黄色いと馬鹿にされていた筈の肌は青白くて、不健康だ。全身に巻かれた包帯が溶け込んでしまいそうなくらいに、肌から色素が失われていた。

 見舞いに行けばいいと言ったのは自分の弟分(きっと彼は否定するだろうが、繋がりが絶たれた今でもどこかで引き止めたがっている自分に心底、呆れた。)で、それはひび割れた彼の眼鏡をじいと見詰めながら、だった。新しくしないのかと問えば、彼はもう少ししたらね、と大人びた口調で答えた。彼はきっと、近いうちにあの眼鏡を新調するだろう。そうしてから、何もかも分かったような、そして全て理解しているんだというような顔で、「世界平和」という題材を会議で取り上げるのだろう。ひびの入った眼鏡は、一体どこへやってしまうつもりなのだろうか。

「体調は、どうだ」
「大分ましになりましたよ」
「そう、か」

 話題が途切れた。彼とこんなふうに二人で話すのは、随分とご無沙汰だった。かつて互いの家を行き来したことだってあるのに、今は一言二言交わすことさえ気詰まりで、困難だ。彼にかける言葉を探し見つけて、ほんの少し口を開いたけれど、その言葉は今の状況ではどうにも厭味ったらしい気がして、結局何も言わなかった。俺が黙っていれば、本田は、静かなままだった。

 見舞いに来たというのに手ぶらな俺を、本田は責めなかった。何を持っていけばいいのか、全く浮かばなかったのだ。花も果物も、何かしっくりしなかった。病室は苦手だ。その白い世界は、無口なくせに、空気だけはいやに雄弁だから。木綿糸のような声を響かせて、じんと脳の奥を痺れさせてしまうから。

「左目がね、」

 白い、いや、白よりも象牙の色に近い木綿が、するりと俺の体に巻き付くのを感じた。ゆるく、ふわりと宙に浮いた木綿糸は、俺の周りに巻き付いて、糸の端はまた本田の元へ戻る。左目が、どうしたと言うのだろう。俺が立つ場所からでは、本田の右の横顔しか見えなかった。左目は見えない。本田の正面に回る度胸がない俺は、ただじっと次の言葉を待つしかなかった。

「左目が、見えなくなってしまいました」

 ゆっくりとこちらを見た本田の左目は、ガーゼで押さえ付けられて、眼帯で覆われていた。

「一時的なものだそうですので、いずれ治るでしょうが、片目が見えないのは、不便ですね」

 そして言葉が途切れた。俺はその空気に耐え切れず、発作的に、そうだな、と返して、少し後悔した。俺には目を潰した経験はないから、片目で生活をしたことがない。だから彼の言葉に、同意を示すことはできない筈なのだ。いい加減に答えたことを恥じて、顔を俯けた。てかてかしたスリッパが、妙に滑稽だった。

「片目が見えないと、距離感が掴めないんです。食事をするときなんか、大変で」

 俯いてしまった俺に気付いたのか、本田は、何でもないことなのだと強調するように、ごく軽い口調で、そう言った。違う、違うだろう本田。お前は何で、俺なんかに気を使ってるんだ。そうじゃないだろう。違うだろう。冗談めかして、誤魔化したりしないでくれよ。言ってしまえよ。一人で、病室にいるのは嫌だって。お前は負けたんだ。頼むから、泣いてくれよ。自分の境遇の辛さを理由に泣きわめいて良いんだから、頼むから。

 だが俺は、自身の勘違いと浅はかさに気付くことになる。顔を上げて、ヒュウ、と息を吸い込んだ。青白い顔がこちらを見ていた。だがその目に、俺を気遣う色はなかった。塞がれた左目は見えないけれど、右目は明るい陽射しと電球に照らされていて、はっきりと見える。青白さとは対照的な黒い目は、じいっとこちらを見ているだけだった。

 誰が、目を見れば考えていることが分かるだなんて、妄言を吐いたのだろう。今ここに来て俺に謝罪してくれ。カチカチと音を立てて歯が鳴る。

(分からない)

 本田は、もう本田ではなかった。俺の知る本田は失われてしまったのだ。右目が見えなくなって、距離が分からない白いトリックルームに閉じ込められた彼は、世界を俺とは違うように見ていた。本田と世界を視覚的に繋げるのには、両目が必要だった。右目だけでは、彼を支えることはできなかったのだ。

(何を、考えているんだ?)

 何も分からなかった。本田が何を考えているのか、全く分からなかった。それは、不可解ではなく、理解不能、もしくは無と呼ぶべきものであった。出来ないのだと頭ごなしに押付けられて、それは圧倒的な質量でもって俺の頭を殴り付けた。彼の言葉には何の意味合いもなかったのだ。ただ彼は、木綿糸のような音を発しただけだったのだ。本田は俺をじいっと見詰めていたけど、相変わらずそこには喜怒哀楽の欠片すら浮かんでいない。本田はそれきり、言葉を発しなかった。俺にぐるりと巻き付いていたはずの木綿糸は、いつの間にか無くなっていた。

 俺は祈るしかなかった。もしくは期待するしかなかった。彼が左目の視力を取り戻したら、彼は元の彼に戻ると。覆われた目が再び白日の元にさらされたならば、きっと彼の右目にも感情が取り戻されるはずであると。

 俺は、アーサーという名の俺は、今もなお俺を見詰める彼の右目に食われる心地を味わいながら、ただ立ちすくんだまま、祈ることしかできなかった。