本当のことだけが言えれば良かった。本当のことを言える自分でいたかった。けれどそれは到底無理なことで、素直な自分だなんて想像もできそうにない。あの妹と一緒に過ごしていたら少しは変われただろうか。少しは素直な自分でいられただろうか。あのいとしい平穏の日々が失われていなかったなら。雪村が治める村落が焼き討ちにあったとき、気を失った妹の手を離さなかったなら。

 仮定は虚しく胸を過ぎて、それが永遠に叶わないことを薫は知る。じくじくと滲む血液と抗いようのない体の鈍重さが彼を絶望させた。沖田が刻みつけた傷は深く、鬼の血によっても、もう癒やすことができそうになかった。ゆっくりと落ちる瞼の向こうの景色が歪み、薫は自分が涙を浮かべていることに気付く。けれど体は指先すら動かせなかった。唇を開くと血液が零れた。そのごぼ、という鈍い音に、薫の声無き声が飲み込まれる。

 もう何も、言えそうになかった。


     ***


 みんなでかくれんぼをするのと妹の千鶴が言うので、薫は顔を上げた。机上に広げた古い書物はもう何度も読み返しているからしっくりと手に馴染んで、だからこそ離しがたかった。妹は無邪気に薫のそばに座って、軽く着物の袖を引く。何かをねだるときの千鶴の癖だった。

「薫、ね、いきましょ!」
「兄様って呼べってば」
「にいさま、いこう?」

 素直にそう言って腕を引く。薫が渋っていると千鶴は薫の手をとり、きゅっと握った。

「すごく天気がいいの。おひさまもとってもあったかいのよ」
「それは知ってるよ。縁側のひざしをさっき見たから」
「にいさまもおひさまにあたらなきゃ。お勉強ばかりは良くないって母様もいってたよ」

 別に勉強をしているという意識は薫にはなく、ただ蔵にある古い書物を読み漁っているだけだったのだが、妹には薫が熱心に何かを学んでいるように見えるらしい。薫は生来の人見知りで、あまり表へ出たがらない子供だった。対照的に千鶴は笑顔もその声も愛らしく、自然と周囲に人を集めた。雪村の次期頭首候補であるにも関わらず、そう思わせない無邪気さが千鶴にはあった。

 千鶴の言う「みんな」は、この村落に住む同年代の子供達のことなのだろう。いつも部屋に閉じこもっている薫は、彼らとはあまり馬が合わない。読書好きな薫は歳に似合わず聡明で、そのことが彼をいっそう孤立させた。

 薫はいつも、世界に居心地の悪さを感じていた。生まれてくる場所を間違えたのではないかという、ある種の不安すら抱いた。足元に安定感がない。いつも何か違和感を感じる。それは概して、「みんな」と一緒にいるときだった。千鶴ならその輪の中に入れるが、薫はそれができない。だから薫は腰を上げられなかった。

「おれはいいよ。千鶴が一人でいけばいい」
「にいさまもいこうよ」
「だって、」

 行きたくても、おれがみんなの中に入れるはずがないもの。そう言いかけて、薫は口を噤む。

「にいさま……」
「……かくれんぼなんて、そんな」

 千鶴が羨ましかった。薫のように悩むことなくみんなに溶け込める千鶴が、妬ましかった。二人は双子なのに、こんなにも違う。同じ顔をしていても、こんなにも隔てられている。

 それがただ悔しくて(……悔しくて?)、薫は自分の言葉を隠す。

「そんなガキっぽいこと、したくないから。頭の悪い奴らにはおあつらえむきだけどね。さっさと行けばいいよ。おれは行かない」

 ふいとそっぽを向き、それっきり薫は千鶴を見なかった。ぴりぴりと空気が震えている。それは己が発しているものだと知りながらも、薫は抑えることができなかった。早く何処かへ去ればいい。兄様なんか知らないと声を荒げて、「みんな」の元へ行ってしまえ。

 千鶴は暫く黙っていたけれど、「分かったよ、ごめんね」と言い残して出て行った。薫は妹が駈けていくその幼い足音を聞きながら、そっと息を吐いた。

 しんと静まった室内に、薫が本を繰る音だけが響く。薫は字を追いながら、その文字が文字として自分の脳に入って来ないことに気付いた。雨の後の晴れの日、砂に刻まれたうねりを無理に文字として読み取ろうとしている気分だった。整合性も統率も法則もなくて、ぐるぐると頭の中で何かが渦を巻き薫を惑わせた。思わず口元を両手できつく抑える。吐き気を催したのか、それとも過呼吸を起こしそうになったのか、薫には良く分からなかった。

 背筋を真っ直ぐにしていられなくて、机に額を擦り付けるようにしてうずくまる。ちりちりと胸が焼ける感覚に、薫は歯を食いしばって耐えた。冷たい汗が額にじんわりと浮かび、けれどすぐにそれらは薫の髪に吸い込まれた。薫はそれを握りしめ頭皮が引きつる痛みの力を借り、次々と浮かび上がる想像を遠くへ追いやろうとした。

(いやだ)
(かんがえたくない)

 薫には想像できる。妹が「みんな」に囲まれて笑い声を上げる姿が。薫のことなど露程も思い出さずに友達と手を繋ぐ様が。薫は叫びたかった。その手に触れるなと声を荒げて、千鶴を連れ戻してしまいたかった。だが、薫は自身の体を動かせそうになかった。もし動かせたとしても、そういった行動が起こせるかと言われれば、答えは否だった。

 生まれたときは、きっと薫と千鶴は誰よりも近しい存在だった。けれど世界が広がればいつまでも二人のままではいられなくて、「みんな」が薫と千鶴を隔ててしまった。いつの間にか出来た溝は小さいながらも、幼い二人を躓かせるには十分に広かった。

(いやだよ)
(いかないで)

 本当の願いは、いつも口にすることができなかった。薫の唇はいつも嘘と強がりばかりで塞がれて、真実はその外に出ることなく胸の内へ戻り、薫の葛藤を引き起すのだ。薫は、本当のことだけが言える唇が欲しかった。こんな、虚勢を張るための言葉ばかりを言う口なんて、もぎ取って捨ててしまいたかった。

「……い……か、な、いで……」

 抑えた口元から声が漏れる。しんと静まった部屋の中で、掠れるような薫の声が僅かに響いた。それは、薫の口からはけして言われる筈のない言葉だった。薫にとって無い筈の唇から、薫の真実の言葉が零れていく。

「そばに、いて」

「……にいさま」

 びくり、と薫は肩を跳ねさせた。口元から手を離し顔を上げると、その声の主がいた。肩を上下させている。走って戻ってきたのだろうか。頬が赤い。薫が呆然と目を丸くして見つめている間に、千鶴はほてほてと近付いてきた。足取りはのろく、千鶴が薫の目の前に腰を下ろすと、薫には千鶴の荒い息が聞こえた。やはり、走って戻ってきたらしい。

「なに、してるの。千鶴」
「え、と」

 ぺたりと品無く座り込んだ千鶴を見ながら、薫は自分の波立った心が自然と凪いでいくのを感じた。自身の髪から指を離すと、引きつり緊張していた頭皮が弛緩し薫を落ち着かせた。まだ呼吸を整えきれない千鶴が、のろのろと薫へ手を伸ばした。その手が薫の手の甲に添えられる。

「千鶴、」
「い、一緒がいいの」
「……は?」
「にいさまと、一緒がいいの」

 ぎゅうと薫の手を握り締め、千鶴はそう言った。薫は伝わってくる千鶴の掌の体温に戸惑う。

「みんな、と、一緒に遊ぶんじゃなかったの?」

 まるで試すように、薫はみんな、と強調して言ってみせた。千鶴はきっとそれに気付かなかっただろう、首を横に振って、薫の目を真っ直ぐに見つめた。

「みんなより、にいさまと一緒にいたい」

 呼吸が、止まるかと思った。

 千鶴の目は限りなく澄んでいて、とても冗談を言っているふうには見えなかった(そもそも言うような娘でもなかった)。薫は再び黙り込み、じいと千鶴の目を見る。千鶴も黙ってそのままでいた。目を逸らすことができなかったのかもしれなかった。

「そう、なの」
「うん、そう」

 問いかけの言葉は何処か間抜けだったのに、千鶴は真剣な顔で頷いた。薫にはそれが妙に可笑しく見えて、思わずふ、と笑みをこぼした。千鶴はそれを見てほっとしたのか、緊張していた顔を緩めて微笑んだ。

「お勉強のじゃまはしないから」
「うん」
「だから、ここにいてもいい?」
「……仕方ないね」

 千鶴はうふふと幸福そうに笑い、薫の手に添えていた自身の手を引いた。薫はそれが少し不満だったけれど、本を読むのに手を繋ぐのは不自然だから、手を繋ごうと言うことは憚られた。

 暫くすると千鶴はうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。そうなっても仕方のないくらいぽかぽかと温かい日和だったから、薫は書物を閉じ、縁側へ向かった。千鶴も覚束ない足取りでそれに続く。

「千鶴、こっち」
「うん……」

 薫は縁側に腰掛け、そのままごろんと横になる。千鶴もそれに続いて寝転んだ。体を倒したまま薫に手を伸ばす。薫も、仕方なく手を差し出してやった。中指がふれ、次に人差し指がぶつかる。相手の指がするりと肌を這う感覚がひどく心地良い。幼い指を絡ませると、千鶴はくすくすと笑った。薫もつられて微笑んだ。

「千鶴」
「ん、なあに?」

 もう目を開けていられないようだった。ぱちぱちと何度か瞬きをするものの、もう千鶴の目蓋は半分も上がっていなかった。

 だから、薫は言おうと思った。その言葉が夢か現か、妹が知ることのないように。薫の唇から発することができない言葉を、薫の、存在しない筈の唇からしか言えない言葉を、言うことにした。

「おれも、千鶴と一緒にいたいよ」

 千鶴の微かな寝息を聞きながら、薫もまた目を閉じひだまりに身を委ねた。


     ***


 今まさに駆け巡る過去を走馬灯と呼ぶならば、そこに映るのは優しい思い出だけにしてほしい。薫は広がる血液の池に身を浸しながら、幼い千鶴と、自分のことを思い出した。あの時誰よりも兄を必要とした妹は、もういない。一人の男を選び薫と訣別した千鶴は、もう薫に手を伸ばすことはないのだ。

 閉じかける薫の目に映るのは、父と慕う綱道の骸を抱く千鶴と、それを支える沖田の姿だった。だが、今はもうそれ以上の感慨を抱けそうにない。妹に抱いた執着も憎しみも、沖田に対する恨みも妬みも、薫はもはや感じることができなかった。全身が川に身を沈めたように冷えていくのだ。心もそれに伴って沈み、もう浮かび上がれない。薫の全てはもう落ちていくだけなのだ。

 ずっと向こうから、誰かが薫を呼んでいる。もういかなければいけないようだ。薫も、もう眠かった。体はひんやりとしているのに、どうしようもなく眠かった。

(……あ……?)

 動かない筈の腕が、持ち上げられた。固い指が強引に解かれて、何かにふれる。それは温かかった。だが薫には、それが何なのか分からなかった。

 それが、ゆっくりと、薫の顔を覗き込むように屈んだ。

 目の端に涙が浮かんでいた。薫と同じ顔をひどいぐらいに歪ませて、彼女は薫の血に汚れた掌を頬に押し当てている。何がしかを叫んでいたけれど、もう薫の耳には聞こえなかった。

(ち、づる)

 はく、はく、と口を開閉させるけれど、薫の口はもう何の音も紡げない。だから、薫は耳を済ました。千鶴の声が聞こえるように。

 涙を滲ませる千鶴の呼び声は、確かに、薫の耳に届いた。



「にいさまあッ!」



(ああ、思い出して、くれたのか)

 彼女にとっては失った遠い記憶を、薫にとっては懐かしくいとしい記憶を。

 共に歩いた夕暮れ時の道。鼻孔をくすぐる春の花の香り。うたたねをしたひだまりの温かさ。小さく慎ましやかな村の祭囃しの音。繋いだ手の温もり。互いを必要としたあの日の記憶を、今、二人は共有している。

 薫は、少しだけ掌に力をこめた。指先が彼女の頬にふれる。彼女は目を見開いた。またやかましく薫を呼んだ。

 もう何も言えそうになかった。薫には、嘘で塗り固めたくちびるも、本当のことを言えるくちびるも、既に残っていなかったから。薫には、今にも消えそうな命の灯火しか、残っていなかったから。

 だから、微笑んだ。ただ千鶴を思う気持ちだけで微笑んでみせた。薫は幸せだった。例え夢のような仮定の全てが薫を裏切ってしまっていても、今この瞬間が、泣きたいくらいに幸せだった。

 幼い頃、縁側でうたたねをしたときのように、今、薫の心は穏やかだ。

(ああ、ねむたいな)
(あの日のひだまりの中にいるみたいだ)

 はらはらと落ちてくる千鶴の涙を掌に受けながら、薫はゆっくりと、眠りについた。