時々、彼女が人間なのだろうかと疑うことがあった。

 馬鹿げた妄想だと笑ってくれればいい。だがそれは那岐にとっては至極重要な問題で、一度その思考に捕われるとそれ以外のことが考えられなくなった。彼女が笑う姿を、彼女が憤る姿を、彼女が泣く姿を、当たり前のように知っているし時には泣き出す彼女を泣きやませるためにその華奢な肩を抱いて隣で眠ったこともある。そのときすやすやと寝息を立てる彼女の頬にふれて那岐は考えた。彼女はまことに人の子であるのかと。

 彼女の異形の髪と瞳を切り取って論じたい訳ではない。異形と言えば自分も似た容姿をしていたし、何よりそんな些末なことは自分にとっての彼女にはさほど影響しない。那岐にとって彼女は彼女でありそれはけして変わらないこととして胸に刻まれているのだから。

 例えるなら母に人の起源を尋ねる幼子のように、その疑問は純粋で当然のものとして那岐の胸に落ちて来るのだ。子供の頃不意に空の青さを訝ったように、自分の見ている世界全てが疑わしいとさえ思えてくる。

 今、台所でトントンとテンポよく包丁を動かす千尋の背をぼんやり眺めながら、やはり那岐はその当然の疑問を抱かずにはいられない。似たような皮膚や器官を持っているだけで、実際のところ全く違ういきものなのではないかと疑っている。口にすればきっと彼女は目を丸にして、それから笑ってしまうだろう。なぎどうしちゃったのへんなドラマでもみたの。こちらは真剣に考えているというのに茶化されるのは不本意だった。それに予想に反して本気で考え込まれても困る。だから那岐はその疑問を一度も口にしたことはなかった。

 トントン。包丁が軽快に動く。風早に習いたての頃は随分拙くておぼつかなかったのに、今では随分様になっていた。

「いたっ」

 けれど彼女が声を上げて、那岐は溜息をついた。何か考え事でもしていたのだろうか。那岐はソファに沈めていた体を起こすと、足の高い小棚の下から救急箱を取り出して彼女の元へ向かう。

「何やってるのさ」
「うう、痛い……」

 彼女の指先にぷっくりとドーム状の山を作る血液を見て、那岐は彼女の腕を掴むと水で洗わせた。水に血が洗い流されていく。救急箱を漁って消毒液と絆創膏を探し出した。傷はそれ程大きくないから絆創膏で十分だろう。

「千尋、手」
「うん……」

 恐る恐る彼女はこちらに手を差し出す。那岐は消毒液を取り出して、ボトルの軽さに閉口する。持っただけで分かる。これは、完全に空だ。

 彼女は消毒液から与えられる刺激を想像しているのか、若干腰が引けていた。そうしている間にも、彼女の指先にはまた血液がたまっていく。

 那岐は不意に、彼女の血液に疑問を抱いた。赤い血。自分のものと同じ色。ならばその香りと味は同じものなのだろうか。

 腕を引く。彼女は目を見開いた。指先にくちづけるようにしてその血を吸う。まるで吸血鬼のようだと胸の奥で自嘲した。舌の上に染み込ませるようにすると、つんとした鉄の味がする。

 そうして那岐は彼女を人であると語るに相応しい要素を得て安堵する。彼女は人間である。違ういきものなどではない。だから線引きなどどこにも必要ない。

(とおくへいかないで)

 那岐の胸に浮かぶそのかすかな不安は後に現実となるのだけれど、那岐はそれには目を瞑って、今はただただ彼女が人であることに感謝した。