※那岐ルート確定直後の、黄泉へ行った際に迎えられるバッドエンドの話です

※このエンドを見ていない方には少し分かりにくいかもしれません





 夕暮れが、眩しい。

「千尋」

 那岐が名を呼ぶと、千尋は顔を上げてこちらを見た。あんまりにも気の抜けた笑みを向けるので、釣られてこちらもふ、と笑みを零す。ぎゅうと彼女が腕に抱きついているから、那岐は動くことができない。けれど今はそれでいいと思う。ここには時の流れがない。そして那岐と千尋以外の人もいない。ただ千尋と寄り添って座っているだけなのに、那岐はこれまで一度も得たことのないような安堵感で満たされていた。

 千尋の傍らで穏やかに微笑むことができる日が来るなんてと、那岐は些かの驚きを持って今の時を迎えていた。千尋は良くも悪くも、那岐の心を波立たせ荒らす言うなれば起爆剤だった。ここまで来て那岐は思う。自分はやはり千尋に恋をしていたのだろうか。今全てを捨ててまで自分の隣にいることを選んだ彼女に恋をしていた、否、恋をしているのだろうか。

 彼女が那岐へ向ける気持ちは知っているつもりだ。家族愛も恋愛もどちらもがない交ぜになっている。千尋にとってはどちらでも大きな差はないのだろう。区別が必要ないのだ。それでいいと思う。千尋はそれくらいがちょうどいい。

 対して那岐は、そのどちらも考えたことがなった。考えないようにすることで自分を守っていたのだ。那岐にとって千尋は厳密な意味での家族ではなかったし、長く共にいたこともあって恋愛の対象ではなかった。そうではないと言い聞かせていた。

 那岐、と彼女が名を呼ぶ。思考を止めて彼女を見れば、彼女は幸福そうに微笑んだ。つられて那岐も微笑む。ゆるく頭を撫でてやるといっそう笑みを深くした。那岐は何となく、彼女の髪を解いてやった。青い花飾りを外して床へ落とし、三つ編みを手櫛で梳いてやる。猫のように目を細めて千尋は那岐のその行為を許容した。少し三つ編みの跡が残ったけれど、それでも美しい黄金色だった。

 くすぐったいよ。千尋はそう言って頬を撫でる那岐を優しく咎めた。指の隙間に千尋の髪を通したままだったから、その髪が頬にふれて彼女をくすぐったのだろう。

「ねえ那岐」
「何?」
「だいすきよ」
「知ってる」

 幸福そうに笑う彼女の瞳は、どことなく夢心地だった。自分もそうなのだろうか、と那岐は思う。全てのしがらみから解き放たれた彼女は、生来の無邪気さ無垢さを取り戻したかのように輝いて見えた。

 那岐は深く安堵する。そして改めて彼女を見た。今なら何にも縛られず、この言葉を言える気がした。けして認めることのできなかった恋愛感情というものを、そのまま否定せずに受け入れて、解き放つことができる。

 それでいいのかと、心の奥で自分が叫んだ。お前は彼女を不幸にするのにと、今まさに不幸の底へ突き落とそうとしているのに、と。

 那岐は千尋を見つめる。二ノ姫という立場を捨て去った千尋。那岐だけを見つめ那岐だけを選んだ彼女を見つめた。

(僕も同じだけのものを捨てなければいけない)
(千尋以外の全てを放棄しよう。千尋以外の全てを否定しよう。千尋以外の全てを拒絶しよう)
(僕には千尋しかいないんだから)

 那岐はそっと、胸の奥にいる自分の首筋に指を這わせた。その目が驚愕と恐怖に歪む。指が柔らかい皮膚に食い込み、那岐はほんの少し力を込めた。想像の中のその那岐の首は思った以上に容易に折れてしまって、那岐は拍子抜けする。

 しがらみなんて、こだわりなんてこんなものだ。彼女を不幸にしたのが自分だというのならば、同じだけの暗闇へ堕ちてゆこう。それ以上だって構わない。バイバイ自分。那岐は自嘲して、千尋へ向き直る。吐息がふれあう程近くに彼女を引き寄せた。額同士をくっつけると、自身が青い目に写っているのが見えた。

「好きだよ、千尋」

 千尋は驚いたのか(全く失礼な奴だ)目を丸くしたけれど、すぐにまた幸せそうに微笑み、私もよ私もだいすきよと、何度も嬉しそうに繰り返した。

 那岐は千尋の額へ口付けた。額の次は目蓋へ、そして頬へ。戸惑い頬を赤らめる千尋を見て、那岐は噴き出す。俯く千尋の顔を上げさせてキスをした。初めてふれた彼女の唇は存外柔らかく、目を閉じて懸命に口付けを受け入れる彼女はいっそう愛らしくいとおしいと感じた。

「……好きだよ」

 日が暮れて互いの姿が見えない闇が訪れたとしても、もうきっと何も怖くないだろう。

 那岐はそう確信して、深く安堵した。