「もし、柚木先輩と別れなくちゃいけなくなったら」

 最後には、どうせだからずっと明るい曲をお願いしたい。蛍光灯の光にも、太陽の眩しさにも負けないくらいのものを、傷付いてしまうくらい荒々しく奏でて欲しい。滅多にねだるということをしない私が、彼に提示した久々の我儘がそれだった。彼は一度、ふるりと薄い唇を震わせたきり、口を閉ざしてしまった。ばかなことを言ってしまったと後悔しても、もう遅い。

(どうしよう)

 バリケードが意味を成さない。内側に溜まりこんだ水が波立って溢れてしまう。ほんの一滴だった。小さな滴が堤防の外に出てしまっただけだ。なのに、どうして。決壊していく。押し出されてしまう。隠さなくちゃ誤魔化さなくちゃ。「なんて、たとえ話ですよ」。魔法の一言でしょう、笑って言えるでしょう? おねがい、動いてよ私の役立たずのくちびるさん!

「香穂子」

 笑って、お願いだから笑ってよお願いお願いお願い! 震えているのが分かる。名前を呼ばれた。返事をしなくてはいけない。平然としてなくちゃあだめじゃないの。息が詰まる。じわじわと視界が滲んでいくから、歯ぎしりをするように上と下の歯を擦り合わせた。耐えてね、耐えてよ私の涙腺。泣いちゃいけない。困らせてしまう。

「……そんな顔をするんだったら、こんな、質の悪い冗談は止せばいいだろ。馬鹿」

 黙って頭を撫でられる。こういうときは抱き締めるものじゃないの、と恨みがましく見上げれば、彼はその視線に気付いてほんの少し、呆れたように笑った。

「抱き締めてほしいならここまでおいで」

 彼は意地悪くそう言う。ひどい人だわ、と言えば、ひどいのはどっちだ、と返された。彼の肩にぐいと顔を押付ければ髪を梳かれて、反対の手で宥めるように軽く背を叩かれた。顔を見られていないからいいかしら、なんて、思えばもう耐えられなかった。しがみつくように彼の服を握り締めれば、ぼろぼろと涙が零れていった。

「不安なんて持たなくていい。お前は俺の側にいればいいんだ」

 ああ、命令口調が落ち着くだなんて、相当な末期だと思う。「ひどいのはどっちだ」という言葉を反芻しながら、私は彼に、先程よりもずっと強く抱き付いた。

(気付いてるんですか)

 私は狡い。だから聞けなかった。素直でないこの人から必要とされていることを確認するため、ひどいたとえ話を(それは私の胸をもずきずきと痛ませるような話を)していること。泣いちゃいけない。困らせてしまう。そう自己陶酔に浸りながら彼の言葉を待っているということ。

 私は私の重要性を確かめるために、私自身を傷付けるのだ。その行為はこの痛みに耐える程の価値があることだから。感情を溢れさせて彼に甘えることができるから。

 だから私は繰り返す。最後には、どうせだからずっと明るい曲をお願いしたい。蛍光灯の光にも、太陽の眩しさにも負けないくらいのものを、傷付いてしまうくらい荒々しく奏でて欲しい。そうして私を、二度と立ち上がれなくなるまで、徹底的に叩き潰して。まるで新しい道を祝福するような清廉なワルツで、あなたのいない私の未来なんか、ずたずたに切り裂いてしまってよ。