放送部が委員会になることが決まって以来、広瀬の周りはにわかに忙しくなった。というのも、機材の使い方、放送資料の作成方法など、面倒くさがりの千木良が嫌ったために広瀬が引き受けていた様々な雑務のノウハウを、放送委員会になった生徒に引き継がせなければならなくなったからだ。風羽も手伝ってくれているものの、最近、彼女は以前にも増してぼんやりしていることが多く、業務を丸ごと任せるのはどこか不安に感じる。結果として広瀬は自分の委員会の仕事や塾の勉強の傍ら、引き継ぎ作業の殆どを引き受けることになった。

「広瀬くん、お手伝いに参りました」
「え? ああ、ありがとう」
「何を致しましょうか」
「じゃあこっちの、資料のまとめ、やってくれる? ホッチキスはそこの棚にあるから」
「御意」

 放課後、夕日の差し込む放送部の部室は奇妙なノスタルジックにまみれている。「これもまとめとけや」と千木良に手渡された機材トラブル対応のリストを分かりやすく箇条書きにまとめなおして二枚のプリントにして、新しい放送委員の人数分の資料を作る。それが今日のノルマだ。風羽の手伝いもあるから、きっと予定より早く終わらせられるだろう。彼女はいつも通り、しゃんと背筋を伸ばして椅子に座り、真剣な顔でプリントをまとめていた。

「部活がなくなると、君と学校で話す機会も減っちゃうんだね」
「残念です」
「まあ、寮が一緒だから、普通に話すとは思うけど」

 パチン、パチン、とリズム良くホッチキスが動いて、二枚組の資料が机の上に並べられていく。風羽の指先を見つめながら、広瀬は気分の高揚を禁じえなかった。放課後、夕暮れ、二人きりの部室。しかもその相手が好きな相手とくれば自然なことだろう。頬が熱を持ってしまう。

 いつか告げようと思っていた恋心を、今こそ告げるときではないだろうか。入学以前から彼女を知っていたこと、彼女の鉛筆に救われたこと、そして自分が、今の彼女に好意を持っているということ。このまま友人でいたいと思う気持ちと、彼女の特別になりたいという思いがぐるぐると混ざり合うと、資料を見る目が泳ぎ、手元が狂った。腕時計に当たったシャープペンシルが、カチャンと音を立ててテーブルから落ちていく。

「あ」

 広瀬が屈んで手を伸ばしたと同時に風羽の手が広瀬の指先に触れた。机の下で視線がかち合い、思わず広瀬は笑う。

「ごめん、ありがとう」

 風羽は「いえ」とだけ答えて、曲げていた背を元に戻す。そして先ほどと同じようにしゃんと背筋を伸ばして、パチン、パチンと資料のまとめを再開する。

 そのぴんと伸びた背筋を見ながら、広瀬はこくりと唾を飲み込んだ。言うならば今しかない。雰囲気に後押しされなければ想いを伝えられない自分の踏ん切りの無さに呆れながら、広瀬はゆっくりと口を開く。

 開こうとした。

「……」

 白い制服、ピンと張った襟、しんなりと垂れたスカーフ、細い首筋と、夕日に照らされた赤い頬。潤む大きな瞳の下にうっすらと見える隈に目が釘付けになる。その目が赤いのは気のせいではないだろう。

「菅野さん、どうかしたの?」
「? 何がでしょう?」
「いや、目の下、隈できてない? 何か悩み事でもあるの?」
「隈ですか?」
「うん」

 目が赤いことを指摘するのはさすがに思いやりがないような気がして、結局言わなかった。風羽はのろのろと手を伸ばして、自分の目の下に触れている。それから首を傾げて、自分では分かりませんね、と笑う。その笑い方がどこか乾いていて、中身のない空虚なものに感じられた。

「菅野さん、何かあったの?」
「何もありません」
「いや、でも……」

 好きな女の子に何かあったんだとしたら、放っておけない。そんなおせっかい心が働いた。しかし風羽は相変わらず乾いた笑みを浮かべながら「何もありません」と繰り返すばかりだ。広瀬はいつもとは違う風羽に不信感を募らせ、椅子から体を起して彼女に近づく。

「もし、何かあるんだったら相談に」

ダン

 強く音が響いたのはそのときだった。広瀬は目を見開く。風羽はいつの間にか全ての資料を留め終わっていたようで、その角を合わせるように机にトントンとぶつけていた。先ほどの大きな音はこのせいだったようだ。ばらばらだった資料が綺麗に重なって、元のように机の上に置かれる。「機材トラブル対応に関するまとめ資料」という文字が、天地逆になった状態で広瀬の目に焼き付いてくる。

「何もありません。お気遣いは無用です」

 そう言ってにっこり、と笑う風羽を見ていると、先ほどまで感じていた高揚感は冷めきって、何か岩のように固く、重いものになって広瀬の腹の奥に沈んでいった。分厚い幕に覆われて、形も分からなくなって、どこまでもどこまでも深く沈んでいく。もう二度と拾い上げられないだろう、という絶望に似た諦めを広瀬はじわじわと感じ始めていた。

 白い制服、ピンと張った襟、しんなりと垂れたスカーフ、細い首筋と、夕日に照らされた赤い頬。しゃんと伸びた背筋の彼女のことが、広瀬は好きだっだ。好きだったのだ。

 しかし彼女の乾いた笑顔とその拒絶を受け止めて、広瀬は悟ってしまう。きっと永遠に彼女に想いを伝えることがないということ、そして、自分はそもそもその権利すら与えられていなかったのだ、ということを。