広瀬の恋人は、周りに流されない常識人だが、一般的とは言い難い感性の持ち主で、広瀬はいつもそれに振り回されている。付き合う前も付き合ってからも、広瀬はこの愛らしくも奇妙な彼女のことが良く理解できない。けれど多分、それで良いのだろう。理解できないという壁にぶち当たると言うことは、それだけ理解したい気持ちが大きいということだ。

 最近の風羽は何だか妙に心配性で、甘えたがりだ。恐らく自分以外は気付いていないだろうが、仕草の一つ一つがどこかぎこちなく、弱々しい。できる限り広瀬と帰りたがるのもその一つだ。広瀬は気付かないふりをして、そんな風羽に付き合っている。彼女が何かを言い出すまで根気強く待つつもりだった。

「どこにも行かないで下さい、広瀬くん」

 夕暮れ時、二人きりの教室で彼女がようやく零した本音は、ごくささやかで、それでいて実に束縛性の強い一言だった。学生寮までの道のりを、ゆるく手をつないで歩く。足取りがのろいのは、着いてしまえば男子寮と女子寮に別れ、一緒にいられなくなるからだ。風羽は夕暮れを恐れているのだろうか。だとしたら、それは広瀬が風羽を置いて行こうとしたせいだ。広瀬には風羽の不安を拭う義務がある。風羽を抱きしめてキスをして、その傷が疼くのを宥めてやらなければならない。

(俺はとても、性格が悪い)

 不安を抱けば良いと思ってしまう。寂しくなって、苦しくなって、一人でも誰かと一緒でも耐えきれない焦燥感から逃げ出すために、いつまでもどこまでも広瀬を必要とすれば良い。広瀬は博愛主義者ではないから、求められなければ与えることはできない。彼女が広瀬を望むなら、惜しみなく限りなく与えて構わない。

「明日は委員会も塾もないから、遅くならないよ」
「そうですか。ならば行きたいところがあります」
「どこ?」
「甘味処です。新しいメニューが出来たと空閑くんがおっしゃっていました。広瀬くんを誘ったらどうかと」
「空閑くんはほんとに気が利くね……」
「? 今なんと?」
「何でもない。良いよ。たまには甘いものも食べたいし」
「はい。行きましょう」

 すべすべとした彼女の指の腹を撫でながら、明日の約束を交わす。大禍時になっても彼女を置いていったりしないと伝えるため、些細な仕草に祈るような思いを込める。

 ――俺はどこにも行かない。だから、君もどこにも行かないで。

 思いが伝わったのだろうか。かすかに握り返す力を強めた風羽に気付いて、広瀬は微笑んだ。

「俺は、君がすきだよ」