また夏がやってくる。風羽は地元にいたとき、初夏が好きだった。自然の多い田舎の土地では皆知り合いばかりで、初夏の折には畑でとれたばかりのみずみずしい野菜を分けてくれた。それを山から続く川で冷やして、祖父と共に丸かじりした。初夏は春とはまた少し違った生命の躍動に満ちていた。まだ未熟な暑さの中、風羽は無邪気に野山を駆け巡ったものだ。

 しかし高校生になって迎えた二度目の初夏を、風羽は喜んで迎えられなかった。この時期の夕暮れに、風羽は妙な焦りを覚えてしまうのだ。恐らくあの大禍時を思い出すからだろうと風羽は分析しているが、そう分かっていても不安は容易に拭えなかった。

(広瀬くんはここにいるのに)

 最近、嫌な夢を見るのだ。風羽があの時大禍時に間に合わず、広瀬を失ってしまう夢だ。広瀬は人を止めてしまう。そして風羽に告げるのだ。「君のこと、好きだった」。震える弱い声で、広瀬は風羽を置いていってしまう。風羽をたくさんの人の中に置き去りにして、広瀬はひとりぼっちになってしまう。

「不安になるのです。気付いたら、広瀬くんが学校からいなくなっているのかもしれないと。不覚ながら小田島先生がいなければ、私は広瀬くんがいないことに気付けませんでした」

 暗くなろうとする教室の中で、風羽は広瀬を抱き締める。ぴったりと隙間を埋めて、広瀬がどこにも行かないようにしたかった。

「どこにも行かないで下さい、広瀬くん」

 風羽は、どれだけ広瀬が委員会や日直で遅くなっても、帰らずに待っている。広瀬がいくら言っても先に帰ろうとしないため、せめて友人と一緒にいてくれと言われてしまった。風羽は情けないことに、夕暮れから生まれる不安と焦燥を、広瀬と会うことでしか拭うことができなかった。かつての自分が知らなかった胸の痛みを、自分自身で解消する方法を知らない。

「俺はどこにも行かないし、浮気もしないよ」
「……はい」
「君のいない場所になんて、もう行けない」
「はい」

 風羽は初夏が好きだった。けれど、今はあまり好きではなかった。住む場所が変わってしまったからだろうか。もしかすると、風羽自身が変わってしまったことの方が大きいのかもしれない。風羽は広瀬に恋をしてしまった。そして報われないかと思われた恋は報われてしまった。風羽は広瀬以外を好きになったことがないから、この感情が正しいものなのかが分からない。自分がただ自立していられないくらい弱くなってしまっただけなのかもしれない。

「好きなんだ、本当に」

 容易に唇を許してはいけないと、祖父に叱られてしまうだろうか。けれど広瀬の接吻は何よりも風羽を安心させてくれた。音を立ててすぐ離れるものも、食べられてしまいそうなくらい深いものも、どちらも広瀬の存在をダイレクトに伝えてくれる。

「ん、ふ」

 広瀬の体質は少しずつ改善されてきて、今はキスくらいで雨が降り出すことはない。酸素が頭に回らないくらい長い口付けをして、広瀬は机から立ち上がって風羽の手を引いた。そろそろ帰ろうか。もう日が暮れそうだし。そう言う広瀬の笑顔はとても優しい。

 風羽は戸締まりをする広瀬に手を引かれるまま、教室を出る。風羽はきっと明日も広瀬を待ってしまう。初夏が終わってすっかり夏になるまで、安心を求めて必死に彼を探してしまう。

 風羽にとっての初夏は、恋の痛みと、弱い自分を知った季節だ。だから、風羽は初夏が好きではなくなったのだ。