「一陽、出かけようよ」 ようやく春の日差しを感じられるようになった午後に、創一はそう言って僕に微笑みかけた。 「どうしたんだ? 突然」 「ほら、ジャスリーンさんの切り株、少しずつ再生してたでしょ? 見に行こうよ」 「そうか、なら行こう」 僕が立ち上がると、創一は嬉しそうに笑う。月宿神社の戸をそっと押しあけて外に出れば池一面に咲いた蓮の花が見え、僕も思わず笑みがこぼれた。 「自然の再生力ってすごいね。あれからまだ六年なのに、切り株から幹が伸びて、昔みたいに花が咲きそうになるなんて」 「そうだな」 「蓮の花も綺麗に咲いてる。主様に見せてあげたいね」 「ああ。きっと喜んでくださるだろうな」 「あ、そう言えば」 「何だ?」 「この間、蛇女さんが遊びに来ていたよ」 「は!?」 「春の陽気に誘われて、だって」 「妖気の間違いじゃないのか? まったく、あいつも良く呑気に遊びに来れるものだ。主様に根こそぎ力を奪われて、とっくに懲りたと思っていたのに」 「逆にそのせいなんじゃないかな。性格も丸くなってたし、襲われなかったよ」 「今はお前の方が力もあるし、当然だろう」 「一陽にも会いたいって言ってた」 「嫌だ」 「まあ、蛇であることには変わりないからね……。でもあの人に会うと、小さい頃を思い出すよ」 「生まれたばかりの頃にちょっかいをかけられたからな」 「懐かしいね。僕、あの頃は一陽に嫌われてたね」 「ほ、掘り返すな! 昔の話だ」 「ふふ、ごめんね」 創一はにこにこ笑って、僕の前を歩く。あっちだよ、と創一が指差す方を見ると、ジャスリーンのものだけではなく、多くの桜が爛漫と咲き乱れていた。 *** 生まれたばかりの頃、僕は創一のことが嫌いだった。とろいしどんくさいし、道端の何でもないところで転ぶ。何かあっても転ぶ。蟻を踏まないためにひょいと飛び越えて、その先の岩にぶつかる。何でこんな奴が僕の半身なんだろう、と何度も首をかしげたものだ。 「一陽、待ってよ! 一陽」 「ついてくるなって言っただろう!」 「だ、だって……。一陽はどこに行くつもりなの?」 「見回りだ。昨日、隣の土地の奴が来ていた。もしまた来ていたら追い払うためだ!」 「だ、だめだよ危ないよ! 僕達、まだ力安定してないし……」 「お前、それでも守護者か! 情けない」 怒った口調で言うと、創一は眉を寄せて泣きそうな顔をする。こういうところも嫌いだ。僕と創一は守護者で、主様をお守りするためにふたりいるのに、創一はいつも逃げ腰で、臆病で、弱虫だ。こんなのが僕の半身だなんて信じられない。 二人なんていらないんじゃないか。主様は十分この土地を十分守っている。そのくせ優しいから外敵を追い払うのが苦手だ。だから本当は、守護者は僕一人でも十分やっていけるはずだ。 「ねえ一陽、主様のところに戻ろうよ。危ないよ」 「お前一人で戻れば良いだろう」 「だめだよ、ふたりじゃなくちゃ」 創一はとろくさい動作で僕の後ろを追いかける。僕はそんな創一を横目に見回りを続けた。昨日来た隣の土地に住む意地の悪い妖怪は、珍しい地質の月宿を己のものにしようと狙っているのだと言う。年かさだが力の弱い妖怪達が怯えていた。 「危ないよ、一陽」 「危なくない。僕は戦ってこの土地を守るための存在なんだから」 創一は守りで僕は攻め。主様の性格上、他の土地に攻め込むことは無いけれど、外部から攻め込まれたら話は別だ。土地を浄化する能力に特化したせいで戦う手段を持たない月蓮蛙達は他の力ある妖怪達から狙われやすい。危険因子を排除するのも守護者の役割だ。 「ふうん、ならば私と遊ぼうか」 「ひっ」 「誰だ!」 ひんやりと身が凍るような声に顔を上げると、蛇をぬるりと腕に巻きつけた女が木の上から創一と僕を見下ろしていた。目の周りを隈取る模様が禍々しい。姿形は人間の女のものだが、感じ取れる妖気のおぞましさはこの土地にひどく不似合いだ。 「へ、へびっ……」 創一の顔が青ざめる。蛇は蛙の僕達の天敵だ。僕自身もぞわぞわと肌が泡立つのが止められない。 「子蛙なんてごちそうだな」 「ひ、へ、へびっ……! 来ないで……!」 「ふふ、しかも可愛いね」 「近寄るな!」 涙目になって腰を引く創一を背に庇って立つと、蛇女はますます嫌味な笑顔でこちらを見つめてくる。僕は蛇女を風で吹き飛ばすため、手に力を集めた。しかし緊張のせいか手が震えてうまくいかない。僕も蛙だから、蛇は本能的に恐れてしまう。 「か、一陽を、食べちゃだめ! 食べるなら僕だけにして!」 体がすくむ僕を庇うように、今度は創一が目の前に立ちふさがった。目の端には涙が浮かんで、今にも零れ落ちそうだ。弱虫の創一が僕の前に立っている。僕は慌てて声を上げた。 「創一、ばか、何やってるんだ!」 「そうだよ、創一。そんなばかなことを言っちゃいけないよ」 「ああまったく美しい茶番……、え?」 蛇女がきょとんとする視線の先は、まっすぐに僕の後ろへ向かう。ぽん、と肩を叩かれて振り向くと、僕達の敬愛する主様がにっこり微笑んでいた。心なしか怖い。 「やあ、久しぶりだね。蛇骨婆」 「ひえっ」 今度は蛇女の方が先ほどの僕達のように情けない声を上げる。ひきつった笑みがとても滑稽だ。 「昔もこうやって、月蓮蛙達にちょっかいを出していたね」 「ああああ、いや、これは、そのちょっとした余興でね。君とは昔馴染みじゃないか、なあ」 「そうだね、昔馴染みとは遠慮がいらなくて素敵だね」 にこりと微笑んだ主様は、蛇女に向かって片手をかざした。 「ここは、私の土地だよ」 *** あの蛇女は蛇骨婆と言うそうで、蛙の多いこの月宿にたびたび訪れては、野生の蛙や、それこそ動きの鈍い月蓮蛙達を採って食らっていたそうだ。そのたびに主様が粛清を加えているが、まだ懲りないらしい。 「さすがに今回で懲りたんじゃないかな」 丸ごと力を吸い取ったから、と付け足す主様の笑顔は輝かしい。僕は僕で主様の守護者としての役割を果たせなかったことが悔しくて、主様と顔を合わせずらかった。 「主様」 「何だい?」 「何故、僕と創一は生まれたんですか?」 「どうしたの、突然」 「だって、主様一人でこの土地を守ることができているから、それなら、僕達はいらないんじゃないかって」 「一陽と創一はまだ生まれたばかりじゃないか」 「でも、僕と創一は、主様や月宿を守るためにいるのに」 「生まれたときから何でもできるわけじゃないよ。何事も身に付くまでは時間がかかるものだ」 納得がいかずにうつむく僕の頭を、主様は優しく撫でてくれる。そして軽く僕の背を押して、にこりと微笑んでみせる。 「先ほどから創一の顔が見えないから、探しておいで。暗いから気をつけてね」 「……分かりました」 僕は神社の戸を押す。ぼんやりと浮かんだ月を見上げて、ふと立ち止まって後ろを振り向いた。 「主様、もう一つ聞きたいことがあります」 「何かな?」 「何故、僕と創一はふたりなのですか?」 僕のその問いかけに、主様はこともなげに答えた。 「だって、ひとりはひとりということだから」 ひとりはひとり、それはどういうことなのだろう。僕はその言葉に後ろ髪を引かれる思いを拭えないまま、月宿神社を出た。眠る月蓮蛙達を起こさないようにそっと月宿池を越えると、創一はすぐに見つかった。僕と創一は繋がっているから、どこにいるかくらいならすぐに分かる。苔むした岩の上にちょこんと座って、創一はぼんやりと夜空を見上げていた。 「創一」 「わっ」 「何をしているんだ」 「一陽……」 僕が創一のすぐ隣に座ると、創一は少しだけ横にずれて場所を空けてくれた。肩がふれ合うくらいぴったりくっついて、僕も創一にならって空を見上げる。 「ねえ、一陽」 「何だ」 「僕達って、やっぱりまだ弱いんだね」 「……嫌味か」 「ううん、違うよ。ただの事実だよ。本当は、僕はあの場面で、一陽を守るのは僕なんだって言えるくらいじゃなくちゃいけなかったのに」 「……それなら僕だって、あの場所でためらわずに攻撃できなくちゃいけなかった。相手が天敵の蛇でも、怯えずに」 そっと手を差し出すと、創一はごく自然に僕の手に自分の手を重ねた。僕はとろくてどんくさい創一のことが嫌いだったけど、創一が誰よりも僕の近くにいて、こうして手を繋ぐのに一番ふさわしい相手だということは体が知っている。 「一陽、僕達、もっと強くならなきゃね」 「そうだな」 僕達はふたりだ。ひとりじゃない。創一がどんくさいなら、僕はきっと粗忽者だ。同じくらい足りない部分をたくさん抱えている。 「修行しよう、ふたりで」 「うん。この土地を守れるように、立派な守護者になれるように」 「ああ」 僕は創一のことが嫌いだった。とろいしどんくさいし、道端の何でもないところで転ぶ。何かあっても転ぶ。蟻を踏まないためにひょいと飛び越えて、その先の岩にぶつかる。何でこんな奴が僕の半身なんだろう、と何度も首をかしげたものだ。 けれど創一は僕の手が動かないとき、迷わず僕の前に立って僕を守ろうとする。自分を犠牲にして僕を守ろうとする。だから僕はこの土地と、主様と、創一を守るために強くならなければならない。創一がいることで、僕はいっそう強くなることができる。 「主様のところに戻ろう、創一」 「うん!」 一人は独りということ。主様の言葉を思い出す。僕達はふたりだから、こうして手を繋いで未来を誓い合うことができるのだ。 *** 「うわあっ」 「創一!」 ふっと目をそらした隙に、創一はこけていた。何年経ってもどんくさいところは変わらない。 「何やってるんだ、全く」 「あ、蟻を避けたらこけたの」 「そんなところだろうと思った。ほら、手」 僕が手を差し出すと、創一はにこにこ笑って僕の手を取る。 「ねえ、久しぶりに手を繋いで歩こうよ」 「……まあ、別に良いけどな」 春の日差しはどこまでも温かい。主様がいなくなってから、僕達はしばらくひとり同士になった。僕は主様を探すために月宿を離れ、創一はこの土地を守るためにひとりで残った。けれど今、僕達はまたふたりでいて、こうして蓮の咲く月宿の土地で手を繋いで歩くことができる。 「ねえ空閑くん。あの桜、どこだったっけ?」 「ええと……、確かもう少し向こうだったような気がします」 「もう六年前だろ? 見つけられんのかよ」 「菅野さん、場所覚えてる?」 「お任せください。こちらです」 「よし、みんな菅野に続けー!」 「うっわあ、三十代がはりきると寒いわあ」 「はーっはっはっはァ!」 「戸神! そこは笑ってないでフォローとか突っ込みとか欲しかった!」 「おい菅野、そっちじゃねえだろ!」 「む」 「あれ、やっぱりあっちなの?」 ふと聞こえてきた賑やかな声に顔を上げる。月宿の地図とにらめっこして、数人があっちだこっちだとてんでばらばらな方向を指していた。 「あ……」 創一も気付いたようだ。ぽかんと口を開けてそいつらを見ている。 「なあ広瀬、本当にこっちなのかよ」 「そのはずだけど……。ニュースになったくらいだし、見物人とかいないのかな」 「確か、切り株から幹がにょきにょき生えて、また花を咲かせたんですよね? 米原先生」 「おお、新聞でしか見てないけど、あれは見事な復活だったぞ」 「生命力ってのは侮れねえモンだなァ!」 「しっかし、わざわざこんなメンツ集めて行かんでもええやん」 「良いじゃん良いじゃん! お花見ってことで」 「もう少ししたら兼子さんと芳子さんもいらっしゃいますので、先にあの桜を見つけておきましょう」 「おー!」 僕達を振り向かず、人間達は桜を目指して歩いていく。集団の中の一人がこちらを振り向きにやりと笑ったけれど、それは鼻で笑い飛ばしておこう。まったく、烏天狗は何年たってもふてぶてしいことこの上ない。 「創一」 僕はぎゅっと、創一の手を握りしめる。創一も同じように握り返してきた。 僕達はひとりじゃない、ふたりだ。 「泣かないでくれ、創一」 僕の言葉に、創一は袖を目に押しつけたままでこくりと頷いた。彼らは僕達を振り向かず、まっすぐに桜を目指して歩いていく。 「一陽」 「何だ?」 「忘れても、見えなくても、会いに来てくれるんだね。……うれしいね」 「ああ、そうだな」 今日くらいは人間と共に、桜を眺めるのも悪くないだろう。僕はそっと創一の手を引き、彼らの後に続いた。 |