「寒いねえさっちゃん」
「わあっ」
「何? どうしたの?」
「びっくりしたんです」
「どうして?」

 見上げた先、こてんと首をかしげる姿は、男性の割には随分と可愛らしさがあって皐月はうっと息を詰める。隣に並んで歩いていたと思ったら急に姿が見えなくなって、どこへ行ったのだろうと体を反転させた途端、後ろから抱き締められた。長身の餘部の腕の中にすっぽりと収まり、皐月はマトリョーシカの気分だ。関節の形がはっきりとした長い指先が、皐月のマフラーの先にぶらさがったボンボンをくるくる回して弄んでいる。

「突然抱きつかないでください」
「ん? どうして?」
「びっくりしました」
「驚かないでよ」
「そんなのできません。それに、これじゃあ転んでしまうかもしれませんし」
「大丈夫。転びそうになってもボクが支えてあげる」
「そういう問題じゃないです、もう」

 発展性の無い会話の中で、皐月は身を捻って餘部の腕から逃れようとする。

「餘部先輩」
「何?」
「離してくれないと、真っ直ぐ歩けません」
「でも離れると寒いんだもの」
「私はカイロじゃありませんよ」
「知ってるよ。君はボクの可愛いさっちゃんだ」
「……もう」

 ぎこちない歩みを止めて、しばらくそのままにしておく。人の少ない時間帯で良かったな、と皐月は思う。鼻先をつむじにぴたりとくっつけられて、何だかくすぐったい。

「先輩、帰らないと」
「君はボクを咎めるのが好きだね」
「先輩が自由人すぎるのがいけないんです」
「そう?」
「そうですよ」
「でもそういうボクが好きでしょう?」
「……もう」

 仕方のないひと、と嘆息しながら、皐月はけして餘部の言葉を否定しなかった。肯定できないのは気恥ずかしさが勝ったからだ。ぎゅうぎゅうに抱き締められて身動きができない中で、皐月は首だけ捻って後ろを見た。

 ふわふわと、どこにでも行ってしまいそうな自由なひと。ふらりと戻ってきたように、またふらりとどこかへ行ってしまいそうなひと。皐月が餘部に対して抱くそんな小さな不安は、もう彼には伝わらない。彼は神様ではないから、皐月の思考を読み取ることはできない。

 けれど、それで良い。それは皐月が行動と言葉で示すべき分野だ。そして餘部が人間として理解するべき分野だ。

「餘部先輩、かげふみって知ってますか?」
「勿論。さっちゃんはとても得意だったね」
「見てたんですか?」
「見ていたよ。混ざりたくても混ざれなかった。あの時のボクにはかげが無かったから」
「じゃあ今ならできますね」

 えい、と皐月は餘部の腕を引いて反転させる。わあ、と彼は驚いて声を上げたけれど、皐月の体に回した腕をほどいたりしなかった。皐月は沈みそうな太陽に背を向けると、足元からすうっと一直線に伸びたかげに足を伸ばす。

「先輩、捕まえた」

 皐月はつま先でコツコツと餘部のかげを踏む。餘部は皐月をぎゅうっと捕まえたまま、皐月に捕まえられた自分のかげを、ぱちぱちとまばたきをしながら見つめる。

「そうか、今のボクにはかげがあるんだね」

 ぼんやりと呟いた餘部に、皐月はそうですよと強く頷いた。だからかげふみができるんですよ。あなたが私を離さないままでも、私は違う方法であなたを捕まえられるんですよ。

 こつん、ともう一度、長く伸びるかげを強く踏みしめる。

「どこにも行っちゃ、いやですよ」

 首をかしげる彼を見つめながら、皐月は笑う。餘部はしばらくきょとんとしていたけれどすぐに軽やかに笑って皐月を抱き締める腕の力を強くした。

「皐月がかげを踏んでいるから、ボクはどこにもいかないよ」