彼女は女性で、そのことを自覚していて、常識だってそこそこあるけれど、やっぱりどこかずれている。それはこちらも理解しているけれど、どう考えても自分は色々間違った選択をしてしまった気がしてならない。

 法月に乗せられるままに「一緒にベッドで寝よう」なんて、言うべきではなかった。風羽にはその辺りの危機感がないのだ。信頼されていると言い換えれば聞こえは良いが、こちらとしては、彼女という立場の風羽と同衾するということに対して、何も邪念を抱かないと思われているのは複雑である。そんなにヘタレに見えるのだろうか。一応過去にちょっかいを出し過ぎて警戒されたこともあるはずなのに、彼女は一緒のベッドで寝ると言って聞かない。

「じゃあ、電気消すよ」

 しかし、自分で逃げ道を無くしている気がしなくもない。足元には昨日と違って広瀬用の布団を敷いていない上、風羽は既にベッドに上っており、広瀬が来るのを待っている。広瀬には「据え膳」という言葉が自分の周りをぐるぐる回っているように思えたが、それをはねのけて一気に布団に潜り込んだ。

「じゃあ、お休み」
「はい、お休みなさいませ」

 静まり返る室内に、ばくばくと心臓の音が響く。嬉しさよりも緊張が上回っているせいか、雨が降る気配はなかった。もうこの際降ってほしい。そうでないとこの心音が、すぐ隣の彼女に伝わってしまいそうだ。

「……起きていますか、広瀬くん」
「え? うん、一応」
「ならば一つお聞きしたい」
「どうしたの?」
「何故、背を向けますか」
「何故って……」

 この口振りは怒っている。広瀬は溜め息を吐きたい気分だった。だってそうだろう。広瀬だって健全な高校生男子である。好きな女の子が同じベッドにいると言うのに、ただ黙って眠っていられる訳がない。それを懸命に耐えて、平然と振る舞っているのだ。いくら風羽でも、さすがに察してほしい。

 けれど彼女の手のひらがそっと背に当てられて、怒っているというより、悲しんでいるのだと分かった。祓玉もそう伝えている。確かに、恋人と並んで横になっているというのにお互い背を向けているというのは、もう破局寸前の光景のようだ。

「その、悪いとは思うけど……」
「ならばこちらを向いて下さい」
「あのさ菅野さん、俺も男なんだ」
「? 存じておりますが」
「……ああ、もう」
「はい?」
「俺は、悪くないからね」

 広瀬は耐えようとした。風羽が煽るからいけないのだ。体ごとぐるりと振り返ると、暗闇の中で目を丸くしている風羽が見えた。風羽ももう少し危機感を覚えるべきだ。だから、自分は悪くない。

 するりと頬を撫でると、小指が首にふれて風羽がびくりと震えた。腰に腕を回して抱き寄せ、足を絡ませて動けないようにする。風羽の柔らかな髪に顔をうずめると、シャンプーの控えめな香りが広がった。

「広瀬くん」
「動いちゃ駄目」
「あの、くるしいのです、が」
「そうだろうね」
「……怒っていらっしゃいますか?」
「少し。あんまりさ、男を煽るものじゃない」
「あお……?」
「自覚がないのは、尚悪い。だから、お仕置きね」

 髪の隙間から覗くちいさな耳に唇を寄せて、ちゅ、と音を立てて口づける。風羽の顔は見えないが、多分いつもの表情のまま、過剰にうろたえているだろう。抱き締めた体がすっかり硬直してしまっている。一気に優位に立てたことが嬉しくて、そのまま骨に沿うように舌を這わせる。甘噛みするとぴくりと震えて、縋るようにこちらのパジャマを握りしめた。その仕草では、制止とも催促とも取れる。本当に、自覚がないとは恐ろしいことだ。

 腰を抱く手を移動させて、パジャマの中に潜り込ませる。普段は目にも見えず、ふれることも無い服の下の皮膚はしっとりと手に馴染み、広瀬は風羽の背を直に撫でた。くすぐったかったのか、「ん、」と漏れた声はいつもより高く、細く、広瀬をぞくりとさせた。色のある声だった。

「ひろせ、」
「風羽」
「!」
「好きだよ、風羽」
「……それは、私も、ですが」

 風羽はあからさまに混乱していた。今の状況と、唐突な名前の呼び捨てと、直接的過ぎる「好き」に対して。広瀬が少しだけ体を離すと、彼女は戸惑いを隠さずに顔を上げた。困ったように眉を寄せ、広瀬のパジャマに縋るその表情は、普段は見られないものであり、それ故にいっそう、いとおしかった。俯かないように顎に手を添えると、彼女は益々表情に困惑を浮かべてしまう。

「……可愛い」

 唇にひとつキスを落として、そろそろ勘弁してやろうかと、拘束を緩めた。絡めていた足を外してやると、擦れ合っていた太ももがおずおずと離れていく。怖がらせてしまったかもしれないと思い、今度はあやすように優しく抱き締めた。

「あのね、男は狼なんだよ。俺だってこういうことしたいと思うの。だから背中向けて我慢してる。少しは分かってもらえた?」
「……まだ、高校生ですよ」
「高校生でも、好きな女の子が隣で寝てたら、平然としていられません。手を出したくなる」
「……」
「……きらいになった?」
「なりません」

 彼女は顔を上げて即答した。その様に思わず頬が綻ぶ。広瀬は彼女に比べればずっと考えが俗っぽくて、今だってなけなしの理性で必死に耐えているだけだ。

「俺だって無理に事を成したいわけじゃない。でも、少しは君も危機感を持ってよ」
「……御意」
「明日からは、昨日みたいに布団を敷いて寝るからね」
「それは駄目です」
「……菅野さん」
「私の話を聞いて下さい」

 指先でそっと口を塞がれ、広瀬はひとまず黙る。彼女の目には先程の戸惑いはなく、真摯にこちらを見つめていた。

「私の身にもなっていただきたい」
「え?」
「私は毎晩、広瀬くんの呻き声で目を覚ますのです」
「……ごめん」
「私は一度眠るとなかなか起きないと自称しておりますし、過去十九波さんにそう言われたこともあります。その私が真夜中、呻き声で起こされるのです。その苦痛も察して頂きたい」
「申し訳ありません……!」
「いえ、この言い方だとひねくれていますね。私はただ、心配なのです」

 今度は風羽が、広瀬をぎゅっと抱き締めた。

「好きな殿方が毎晩苦しんでいるのです。そして私は、それを緩和する術を持っている。有用したいと思うのは、誤りですか」

 反論は出来なかった。広瀬は口を噤んだまま、風羽を抱きしめ返す。彼女は愛情深く、優しい。そんな人が自分を好いているという事実が嬉しくてたまらなかった。

 ふと耳をすますと、雨の音が聞こえてきた。明日もきっと、寮生みんなから文句を言われるだろう。仕方がないのだ。この感情は容易に抑えられない。

「分かりました。俺の負けです。俺が色々我慢します」
「良いのですか?」
「さすがにそんなこと言われちゃね……。その代わりに」
「何でしょう?」

 もう魘されなくて良いという安堵と、彼女が横にいて眠れるのかという不安と、両方が広瀬の脳内に浮かんだが、今はそれを口に出すような野暮な真似はしない。

「俺が安眠できるように、ちゃんと抱き締めててね」
「御意」

 間髪入れずにそう答える彼女のことが、広瀬はとても好きなのだ。