米原は、たくさんの言い訳をしながら生きている。真正面から向き合うことをほんのちょっとだけ避けて、上手に逃げ道を確保している。大人なら誰だってやることだ。がむしゃらに正面衝突できるのは子供の特権で、米原はもうすっかり大人だから、昔よりは利口な生き方をしている。

「米原先生」
「、お前、こんな時間まで何してたんだ」

 十二月にもなれば暗くなるのも早い。期末テスト制作のために居残りをしていた米原の元に、風羽がやってきた。国語資料室には米原以外の国語教師はおらず、風羽は後ろ手に扉を閉めてから米原へ近付いた。キュ、とシューズと床の擦れ合う音が、彼女が歩くたびに聞こえる。

「今日は放送部の集まりでした」
「……そうだったのか? 悪いな、行けなくて」
「いえ、テスト前はお忙しいと聞きますので、ご無理はなさらず」
「ありがとな」

 風羽が一定の距離を保っているのを見て、米原はデスク上のプリントを引き出しに仕舞った。テスト前は教師の机に近付いてはいけないというルールがある。うっかり答案用紙を見られてしまっては公平を欠くからだ。

「ほら、もう大丈夫だからこっちにおいで。何か用事があるんだろ?」
「よろしいのですか?」
「テスト関連のものはもう仕舞ったからな」
「では」

 また一歩を踏み出してくる彼女は何かを背に隠していた。両腕を後ろに回していて、何だか歩きにくそうだ。米原はふと一つの可能性に至って苦笑した。全く、可愛いことをしてくれる。

「米原先生、お誕生日おめでとうございます」

 椅子に座ったままの米原に差し出された箱は丁寧にリボンが巻かれていた。彼女はほんの少し恥ずかしそうに頬を染めて、米原がその箱を受け取るのを待っている。

「……ありがとな」
「いえ、よろしければお納め下さい」
「お前からの贈り物なら大歓迎」

 一年前の米原なら「女の子からの」という修辞を使っていただろう。今はそうではない。彼女は気付いているだろうか。米原ができる特別扱いはこんなにもささやかだ。彼女の想いに対して今の米原は答えられないし、答える気はない。それは、彼女が米原に恋を伝えたときから二人とも分かっていたことだ。

 彼女が見守る横で箱を開けると、品の良いネクタイが姿を表した。包装を丁寧に解いて手に取る。添えられたバースデーカードには、ぎこちない英字で「Happy Birthday」と綴られていた。こんな字を書くのかと思うと頬が緩む。米原は国語担当だから、彼女の英字を見たことがなかった。

「お前が選んでくれたのか?」
「はい」
「そっか。なおのこと嬉しいよ。ありがとな」
「喜んで頂けたなら何よりです」

 ほんのりと頬の赤みを増す彼女を見て、米原はおもむろに自分のシャツの襟を緩く立てた。ネクタイを巻いて、手早く結び目を作る。首が窮屈になるのが苦手で最近はあまりネクタイを使わないが、新任の頃の習慣で結び方は体に染み着いていた。襟を整えてから彼女に向き合う。

「どう? 似合う?」
「……はい、とても」
「良かった良かった。よし、もう外は暗いし時間も遅いし、お礼に寮まで送っていってあげましょう」
「良いのですか?」
「勿論。……あー、ここをちょっと片付けてからになるけど、良いか?」
「構いません。それではお手伝い致します」
「そうか? 悪いな。じゃあ、窓の鍵、締まってるか見てくれるか?」
「御意」

 戸棚に教科書を仕舞って、必要な書類をファイルに挟んで鞄に仕舞う。彼女は窓の鍵をひとつひとつ確認しながら、窓に息を吐けば白くなるのを見て目を丸くしていた。こんなにも寒くなっていたことを驚いているようだった。

「菅野、カーテンも閉めておいてくれ」
「承知致した」

 言われるままにシャッ、と勢いよくカーテンを閉める風羽を見て、米原はほんの少しだけ微笑んだ。素直さは彼女の美徳だが、素直過ぎて悪い男に騙されないか不安だった。例えば、自分のような。

 彼女が不審に思って首を傾げてこちらを振り向くのと同時に、米原は手を伸ばした。

「先生、確か教室のカーテンは全て開けっ放しにしておくはずで――」

 ぎゅ、と抱き締めた体は小さい。突然の接触にらしくもなく彼女は体を固くした。米原は頬を風羽の頭にくっつけて、深く息を吐いた。

「……先生?」

 どうしたのか、と問いたい口調でそう呼ばれて、米原は「先生」の自分を意識する。だから、米原は用意していた言い訳を口にした。

「んー、仕事ばっかりで疲れた。ちょっとぐらついたら良いところにお前がいたんだ。と言うわけでしがみつかせていただきました」
「何と! 大丈夫ですか?」
「まだ無理。ちょっとだけこのままで良い?」
「私は構いません。ですが先生、目眩がしたならば座った方がよろしいのでは」

 騙されやすい彼女は心配の色をした目で米原は見つめてくる。米原は子供の風羽を見下ろしながら、その額にそっと唇で触れてから、もう一度ぎゅっと抱き締めた。

「先生?」
「ぐらついて、俺は寄りかかってるだけだよ」

 米原はずるい言い訳を、彼女にも分かるようにゆっくりと言い聞かせる。米原はずるい大人だから、子供の彼女を時折こうして大人の言い訳に巻き込むのだ。顔を見られないように強く抱き締めれば、彼女はもう一度体を固くした。

「俺は目眩がして、うっかりお前に寄りかかって、今は動けない。何もやましいことは無いだろ?」
「……そう、ですか」

 米原の言わんとすることを理解したらしい彼女は、両手で米原の脇腹辺りのシャツを軽く握った。きゅっと引っ張られて皺が寄る。背に腕を回さない彼女の幼さに、米原は愛しさを感じながら、同時に安堵していた。風羽がこうだから、米原も彼女の前ではまだ「先生」でいようと思える。

「なあ、菅野」
「何でしょうか」
「プレゼント、ありがとうな」
「……はい」
「なあ、菅野」
「何でしょうか?」
「いーや、やっぱ、何でもない。そろそろ帰るか」

 腕の力を緩めて体を離すと、彼女はぐらりと傾いた。米原の方に倒れ込んだ風羽の体をそのまま抱き留める。

「おっと、どうした?」
「目眩がしました」
「おいおい、大丈夫……」

 問い掛けてからその台詞にデジャヴを感じ、米原は言葉を止めて黙った。風羽の手のひらがきつく米原のシャツを握り締め、駄々をこねる子供のように頬を米原の胸に押し付ける。

「目眩がしたのです」

 ――早く、帰らなければいけない。彼女を寮に送り届けてやらなくてはいけない。けれど米原の両腕は、彼女の珍しい我が儘を受け止めてやりたくてたまらなかった。

(なあ。俺は職員室からここに来るまでに、帰ろうとする千木良と法月に会ったんだよ。だから、今日は部活は無かったんだ。そうだよな、菅野)

 米原にプレゼントを渡すために、彼女は暗くなるまで、米原が一人になるまで、待っていたのだ。部活だと嘘を吐いて、米原に気を使わせないために。もしくは、米原に遅くまで残っていたことを叱られないための言い訳として。

「そうか、お前も目眩なら仕方がないな」

 米原は、たくさんの言い訳をしながら生きている。真正面から向き合うことをほんのちょっとだけ避けて、上手に逃げ道を確保している。大人なら誰だってやることだ。がむしゃらに正面衝突できるのは子供の特権で、米原はもうすっかり大人だから、昔よりは利口な生き方をしている。

「……仕方ないな」

 米原と同じ言い訳を使う、大人になろうとしている可愛い子供をきつく抱き締めながら、米原は心の中で密かに祈る。頼むから、お前の気持ちに俺が答えられるようになるまで、俺のことを好きでいてくれよ。それまでは、俺はお前のたくさんの言い訳に答えてやるから。だからお前以上にたくさんの俺の言い訳を、どうか許してくれ。