猫猫事件帖

オペラ座の歌姫失踪事件 六

その男の世界は完成していた。この世に生を受けてから、既に完成しきっていた。男にできることは、その均衡を守ることだけだ。だからそれを使命のように、或いは義務のように遂行していく。満足感も充実感もない。それは男をこの世に留めるただひとつのライフワークだ。
その少女の世界は崩れていた。元からそこにあったものが全て焼け落ちてしまったような虚しさに、少女が出来ることは新しいものを築くことだけだった。だからそれに執着し、或いは渇望してその完成を見守っている。満足感も充実感もない。それでもそれだけが、少女をこの世に留める、ただひとつの方法だった。




猫猫事件帖 オペラ座の歌姫失踪事件
終幕




途切れる息が焦りを波立たせる。流れる汗など気にしてはいられないのに、煩わしすぎて汗を拭う他なかった。ありとあらゆることが身体に纏わり付いて離さない。どんどんがんじがらめになっていくようで胸が苦しくなる。これが焦りだとも、苦しみだともわからなかった。ただそこにいるその影は、己の脳に命令を下す他ない。倒せ、勝て。それだけでいい。
「明乃!!」
呼ばれてハッとした。同時に勝手に身体が半回転する。地面に突き刺さったナイフの位置が先程まで自分が立っていた場所だと気付いて血の気が引いた。それは目の前の敵からの、初めての悪意だった。
「遊んでいる場合ではないんですよ」
怒っているのか、楽しんでいるのか。敵は未だ笑ったまま、白い燕尾服に汚れのひとつすら付けず悠々と立っている。これには流石の東雲も腹が立った。が、今はそんなことにキレている場合ではない。明乃の様子がおかしい。少なくとも、いつも通り全力を発揮できているとは感じなかった。
「明乃、落ち着け」
「うん、大丈夫だよ、宵一さん」
明乃がナイフを持ち直す。先程から状況はいい方には転んでいなかった。なんせ敵、常盤 社は余裕綽々と攻撃をかわすばかりで、一方的に此方の体力が削られていく以外に何も起きていないからだ。ナイフを振るい、軽々と常盤がそれを避ける。永遠に繰り返せば繰り返す程、明乃は体力よりも精神を削られていった。
無理もない。東雲は思う。明乃の人並みではない身体能力を前に、ここまで余裕でいられる人間など今までいなかったからだ。勿論想定していなかったわけじゃない。しかし明乃は違うだろう。目の前にあるどうすることもできない壁に、焦りを感じている。本当に勝てるのか、本当に倒せるのか?疑問が不安に変わり、不安が焦燥になる。結果、明乃はいつも通りの能力を発揮できず、場面は拮抗していた。
「どうしたのですか? 早く貴方がたも彼らを追いかけなくては。うちの彰が、彼らに追い付く前に」
「…………」
明乃がナイフを握る手に力を込めた。東雲は変わらず冷静にこの場を観察している。東雲が冷静でいられるのは、この状況が"ある程度予想の範囲内だった"からだ。
常盤の実力は初めて見るが、件の短剣の一件でかなりの実力があるのだろうと見ていた。だからそれに明乃が届かなくてもおかしくはない、更に、明乃がそれに膝を折りそうになる事"まで"は読んでいた。そう、この先だ。この先、常盤がどうでるのか。行動を起こす前に自分が行動を起こすべきなのか、それとも奴が行動を起こすのを待つべきなのか。
東雲は明乃を見た。恐怖とも苛立ちとも付かない瞳には覚えがある。そう、まるであの日の自分だ。なす術をなくした時の。初めてぶつかった壁に痛みを感じた時の。あの館で銃口を向けられた時の自分と―――同じなのだ。
それは歯痒さ。恐怖より、痛みより、苛立ちより、悲しみより。何より自分の刃が相手に届かないと知った時の歯痒さが、苦しさが。たったそれだけが、自分の首を絞めて、辛いんだろう。
東雲は決めた。あの日の自分を見て、ここで何をすべきなのか。答えなんてもう一つしかなかった。
「嗚呼、もう少しやり手かと思っていましたが、案外こんなものですか。それについては少し残念です」
常盤が煽るように言い放つ。明乃の眉がぴくりと動いた。
「所詮、生温いやり方で生温い現場を渡ってきたに過ぎない、貴方たちでは私に勝てませんよ。それくらいもうわかったでしょう」
「うるさいな!そんなことない!!」
明乃が遂に爆発した。不安が、焦燥が、溢れ出して止まらない。だがそれでも東雲は変わらなかった。あの日を思い出す。嗚呼、そうだ、あの日、あの酷い雨の日はーーー
「今じゃないだけだ」
飛び出そうとしていた明乃が立ち止まる。そこにいる東雲 宵一は、間違ってもあの日の東雲 宵一ではない。
「こんなもんじゃねえ、明乃も、俺も。ただ、今じゃないだけだ」
「成る程、ですが今切り抜けなければいけないというのに、どうするつもりですか?」
「おい、白髪野郎」
あの日、無力さに唇を噛んだ子どもも、それを気まぐれに助けた怪盗もここにはいない。
「お前はいつかぜっっっっったいぶん殴る!!!!覚えとけよ!!!!」
言い終わると同時に、東雲は手に持っていたスイッチを押した。ぽにゅ、と間抜けな音がした押されたスイッチに常盤はおや、と目を見開く。
爆発。爆風。熱が常盤を取り囲んだ。元々老朽化が進んでいた館はいとも簡単に崩れ、そこら中に穴が開く。東雲は明乃の手を取った。同時に囚われの歌姫を引き寄せ、無理矢理立ち上がらせる。瓦礫に阻まれ、それでも進もうともがく。呆然としていた明乃は、握り締められた手の熱に目を覚ました。気付けば東雲と歌姫は明乃の腕の中にすっぽりと収まっており、半分引きずられる形で無理矢理外への脱出を達成した。埃まみれになった服をはらう暇もなく崩れた館を見る。
まだ、脳裏にあの不気味な笑みが焼き付いて離れない。歌姫は呆然と地面を眺めては、未だ震える脚を放り出していた。
「クソ、改良の余地があるな…派手にやり過ぎた」
呑気に そんな愚痴を呟いては、東雲は差し出された明乃の手を取って立ち上がった。


***


彰が四人に追い付くのに、そう時間はかからなかった。この館に出入りするのは初めてではない為、先回りすら簡単だった。目の前に立ちはだかる彰に、四人は焦りを顔に出し、一度立ち止まる。彰はといえば、そんな顔を見渡して溜息をひとつ、この場に吐き捨てた。どうして世の中は、こうも上手くいかないのだろうか。
「はい、私の勝ち。大人しくさ、あいつの言う事聞いてればよかったのに。約束は守る方だから、本当に他の人は見逃してくれたと思うよ?」
その責めるような言葉に壱川が怯む。一対四。全体で見ても二対六。文句無しに有利なのはこちらのはずだ。だが何故だかそんな気がしない。初めから、この少女と燕尾服の男が放つ異様さに全員が呑まれていたような気がする。
「……まだ遅くないよ。小さな探偵さん。貴女とそこの刑事さんだけでも大人しく捕まっときなよ。そしたらこんなつまんない鬼ごっこ、すぐに終わるんだからさ」
ね?と、彰が半ば呆れながら言った。常盤のようににこやかに笑うわけでもなく、ただ心底気怠そうにそこに立っている。髪をなびかせて、丸い瞳で四人を釘付けにした。
こんな馬鹿らしい遊びに付き合う為に怪盗になったわけではない。彰は思う。じゃあ何のために?問いかけても答えは返ってこない。薄々気付いているのだ。ここに自分の求めるようなものなんてのは、最初からなかったんだと。だから退屈なのだ。毎日、毎日、毎日が退屈だ。張り合えるほどかと思った相手もこの程度では、欠伸が出る前に脳が止まってしまう。
「……彰ちゃん」
木野宮が一歩前に出る。止めようとした宮山の手をするりと抜けて、木野宮は彰の前に立ち塞がった。視線がぶつかる。まるで自分とは違う瞳に、彰は小さな苛立ちすら覚えた。
「わたしは必ず此処を出るよ。そしたら、また彰ちゃんに会いに来る。呼ばれなくても行くよ」
「……なにそれ、なに考えてるの?」
呆れたように笑いながら、彰は言った。木野宮の目は真剣そのものだ。
「わたしは、お父さんの子どもだけど、お父さんの子どもとしてじゃなくて、わたしとして彰ちゃんに会いに行くよ」
ずっとそうなりたくて、ここに来たから。
その言葉に一番の驚きを見せていたのは、宮山だっただろう。先程から、知らないことやわからないことばかりで頭がパンクしそうになっている。
なにも考えていなかった。なにも考えていないと思っていた。木野宮探偵の娘として扱われ続けてきた木野宮きのみの感情なんて、彼女にそこまでの意志があったなんて、誰が予想できただろうか。
思えば自分もそうなのだ。木野宮探偵の娘として、木野宮きのみと接してきた。それを彼女は、どう思っていたのだろうか。探偵になりたいと、そう言った彼女の心中に、一体どんな想いがあったのだろうか。
「そしたら次はね、負けないよ!チツジョとかセイサイとかよくわかんないけど、でも」
彼女の強い意志は、ずっとずっと、彼女の心の中にあったのだろうか。
「絶対勝ちたいから、負けないよ」
彰が目を見開いた。なにそれ、と小さく呟いた声は、すんなり消えてしまった。
ここで全員捕まえてしまえばいい。今すぐこの細い腕を引いて人質にとってしまえば、後ろの三人もなにもできないだろう。そうすれば、こんなつまらないお遊びはすぐにおしまいだ。
わかっている。わかる。何者にもなれず、何者かになりたい気持ちが。私にもある。なりたい自分に届かない歯痒さが。何をしたいのかもわからず、あちこちを彷徨い歩いてきたから。だから、木野宮が腹立たしいのだ。この少女は、なりたいものを、なるべき道を、間違えずに、自信を持って進んでいるから。
だから面白いのだ。自分と対極の位置にいる、この小さな探偵が。この少女が行くべき場所まで辿り着けた時、きっとそれは自分の希望にも絶望にもなり得るだろう。だから彰は言った。わかった、と。彼女の意志を汲み取ることが、ここであの男に刃向かうことが、それこそが退屈からの脱却になり得ると信じて。
「行っていいよ。勝手にして。……でも約束は守って。次は誰にも邪魔させない。誰の指図でもない、私のところに来て、私と勝負して」
そこできっと、何者かになれると願って。
「絶対、負けないからね」
木野宮は呑気に笑って元気に返事した。宮山の手を掴み、困惑した残りの二人も急いで彰の隣を過ぎ去る。取り残された彰は、今にも崩れそうな天井を見上げた。パラパラと破片が落ちて来ている。きっと下で大暴れしているせいだろう。もしかしたらこの館も、もう使い物にならなくなるかもしれない。
「ま、別にいいけど」
呟いて彰はマントを翻し、姿をくらました。小さな探偵との約束が果たされる日を信じて、不器用にも胸を躍らせる。



***


「やばい!やばいやばいやばい!!!」
「こんなの聞いてない!!こんなの聞いてないんだけど!!!」
大人になってから全力で疾走するのは何回目だろうか。今にももつれそうな脚を全力で動かして、水守は崩れ落ちる館からなんとか抜け出した。彰との悶着があって、すぐのことである。なんだか不穏な音が聞こえるなあ、なんて間抜けな声に返事するよりも早く、急に館が崩れ落ち始めたのだ。とにかく走るしかなかった。四人は全力で走り、転んだ木野宮を引きずりながら走っていた宮山が転んだところを水守と壱川が掴み、引きずりながら走る様はまるでゾンビ映画か何かのようだった。
館から少し離れたところで膝から崩れ落ちる。呼吸に忙しいと言わんばかりに壱川の手を払って、水守は壱川を睨み付けた。
「お、生きてたかお前ら」
「きのみちゃーーん!!」
後ろから聞こえた声に振り向くと、そこにはボロボロになった東雲と明乃がいた。木野宮は喜んで明乃に飛びつきに行く。東雲は同じくボロボロになっている三人を見て馬鹿にするように笑った。
「まだ出てなかったとはな。あとちょっと早くスイッチ押してりゃ全員今頃瓦礫の下だったな」
「やっぱりお前か!!」
水守が東雲に噛み付きに行く。止める体力もないまま、壱川と宮山は地面に座り込んだままだ。
「……そっちはどうだったの」
「まあこんなに派手に崩れるとは思ってなかったが、あんなにしぶとい奴、生きてるに違いないだろうな。お前らの方はどうだったんだよ」
「まあ似たようなもんさ。取り敢えず全員無事だったことを喜ぼうか。……例の女優は?」
「あっちでのびてる。外傷も殆ど……まあ無理矢理連れ出しからかすり傷程度って感じだな。生きてはいるから安心しろ」
そうか、と壱川がようやく肩の力を抜いた。宮山は起きたことの整理を付けているのかなにかブツブツと呟いている。
「悪かったな」
壱川の声に、東雲は何も言わなかった。だが壱川は続ける。
「察してる通り、君と出会ったあの一件……チェス人形の事件もそうだ。俺が盗みに入って、木野宮さんが後から来る予定だった。まさかあの老人があそこまで酷いと知っていたら、行かなかったけどね」
自虐的に笑いながらも、壱川は口を開く。
「罪は罪だ。今更謝って、許されるとも思ってない。でもあの時、君が殺されかけたのを止めるのは木野宮さんに反することだったが、それでも動かずにはいられなかった。それで俺は」
「うるせえな、知らねーよ」
東雲のそれは、攻撃的なものではなかった。わざとらしく、つまらなさそうに。東雲はどうでもいいと呟いて、立ち上がる。
「少なくとも、そんな事とは関係なく俺はアンタに憧れてたよ。でもそれもやめだ。今のアンタは憧れるような存在でもなけりゃ、俺が責め立てるような相手でもない。だから関係ねーし、なんも言わねえし、言わなくていい」
東雲は言ってすぐに明乃を呼んだ。少し遠慮がちに駆けてきた明乃を見て、溜息を吐く。
「まあ、ここで終わりの縁でもなさそうだしな。でも次謝ってみろ、腹立つからぶっ飛ばす」
そして足早に、二人はその場を去った。明乃は相変わらず遠慮がちに東雲の後ろをついて行く。
「宵一さん……私……」
東雲もわかっていた。負けたわけではない。しかし実力が足りなかったが為に相手を逃した。捕まえることも倒すこともかなわなかった。悔しいのも、歯痒いのもわかっている。
「明乃」
「…………はい」
だからこそだ。今は生きている。立って、歩いている。まだ次がある。
「言っただろ、今じゃないだけだ」
「……うん……!」
「帰ったら飯食ってソッコー寝るぞ」
だから、明乃には元気になってもらわないと困るのだ。いつだって元気で、いつだって東雲を振り回す明乃でないと、困るから。
「うん!あのね、来る前にハンバーグ作ったから食べようね!」
そんな言葉に、東雲は珍しく嫌味もなく笑って帰路に着いた。


***


家の近くまで送り届けてもらって、先程までのことが嘘のようになる。本当に現実だったのか、夢でも見ていたんじゃないかと。
宮山は呆然としながら、おなかすいたーと騒ぐ木野宮を見る。視線に気付いて木野宮は、晩御飯は何にする?と楽しそうに問いかけた。
兎にも角にも風呂に入って着替えなければ話は始まらない。こんな汚い格好では店の迷惑になってしまう。思って宮山はすぐに風呂を沸かしたが、風呂が沸くまでの時間をどう過ごせばいいのかわからず、結局呆然とソファに座ったまま一度も動かなかった。
木野宮はいつも通りだ。やはり先程までの話は嘘だったんじゃないかと思う。雑誌を広げて次はここに行きたい!と笑う木野宮に、未だ何も聞けない宮山は己を恥じた。しかし次第に木野宮が静かになる。彼女はじっとこちらを見て、様子を心配しているようだった。
「あのねみやまくん」
彼女の声が、やたら遠い。そんな気がした。
「だまってて、ごめんね。いっぱい、いろんなこと。わたしね、お父さんに負けないくらい有名になって、お父さんに負けないくらいすごい探偵になりたいんだ」
なんかはずかしいなあー!と、木野宮が照れた笑みを見せる。
すごい探偵になりたい。なんて。出会った時と言ってることは変わらない。変わらないのに、変わらないから、宮山はようやく現実を受け止めることができた。きっと先程までの出来事に、嘘なんてこれっぽっちもないのだろう。きっと、木野宮の言葉にも。
「木野宮……」
だから現実に戻ってきた。そうだ、自分は雇われた身だが、それでも彼女をそうする為にここにいるのだ。そうしてやりたいと、確かに今までも思っていた。それがより一層、強い意志となってここに現れる。
やってやろうじゃないか。木野宮の名ではなく、木野宮きのみの名を世界に轟かせてやろう。そんな決意が、彼の心の中に確かに芽生えた。
「うん、なろう。すごい探偵に。頑張ろう」
それだけだ。だが木野宮は心底嬉しそうな顔をして、小躍りしてみせた。
きっと明日から、退屈な日常がしばし続くだろう。それでもこの気持ちだけは、ずっとここにあり続ける。思って宮山は、ようやくいつも通り読みかけの本に手をつけた。



***


すれ違いすぎた。あまりにも。
いや……ていうか恥ずかしい!恥ずかしいな!!その場のノリと勢いで恥ずかしいこと言って恥ずかしいことしたな!!あーやだやだ私もう大人なのに吊り橋効果なんてものに騙されないから!!
「綾ちゃん、声に出てる」
「うへえ!?」
はは、と笑う男の隣で、不愉快極まりないドライブを楽しめずにいる水守は、驚きのあまり奇声を上げて飛び跳ねた。
能天気に笑う男、壱川はいつも通りの安全運転で水守の住むマンションへと向かっている。宮山と木野宮を降ろしてからというもの、車内の空気は一層気まずいものだった。聞きたいことや言いたいことがあるのに、どれも声には出せない。そんな、もどかしいばかりの空間。
「……綾ちゃんはさあ」
「……なによ」
「俺のこと案外好きだよね」
「はあーーー!?」
不愉快を全力で表す声。あまりに大きなその声に、壱川は思わず肩を揺らした。
「今ここでそれ言う!? もっと大事な話いっぱいあるくない!? まずは謝るところからじゃない!? ていうか一連の流れ全部全部全部全部アンタがアタシのこと避けてたから始まったと思うんですけどそれについてはどうお考えですか!?」
「悪かった、悪かったよ、悪かったから胸倉掴まないで、危ないってば」
「大体アタシは全然許してないし!全然納得してないし!知らなかったことだらけで腑に落ちないし!だってあのちっこい探偵とだって聞いた時何にもないって言ってたし!」
口にすると止まらなかった。今まで募りに募っていたこれは怒りではなく―――不安、そう、不安だ。
「急に連絡しないし急に冷たいし急に突き放されたし!いつもなんにも言わないしいつも勝手にどっか行くし!」
嗚呼、泣きそう。思って首を思い切り横に振った。この男の前でなんて、誰が泣いてやるものか。
「全ッ然許してないから!!」
睨み付けた目に、涙が浮かんでたかもしれない。一連の事件は、あまりにも唐突で、水守のキャパを遥かに超えていた。
マンションの駐車場に到着しているにも関わらず、水守はシートベルトすら外さない。壱川はハンドルに顎を乗せて、降り始めた雨が窓を濡らしていくのを見守る。
「……許してくれなくていいよ、全然」
水守は雨女だ。一緒に外にいると、よく雨が降る。出会った日も、今日も、大切な日にはいつも雨を降らした。
「許してくれなくていいけど、まだ綾ちゃんの力が必要なんだ。構わない?」
気に食わない、と言わんばかりに水守は壱川を睨み付けた。しかしそれ以上返す言葉も見当たらず、急いでシートベルトを外す。車のドアに手をかけ、もういいと言いたげに口をつぐんだ。
瞬間、空いた手を壱川が掴んで車に引き戻す。ふざけるなと怒鳴る気力もなかった。
「今外に出たら、濡れちゃうよ」
すれ違いすぎた、あまりにも。
だけどきっとこれからも一緒にいるしかないんだろう。まだお互いに、足りないものが多すぎる。
「飲みに行こう。今日は奢るよ」
それでチャラにしなければ、やっていけないような世界だから。


***


その男の世界は完成していた。この世に生を受けてから、既に完成しきっていた。男にできることは、その均衡を守ることだけだ。だからそれを使命のように、或いは義務のように遂行していく。満足感も充実感もない。それは男をこの世に留めるただひとつのライフワークだ。
だからどうとも思わない。愛おしい半身が命令を裏切ったとて、悲しいとも辛いとも思わない。勿論怒りもなければ、絶望もない。なんせそれは、常盤 社のライフワークのひとつなのだから。
「嗚呼、早く洗わなければ」
汚れた燕尾服を手で払いながら、常盤は相変わらず笑っていた。やはりある程度が予想通りで、ある程度どうにかできそうなことばかり。それを少女はつまらないと言ったが、常盤にはそんな毎日すら愛おしく、しかしどうでもいいことのひとつでしかない。
完成された世界の秩序を守ること。それこそが常盤 社が常盤 社たるたったひとつの事柄。だから別に構わないのだ。これから先、あの怪盗たちが、あの探偵たちが、どんな事を仕掛けてこようとも。これから先、この手で今日まで仲間であった少女に制裁を加えることになろうともーーー
「別に構わないですよ。する事は変わりませんから」
嗚呼、そう、何も。何も今までと変わらない。明日からまた、日常が幕を開け始める。








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