猫猫事件帖

オペラ座の歌姫失踪事件 四

仰々しい雰囲気に押し負けそうになったのは、何も宮山 紅葉だけではない。その場にいた全員が一度口を閉じて、目の前にそびえ立つ建物を凝視していた。
都内某所、元いた場所から車で数十分は走っただろうか。車内の重々しい空気など気にもとめず鼻歌を歌っていた木野宮 きのみの横で、宮山は胃袋を痛めていた。重々しい空気を作っていたのは、他でもない、残りの二人だ。水守綾と、その相棒壱川遵。彼女たちの間で、車に乗る前どんな会話が繰り広げられていたのか宮山は知る由もないが。それでも何か良くない空気で言い争っていたことだけは知っている。お陰様で、車内の空気は最悪だった。故に、車が止まった時の安心感は凄かった。嗚呼、漸く外の空気を吸える。意気揚々と扉を開けて、今に至る。
悲しいかな。外の空気さえ、重々しい。宮山は落胆を隠しきれず、肩を落とした。隣に立つ木野宮はぽかんと口を開け、残る二人は深刻そうな顔をしている。
さあ、何処から語ろうか。いや、今からが真に語るべき事なのか。
正に今、此処から始まろうとしているのだ。今までのことなど、すべて前座に過ぎないのだろう。これまで築いたものなど、どうしようもなくくだらない事だったのだろう。怪盗と探偵。ふたつの生き物が対立する物語の、今まで何を語ってこれただろう。
否、何も。
これから漸く始まるのは、遂に待ち望んでいた対決である。一筋縄では行かず、決して楽しくもない。此処にあるのはただ、混沌と、互いの正義のみ。
宮山 紅葉は、それでも己の高鳴る鼓動を隠せずにいた。





猫猫事件帖
オペラ座の歌姫消失事件 四





「……行きましょうか」
屋敷。と、言われて皆はどんな建物を想像するだろうか。少なくとも宮山が思う屋敷は、今正に目の前に建っている家の事である。
宮山も一応、木野宮家が所持している屋敷に住んでいるのだが、それとはまた雰囲気が全然違う。元は華やかであっただろうその建物は、寂しくも荒れ果て、木の根に覆われ、廃墟と呼ぶに相応しいものになっていた。
いや、実際廃墟なのかもしれない。
木野宮がスキップする幅に合わせて歩けば、どんどんとその屋敷の全貌が明らかになってくる。見れば見るほど仰々しく、不気味だ。
この屋敷に来たのは、何も遊びに来たわけではない。紛れもなく、怪盗と邂逅を果たす為であった。
もう、何日も経ったかのように思える。とある人物が木野宮探偵事務所に依頼に来た。先日、木野宮とその友人の怪盗が命を助けた女優が行方不明だから、捜して欲しい、と。
同じくその一件の依頼をされていた同業者、水守と二人は行動を共にしていた。怪しいとご近所さんに噂されていた女優のストーカーの家を突き止め、一行はその家を調べる事にした。途中、刑事である壱川が参入し、なんとかストーカーの確保に至った。
しかしこのストーカー、単なるストーカーではなかった。「とある人物」が、我々を呼んでいると言うのである。勿論、我々には木野宮と宮山も含まれていた。一体どうして?宮山は首を傾げざるを得ない。「とある人物」が誰なのか、大体の見当はついている。件の怪盗団だ。そしてその怪盗団に壱川と水守が狙われているのは理解できる。壱川は、刑事でありながら怪盗とも縁があるらしい。聞けば怪盗団なる連中の目的は、怪盗の秩序を守る―――つまりは、怪盗業界における暗黙の了解を守らなかった者や、裏切った者に制裁を加える、というものだった。
だからその二人なら説明が付くのだ。刑事でありながら怪盗に肩を入れる壱川と、その助けをしている水守。詳しいことは知らないが、それらが怪盗団の琴線に触れたとしてもおかしくはない。
だが何故、木野宮と宮山にまで、そんな回りくどい事をして依頼を寄越したと言うのか。少なくとも宮山は、つい最近まで怪盗という生き物との縁が全くなかった。東雲 宵一や明乃という怪盗の知り合いはいるものの、関わりなど殆どない。偶然居合せるレベルでしか会話もした事がない。木野宮はと言えば確かに明乃と仲が良いが、そんなの友達同士で遊びに行くレベルでしかないし、本人たちもそのつもりだろう。そこまで制裁を加えなければならないというのなら、怪盗にとって普通の生活など許されていないも同然だ。
一体、何故なのか。
宮山はふと思い出していた。それはとある日曜日。木野宮がどうしても行きたいとせがんだのをきっかけに、人気のパワースポットとなった教会に出向いた日の事だ。あの日、教会の目玉であるステンドグラスは無残に割られ、怪盗の手によって持ち去られた。あれが宮山と怪盗の、初めての邂逅である。
その時、件の怪盗―――黒堂 彰は木野宮に向かって言った。
『君のお父さんはダメダメだけど……君はもっとダメ!』
木野宮が険しい顔をしていたのを覚えている。しかし、宮山にとって名探偵と名を馳せていた木野宮の父は、女子高生に「ダメダメ」なんて言われるような存在ではなかった。
ずっと、疑問に思っていた。ずっと、引っかかっていたのだ。
どうして怪盗が木野宮の父を、木野宮を気にかける必要がある。目の敵にするのはわかるが、あれにはそれ以外の何かを感じた。そこに何かあるとして、それを木野宮は知っているのか否か。
探るように木野宮を見る。丁度木の枝に引っかかって転びかけているところで、宮山はその腕を掴んでそれを阻止した。
考えても、しょうがない。その答え合わせの為に、今日は此処に来たようなものだ。
木野宮の父と約束をした。危なっかしい娘を守ってくれと言われて、はいと返事をしたのだ。まだ未熟な娘に跡を継がせる為、彼は態々宮山という男を木野宮の側に置かせるように仕向けた。それも仕事のうちだ。
だが、それ以上に宮山にとって、木野宮は家族も同然の存在である。寝食を共にし、共に事件に挑む。娘とも妹とも、友人とも違う。恋人でもない。そう、この少女は自分の相棒なのだ。だから何があっても守らなければいけない。約束を果たすのも、当然の事だが。
考えていると、先頭を歩いていた壱川の足が止まった。しかし木野宮の足は止まらない。おどろおどろしい屋敷の玄関を前にして、木野宮は大声を上げた。
「たのもーーーう!!!!」
返事はない。壱川は慎重に周りを見渡す。水守も同じく、周囲を探っているようだ。宮山は木野宮の近くに寄ろうと、一歩、足を動かす。
「みやまくん、誰もいないみたい」
「そんなわけないよ。なんせ、呼ばれて来たんだから」
「勝手に入ってもいいんじゃないの?」
水守が扉に手をかける。しかし壱川がそれを制止した。
「何があるかわからない。相手の目的もわからないんだ、もう少し慎重に」
言った言葉に、水守は少しムッとしたようだった。あわわ、と口に出しながら木野宮がその真ん中で困っている。宮山はもう一度肩を落として、自分が扉を開けようと心に決めた。
そしてもう一歩、踏み出した瞬間だった。
その瞬間は、壱川がもう一度屋敷の周囲を見ようと少し離れようとした瞬間で。
その瞬間は、水守が態とらしく壱川から遠ざかろうと退いた瞬間で。
その瞬間は、木野宮が宮山に駆け寄って何か喚こうとした瞬間で。
その瞬間は。怪盗―――黒堂 彰が木野宮を連れ去ろうとした瞬間だった。
「―――木野宮!!」
叫ぶより早く、真白なマントが木野宮を包む。何処からともなく降って来た少女は不敵な笑みのままに木野宮を呑み込んだ。自分が何を考えているか訳もわからず、宮山は次の一歩を大きく踏み出した。壱川が懐から何かを出そうとしている。水守が何かを叫ぼうとしている。その全てがスローモーションに見えて、彰の笑みさえマントに消えていくのをゆっくりと見送る。
間に合わない。
ふと冷静な自分がそう判断した。身体はそれとは対極にがむしゃらに動いていた。それでなくとも魔術のように出たり消えたりするような奴らだ。脳味噌で考える以外何もない自分に、それを遮れる筈がない。
唇を噛む。同時に痛みが走った。唇にではない。耳を、何かが掠めた。ほんの少し熱を帯びる。風を切る音が聞こえる。宮山は確かに見た。雲のように、蝶のように、はたまた海のように広がる白いマントに、ナイフが突き刺さるのを。
「木野宮!!」
もう一度叫ぶ。マントはナイフを弾く事なく受け入れ、しかしマントの持ち主はナイフを避ける為に大きく跳躍した。解放された木野宮がぽかんとその場に立っている。無事で良かった。安堵と同時に、今度はナイフが飛んで来た方向に振り返る。
「……だーから警戒しろっつったのによ」
それは呆れたような、嘲笑うような。
木野宮の表情がわかりやすく明るくなっていくと同時に、宮山もその人物が誰なのか理解する。
邪魔をされた彰も又、目を細めてわかりやすく不機嫌を見せた。
「オメェら馬鹿だろ。来てみれば初っ端からこれかよ」
「きのみちゃん大丈夫!? 何もされてない!?」
「明乃ちゃーーーーん!!!」
そこにいたのは、件の怪盗。東雲 宵一。その助手、明乃。臨戦態勢とは思えない気軽な態度で、二人はそこに佇んでいた。
「アンタ達なんで……」
「そりゃお前、例の怪盗団が関係してるかもしれねーって事件に関わってますって態々懇切丁寧にお前が教えてくれたんだろうがよ」
「はあ?だから何――――」
「ここ」
言って東雲が、自分の首元をとんとんと指で叩いた。首を傾げながら、水守は自分の首元を触る。白いシャツの襟の下に、何か硬いものがある。指先がそれをなぞり、摘んだ。
「何これ……ってギャーーー!!虫!!」
「失礼だな!それはドコデモオシエル君十二号だ!!」
「ドコデモオシエル君……って発信機!?何してくれてんのよ訴えるわよ!!」
「テメーの仲間助けてやったのになンだその態度はァ!それがなかったらそいつ連れて行かれてたんだからな!もっと様子見るつもりだったのによお!」
「明乃ちゃーーーーん!!!ありがとう!!こわかったよう!!」
「きのみちゃーーん!!!ほんとによかったよう!!私もこわかったよう!!」
「…………」
「………………」
騒ぐ人たちを残して、呆気にとられる男二人が目を合わせた。宮山はすかさず明乃に抱き着く木野宮を引っぺがし、壱川は争う二人の間に入る。
「センセ、ほんとになんにもされてない?」
「うん!平気だよ」
「そう……」
漸く胸をなで下ろす。宮山は木野宮の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「ほら二人共、無駄な言い争いは帰ってからにしてくれ」
「でも……」
「無事に帰れたらね」
何か文句を言いかけた水守を遮って、冷酷な声が響いた。他の誰でもない、彰の声だ。全員がそちらを向く。彼女は自分の口元をマントで隠しているものの、その目から抑えきれない不機嫌さを放っていた。
「…………これじゃ分が悪いから、中で待っててあげる。つまんないから、早く来てね」
「あ、おい!」
東雲の制止の声も聞かず、彰は溜息と共に消えた。そこいらに落ちている枯れた葉が舞い上がり、それが落ち着くと何もなかったかのように空気が元に戻る。同時に、ガチャリと扉から音が聞こえた。鍵が開いたのだろう。
全員が顔を見合わせる。神妙な顔だ。だが、そこに迷いを持つ者は一人もいなかった。
「……入ろうか」
壱川が、何かを食いしばるような声を上げる。
「……そうね」
水守が、それに呼応するかのように声を上げる。
「明乃、行くぞ」
東雲が、しっかりと前を向いて声を上げる。
「うん、宵一さん」
明乃が、己の正義を灯して声を上げる。
「みやまくん、行こう」
木野宮が、頷きながら真剣に声を上げる。
「……そうだな」
そして宮山が。
「行こう」
宮山が、声を上げる。
全員が、扉の前に揃った。

さあ、何処から語ろうか。いや、今からが真に語るべき事なのか。
正に今、此処から始まろうとしているのだ。今までのことなど、すべて前座に過ぎないのだろう。これまで築いたものなど、どうしようもなくくだらない事だったのだろう。怪盗と探偵。ふたつの生き物が対立する物語の、今まで何を語ってこれただろう。
否、何も。
これから漸く始まるのは、遂に待ち望んでいた対決である。一筋縄では行かず、決して楽しくもない。此処にあるのはただ、混沌と、互いの正義のみ。

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