猫猫事件帖

オペラ座の歌姫失踪事件 参

さあ、どうしたもんか。
宮山紅葉は腕を組んで考えていた。彼はミステリー小説を好むが、特にミステリー小説というだけで、コンテンツの形には拘らない。サスペンス映画も好きだし、時折漫画も嗜む。今の状況的には、どちらかと言えばミステリー小説よりもサスペンス映画の方がしっくり来た。
信用ならない男―――壱川遵が現れたのは数分前のことである。いや、もっと前から話そうか。とある失踪人を追っていた我々探偵と、同業者である水守綾は、失踪人がストーカー被害に遭っていたことに辿り着いた。ストーカーの家を突き止めるまでに時間はかからなかったが、そこから先水守は一人で家の中を見て回ると言ったのだ。勿論不安はあったが、都合もよかった。なんせうちの我儘娘は、絶対的にみやまくんと一緒がいい!と暴れ回るからだ。それがジェットコースターでも、映画館でも、はたまた学校の席替えだったとしても騒ぐだろう。我儘娘―――木野宮きのみにとって大切なのは何を行うかではなく、誰と一緒にいるか、それだけだ。
兎に角、水守を送り出して数分が経過した頃だった。予想していたよりも遅い。宮山は家に入るべきか、見張っておくべきか迷っていた。木野宮を此処で一人見張らせておくのも、ましてや中に入らせるのも危険だ。というか、どんなに此処にいろよと言ったところで近くに蝶々でも飛ぼうもんなら迷わずそちらに向かっていって、結局迷子になるだろう。だから迷っていた。どうしようか。その一言が無意識に声に出ていたらしい、男は「何が?」と背後から話しかけて来た。
「……壱川さん」
「やあ、こんにちは。また会うとは奇遇だな。一体ここで何を?」
「ご想像にお任せします、と言いたいところなんですけどね」
宮山はこれまでのことを話した。伺うまでもなく険しい顔をしていたのは一生忘れられないだろう。なんなら、今夜は悪夢を見るかもしれない。いつもにこやかな人というのは、怒ると怖いのだ。
壱川は話を聞いて、家の中に飛び込んでいった。それも正面の入り口から。いやいや、刑事の特権にしたってもう少し慎重に行かないと……なんて茶化す暇もなく、時間だけが過ぎていく。
「ちょうちょ!」
声が響くと同時に小さな探偵の襟を掴む。予想通り、木野宮は今にも走り出す体制をとっていたのか首が詰まったらしく、ぐえ、と蛙のような声を上げた。
これがアメリカのサスペンス映画なら、今頃あの家の中でラブロマンスが繰り広げられる直前くらいなもんだろう。しかしまあ、そんなことになってくれるならそっちの方が全然いい。なんだか今は、嫌な予感がしているから。





猫猫事件帖
オペラ座の歌姫失踪事件 参






場が、緊張に支配されていた。
肌がピリピリ痛むのは、鋭い空気感に裂かれているからだろうか。水守は未だ壱川に抱き上げられたままだが、遂に文句を言うこともできなくなった。ここまで直接的な殺気を感じたのは初めてだ。まあ、普通の人なら感じる事の方が珍しいだろう。
それは異様だった。「この男は殺すつもりだ」と、何故か確信が持てる。そんな空気だった。
壱川の手が肌に食い込んで痛い。何かに耐えているような、そんな手が。嗚呼、腹が立つ。なのに声が出ない。なんて情けない。水守はありとあらゆる罵詈雑言を自分に浴びせた後、もう一度壱川を睨み上げた。
それに気付いたのか、壱川がそっと水守を床に降ろす。相変わらず空気が鋭いままだが、水守は敢えて壱川の隣に立った。足がまだ痛む。しかし此処でこの男の背に隠れることだけはしたくなかった。少なくとも水守が望む壱川との関係は、そういうことだからだ。
「綾」
壱川もそれを知っていた。水守綾という人間の在り方と、そして何よりも壱川に向けられる真摯過ぎる姿勢を。それが嬉しかった。変に遠ざけもせず、近すぎもしない。対等な関係性というのを築くことがどれだけ難しいことかよく知っている。それでも水守は常にそれを守った。そんな彼女だからこそ、相棒としてやってこれたのだろう。
しかしそれは甘えでもあった。
対等にいたいと思うのは、何も水守だけではない。彼女の真摯な姿勢に応えたかった。彼女と対等でいることで、そこに己の居場所すら見出していた。これから先何があってもそうありたいと思っていた。いつだって境界線を引くのは自分であることを知っていた。だからこそ水守の気持ちに応えたいと感じた時、己に対する強い不信感と、彼女に対する安堵が芽生えたのだろう。
これではいけない、と。甘えていたのだと自覚したのが遅過ぎた。此処まで来ては、もう彼女は引かないだろう。だが対等な関係ではいけない。最早彼女を巻き込んでいいところをとうに超えていた。だから壱川は、敢えて言った。いつもなら、辛いなら下がっていいんだよ、なんて茶化す言葉で彼女を怒らせていただろうに。
「下がってくれ」
命令のようにも聞こえた。邪魔だと言わんばかりの声色だった。その時水守がどんな顔をしているかなんて、もう見たくもない。自分に失望した。初めからわかっていたことだ。協力者が必要だったとはいえ、其処は一線を引くべきところだったと。
わかっていて甘えたのだ。なんて情けない。まるで己が許せない。
水守は怒るわけでも、文句を言うわけでもなく一歩引いた。すまない、と心の中で呟くだけでは、きっと贖罪にはならないだろう。それでもそう思わざるを得なかった。
「……元よりこれが罠なら、態々それに乗っかってやろうってのに戦う必要もないと思わないか? それともそうして負けないと筋書き通りじゃないからお前が困るのか」
「…………」
言われて男はすんなりと戦闘態勢を解いた。水守は自分の荒い息を悟られないよう呼吸を止めた。壱川は鋭い眼光で男を睨んでいる。
「俺が罠にかからないと思って態とこの子を呼んだのか? なら、かなり性格が悪いな」
「…………とある方がお前達を呼んでいる」
男がようやく言葉を発した。やはり、東雲 宵一の言う通り罠だったらしい。それならそれでいいと思ってはいたが、すんなり男がそれを認めたことに驚いた。いや、壱川の怒気に包まれたこと空気に押し負けたのかもしれない。自分が負けるビジョンを描いてしまっては、仕方のないことだろう。
「場所を言おう。もう、戦うのはやめておく。お前には勝てる気がしない。無駄な戦闘は馬鹿がする事だ」
「ああ、そうだな」
壱川もようやく肩の力を抜いた。こんな呆気なく解決するなんて、先程まで死の淵に追いやられていたことが馬鹿らしくてならない。そう思って水守も肩の力を抜いた瞬間だ。
「俺は馬鹿だ」
そう宣言した。同時に拳と肌がぶつかり合う嫌な音が響く。更に同時に男が床に崩れ落ち、意識を失った。
「ちょっ!!はッ!? 今穏便に済む流れだったじゃない!!いやスッキリしたけど!!スッキリしたけどさ!!」
「足をぶつけたのか?すぐに冷やそう」
「いや聞け!!人の話を!!」
「なんだ、怪我までさせられてるんだ。殴るくらいいいだろ」
「アンタそんなキャラだったっけ!暴力嫌いみたいな感じじゃなかったっけ!!」
「いいから」
険しい顔のままだった。水守の知っている壱川は、こんな風に感情的に人を殴ったりはしない。余程腹が立っていたのだろう。一体何に、なんてそんなのは前話でしっかりと口に出してくれていたのが、気になる人は猫猫事件帖 オペラ座の歌姫失踪事件弐を読み返そう。
「…………あのさあ」
黙々と水守の足を手当てする壱川に声をかける。大した反応はない。いつもなら胡散臭い笑顔で返事の一つくらいする癖に。
「その……ごめんね」
「……」
「アタシが……馬鹿だったと思う。一人で来るべきじゃなかったし、アンタに助けを求めるのも…手だったと思う」
「…………」
無言が続いた。耐えられなかった。一体壱川が今何を考えているのか、わかりかねる。それが異様なまでに恐かった。
しかしそれだけでは収まらない。水守は恐いなんて感情で縮こまり震え上がる質じゃないのだ。段々と怒りが湧いて来る。遂にそれが頭のてっぺんまで達して、ぷつりと何かがキレる音がした。
「怒ってるにしてもなんとか言いなさいよ!!」
パァン!
渾身のビンタ。いい音が鳴った。赤くなった頬。家中に罵倒がこだまする。
しかしその先、水守がそれ以上の文句を言うことはなかった。壱川はビンタの勢いのまま、顔を背けて何も言わない。怒りも、悲しみも、何もぶつけてこなかった。
一方的だ。水守は気付いた。いつだって感情は、水守から壱川への一方通行だった。それでも少しは好かれていたつもりだ。だけどそれ以外の感情を、この男がぶつけてくれたことなど一度もないのだ。
「……綾ちゃん」
壱川が、一度だけ水守の手を握った。それはまるで、駄々をこねる子供に言い聞かせる大人のようだった。
その手をすぐに解いて、壱川は立ち上がった。
「探偵ごっこはここまでだ。もう文句も聞かない、ここに居てくれ」
無慈悲で理不尽で、そして何より水守の為である言葉。わかっていて、唇が震えた。わかっている。自分は誰よりも部外者だ。だからこそ選ばれたんだろう。だけどそれでも、はい、そうですか、さようならとはいかない。
水守は震える手で拳を作って、精一杯の声を張り上げた。
「はあ!? ふざけんな!こんなところで待ってられるわけないじゃん!」
「言っただろう、文句は聞かない。君は此処に」
「言うわよ!文句も愚痴も!そんな意味のわかんない命令聞けるわけない!!」
声が震えた。
「綾」
「ほんと散々だった!走らされて痛い目あってネットで叩かれて!説明もなしにわけわかんないことに巻き込まれて、それでも此処まで来たのは……ここまで、来たのは!」
「……綾ちゃん」
嗚呼、これでは駄々をこねる子供と何が違うっていうんだろう。一線を引いていたから上手くいっていた。それ以上は超えないと、自分で決めていた。それが心地よかったんじゃなかったか。
「……絶対聞いてやらない、文句だって言い続けてやる!アタシはアンタの相棒なの!仕事なの!いっつも勝手に自己完結して、馬鹿じゃないの!?情けない顔すんな!弱気になるな!!そんな風になるくらいなら頼れっつってんのわかんない!?」
最早それでは説明が付かないところまで、来てしまったんだろうか。
水守はもう一度引っ叩いてやろうと手を振り上げた。しかしその手は行き場を失って、静かに項垂れるだけに終わる。
また無言が、部屋の中を支配した。

「たのもーーーーーーう!!!!」
バタン!
勢いよく扉を開く。勿論入って来たのは、東京一空気の読めない探偵だ。遅過ぎるのが心配になって、見に来たんだろう。
後ろから顔を出した宮山は、部屋の空気を吸い込んで何があったのか察したらしい。申し訳なさそうに、半ば呆れ気味に、彼は言った。
「えーと……なんかすいません」
壱川は倒れている男を一瞥する。まだ当分は起きないだろうと思い、そのまま木野宮と宮山を横切って部屋から出た。空気があまりに薄い。早くこの部屋から出たいと、そう思っていた。
「いや……助かったよ」
宮山の肩を叩いてそう告げる。水守は呆然と床を見つめ、転がる男に木野宮が駆け寄る。
嫌な予感の方向性が違う。
そう思って、宮山は一人唸りだした。




◯◯◯




男が目覚めた頃には夕方になっていた。壱川がそれを柱へ縛り付け、男に質問を繰り返しているのを遠目に見る。反対方向に目を向けると、遊んでいる木野宮とそれを見守る宮山が見えた。
「終わったよ」
その声の方向を見る。少し気怠げに眉を下げて、壱川は家から出て来た。
「失踪者は死んではいないらしい。……けど時間の問題だろうな。指定された場所はここからかなり離れてる」
「かなり怯えられてたみたいだけど」
「まあ、人生で初めて渾身の力で人を殴ったからな」
「……そんなに怒らなくたって良かったんじゃないの。別にアタシだって上手い事やってたわよ」
そっぽを向いてやる。壱川に対する当てつけだ。強がりに気付きながら、壱川は溜息を吐いた。
「俺は君に対しても怒ってるんだけど」
「はあ!? 意味わかんないし、怒ってるのはアタシの方だし!大体、連絡寄越さなくなったのもアンタの方じゃない!」
「単に忙しかったんだ。……普段から俺言ってたよな?無茶はするなって。こんなの論外だ。最悪の場合怪我じゃ済まなかった」
「そんなの今更!私はいつだって覚悟ができてるのに、勝手にアンタが保護者気取りで言ってるだけ!」
意味のない言い訳と怒り。水守は身体に残った全身全霊の強がりを使った。しかし壱川は、それに呼応する事なく口を開く。
「俺はできてない」
弱気な声だった。責めるような、苦しむような。
「何……」
「君に覚悟ができていても、俺にはできてない。……頼むよ、本当に。もうこれ以上…」
水守が肩を落とす。一体、なんだと言うのか。それならそうと、しっかり突き放してくれればいいじゃないか。なのに嗚呼、この男はなんて酷い顔をする。
「それじゃ……」
目を細めたのは、夕日が眩しいだけ。自分に言い聞かせる。
「それじゃ結局、アタシじゃダメってことじゃない」
綾、と。呟いて壱川の手が此方へ伸びた。一体何処へ向かったというのか。行き先を手に聞く前に、水守はそれを払い除ける。
「それでも行く。絶対に行くから。…その後で、嫌ならもう突き放せばいい。でもこれはアタシが受けた依頼だから、アタシがやる。他に理由も意味もない。アンタに指図される筋合いもない」
言い残して、水守は宮山に詳細を伝えるべく去った。壱川の手が、行き場を探して空気を掻いた。
なんでどうして、こんなにも上手くいかないのだろうか。
遠目に木野宮を見る。なんだか懐かしい気持ちになって、途端に苦しくなった。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -