猫猫事件帖

オペラ座の歌姫失踪事件 弐

ストーカー兼ファンの男の家はすぐに見つかった。と、いうのも普段から挙動がおかしいらしく、この辺の地区では結構有名だったらしい。古びた家の前で、三人は電柱な隠れながら男が家から出るのを見守っていた。
「取り敢えず忍び込んで何かないか捜索……」
「俺が行くよ、二人はここで待ってて」
「え〜!わたしも行きたい〜!」
「ダメ。危ないからここで待ってて」
「みやまくんと一緒じゃなきゃやだ〜!」
「……ダメ。絶対連れてかない」
「アタシが行く」
無謀な言い合いを遮って、水守は名乗り出た。
「何もなかったらすぐ帰ってくるし、何かあってもすぐ帰ってくる。だから待ってて」
「仲間がいる可能性もある」
「そしたら殴る」
腕まくりをして、水守は胸を叩いた。
「絶対絶対やり遂げるって決めたんだから!」
その瞳に、誰かへの熱い闘志を燃やして。




猫猫事件帖
オペラ座の歌姫失踪事件 弐



無用心にもその家は窓に鍵がかかってなかった。軽い身のこなしで侵入を果たした水守は、東雲の言葉を思い出す。
確かに罠かもしれない。ただ、罠だとすれば壱川が此処にいないのはかなりの誤算だろう。今まで怪盗団が関係あると思しき事件には必ず壱川もいた。相手は今も壱川がいると思って警戒しているかもしれない。
だが、壱川は此処にいない。どこにいるのかも知らない。水守が敵地の真ん中にいることも、依頼を受けたことさえ知らないのだ。
そう思うと、こんなに心細いことはなかった。反面苛立ちも強い。いなくても大丈夫だと自分に言い聞かせて、水守は家の中を彷徨った。
別段、普通の家である。少し生活感に欠けているが、それでも端々から普通の生活が感じとられるような家だ。特に変わったものもないし、人の気配もしない。
水守は首を傾げながら最大限の注意を払った。罠がないか、カメラがないか。物陰に人が隠れてはいないか。色々な箇所を慎重に確かめながら進む。
だがやはり、収穫と言える収穫はなさそうだ。ストーカーなんて言うから部屋の壁一面に写真が貼られているくらいしてもいいと思うのだが。
「何にもないじゃない。証拠になりそうなものも…」
机の引き出しを開けてみる。ペンが一本入っているだけで、特に他には何もない。
押入れを開けてみる。来客用であろう布団が入っているだけで、此処にも何もない。
水守はどんどん不気味な気持ちに襲われ始めた。さっき、家から出てきた男は確かに異常者の目付きをしていた。何処を見ているかわからず、時折首を傾げたり、殺気を放ったりするのだ。だが、実際家は普通だ。普通以外の何者でもない。こんな風に彼は普通の生活をしている淵で、ストーカー紛いの行為を繰り返している。そのギャップを気持ち悪く思いながら、水守は早々に退散することを決めた。
あまり長居もしていられない。外で二人が見張ってくれていると言えども、いつ何時危険が襲ってくるかわからない。これが怪盗団の仕組んだことなら尚更だ。教会での事件はかなり手が込んでいた。エンターテイメントの名の下に犯罪を犯す気持ちが水守にはわからないが、それは水守にわからない何かを持っていると確信させるだけでも十分だろう。
予測が付かない。それだけで不安の要素は十分だった。ましてや一人。言いつつそのへんの男一人くらいになら特に負ける気もしないのだが、相手は犯罪者である。
水守は玄関に向かって歩き始めた。スマートフォンを取り出すと、先ほど交換した宮山の連絡先から異常なしとメッセージが届いている。
「これだけドキドキしといて収穫無しか……」
一人で肩を落として呟いた。
それと、殆ど同時だった。空気が淀んだような感覚。匂いだとか、気配だとか色んなものをひっくるめてそういう感覚がした。急いで振り返れば、そこには男が立っていた。家を出たはずの男だ。しまった、と声を出す暇も惜しい。水守はすぐに来たるべき衝撃を交わすべく屈んだが、男は最初から水守の上半身など狙ってはいなかった。ガクン、と足から力が抜ける。男の拳が水守の足に入ったのだとわかると同時に身体は簡単に崩れ落ちた。
多分、キッチンの隣にあった裏口から戻ってきたのだろう。水守は急いで態勢を整える。男の手に小ぶりのナイフがあることを確認して、喉が鳴った。
だが水守の決意も強い。彼女を強くするのは何よりも怒りだ。元気がないと怒れないし、怒らないと元気にならない。そんな人間なのだ。未だ恐怖より怒りが勝っている。勿論怒りの対象は殴りかかってきた男に対してではなく、此処にいない髭面の男に対してだ。
「アンタが女優を誘拐した? もしくは殺した? どうなの、答えなさいよ」
強気な言葉に男は唖然としていた。普通なら大抵の人間は怯えて命乞いでもするシーンだ。だが水守はそうしない。怖くないからではない。勿論ナイフも男も怖い。だがそれ以上に、ずっと上回る怒りが水守を突き動かしている。
「答えろって言ってんの!」
痛む足など気にもならない。水守は強気な姿勢を崩さず噛み付くが、男は男で何も答えなかった。そしてしばしの静寂。男はその間に何かを判断したらしい。ついに彼は動き出した。
ナイフが振られる。間一髪で避ける。本当に間一髪だ。水守には明乃のような超人的な身体能力もなければ、東雲のように歴戦の勘なんてものも備わっていない。だがその一振りで、男が水守を殺すに至らないことはわかった。
急所を狙っていない。多分、目的は殺すことではなく捕まえることだろう。
それだけでかなりの心の余裕ができた。水守も馬鹿ではない。戦うより逃げる。外には仲間がいるのだから。背を向けないようにしながらジリジリと玄関に向かう。男は何かを感じ取ったかのように窓の外を見た。その一瞬を突いて水守は玄関に向かって走る。滑り込むような姿勢でドアノブに手を掛けた。これで勝ちだ。世の中、何も戦うことだけではない。思ったと同時に木の抉れる音がする。男が投げたナイフが、玄関に突き刺さった音だった。ほんの数センチの差で当たらなかったものの、血の気が引く。上手くドアノブが回せないのは、焦ったからか鍵がかかっているからかの判別もつかない。
数秒で男は水守の背後に到着していた。脇腹の下を潜り抜けてやり過ごすが、それでも家の中に戻されただけであって逃げられたわけではない。
男は無表情のままに玄関からナイフを引き抜いた。今度は当てると、目が物語っているように思える。
水守は後悔した。
しかし怒りが消えることもない。負けたくはない。見ず知らずの他人に。髭面の男に。何より自分に。
「……冗談じゃないわよ」
罠だろうが怪盗団だろうがストーカーだろうがなんだって良かった。そんなこと、水守にとっては些細なことだ。怪盗としての秩序だとかルールだとか、そんなことは知らない。どうだっていい。大切なのは水守が探偵であること。罠だったとしても、依頼を受けたことにある。
決意が固まるが、それでも先程打ち付けられた足が痛んだ。上手く力が入らない。数分すれば治るだろうが、その数分間男が待ってくれるとは思えない。
息を殺した。焦りを悟られないように。
願うことも祈ることもしない。信じるのは自分の運だけ。それが水守綾の強気で本気。
「……アタシがどうなろうと外にいる仲間が気付いてくれる。アンタは捕まるし、怪盗団とかいう連中もそのうちやっつけられるわよ」
「……」
「なんでわかるかって? さあなんでだろ。それが王道ってやつだからじゃない!」
気に食わなかったのか、なんなのか。男は急に小さく呻いたと思うとそのまま水守にナイフを向けて突進してきた。避けることも出来ただろう。あまりに率直すぎる真っ直ぐな攻撃だ。
だが水守は避けられなかった。
否、避けさせてもらえなかった。
唐突に軽くなった身体に目をぱちくりと開ける。それは何度か体験したことのある感覚で……そうだ、水守が酒に酔いすぎて立てなくなった時なんかによく感じる感覚だ。あのふわふわとした感覚はそういうことだったのかと腑に落ちる。水守は怒る事すら忘れて、顔を上げた。
「……君の強気なところは好きだけど、少し困ったところだな」
「……ッじゅ……」
身体は浮いていた。というか抱えられていた。いとも軽々とその男は水守を持ち上げ、先程水守がいた場所よりも一歩引いたところにいる。
壱川遵。刑事にして怪盗。そして、水守綾の相棒である。
状況を理解していち早く声を上げたのは、男ではなく水守だった。
「お、降ろせ!降ろせ降ろせ降ろせ!!死んだほうがマシなんだけど!この歳でお姫様抱っこはどう考えてもアウト!!!」
「助けたのに第一声がそれか……」
「頼んでないし!ていうかなんでここ……!」
「いいから静かに、彼はご立腹のようだ」
言われて男を見る。何故だか息を荒くしている男から立つ殺気に背筋が凍り付いた。
「何を怒ってるのか知らないけど、ふざけるなよ」
いいから早く降ろせと言いたげな視線を受けながら、壱川は水守を抱きかかえた手に力が入るのを止められなかった。胡散臭い笑顔だ。いつも通り。だが雰囲気が違う事くらい水守でなくてもわかる。そう、彼は―――
「相棒を危険にさらされて、怒っているのは俺の方だ」

彼は間違いなく、怒っていた。



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