猫猫事件帖

自動チェス人形事件 追憶 弐

絶体絶命。
そんな文字列が東雲の頭の中に浮かんだ。
目の前には大量の警備員。逃げ場はナシ。一体どうやって此処を潜り抜けようかと考えながら、東雲は人形の頭を一層強く抱き締めた。絶対に渡さないぞ、と言わんばかりに。
「またヒョコヒョコと間抜けな怪盗が……」
警備員の真ん中に立つ老人が静かに呟いた。静かに呟いたにもかかわらず、そこから漏れ出す多量の怒りに思わず身震いする。尋常ではない怒りが殺意に成りかわり、東雲の肌を撫でた。
「何度間引いても終わらんな」
間違いない。その老人は、ネットで見た人形の持ち主本人だ。盗めるものなら盗んでみろと豪語していた、あの。
息を飲む。彼から発せられる空気に飲まれそうになる。しかしこういう時だからこそ東雲の心は燻り、興奮し、愉しくなっていく。絶体絶命、上等だ。あえて強気な言葉を選び、東雲は彼に言葉を返した。
「間引くだって? 俺をそんじょそこらの怪盗と一緒にすんな!マジで言ってんならもうちょっと頭冷やした方がいいぞジジイ」
まだ、道の切り開き方は思い付いていない。勿論こういう時のための便利アイテムなんて幾つも持っていた。だがこの量の警備員を前にして、全員無傷のまま此処を抜けるなんて本当にできるだろうか。
怪盗にも掟というものがある。心得のようなものだが、その中の一つにこんなものがあった。
死なないこと、殺さないこと。
たったそれだけ。たったそれだけの、シンプルなルール。それを守る必要性も何も、東雲は上手く説明できない。だが守る。限られたルールの中での活躍こそがエンターテイメントだと思うからだ。
「撃て」
しかしそんなものはいざ知らず、老人は片手を挙げた。東雲がほんの一瞬、回答を迷っている間に。
耳を疑った。警察ならまだしも、こんな警備員共に「撃て」とは。同じように警備員たちも戸惑っていた。老人の隣にいた男が弱い反論を試みるが、彼はそれを聞くつもりもないらしい。
「いいから撃て!所詮犯罪者だ!幾らでお前たちを雇ったと思っている!!」
怒声に、空気が振動した。警備員たちは奮え上がったように一斉にホルダーから銃を引き抜く。
見間違えるはずがない。モデルガンなら改造する為に幾度となく触ったから。あれは本物だ。
自分の目を疑いながらも東雲は今度こそ思った。絶体絶命。幾ら便利なアイテムがあろうと、銃撃を交わすような神がかった真似はできない。いや、それ以上に東雲は焦っていた。初めて生命の危機を感じて、焦燥していた。せめて身を隠すことくらいならできたはずなのに、突きつけられた殺意にいとも簡単に崩れ落ちてしまったのだ。
死なないこと、殺さないこと。
この世界では当たり前のルールだ。その無意味さを今知った。やはりこれは怪盗のルールでしかなく、外部の人間からすればそんなものは到底関係ないのだと。
初めて突き立てられたその恐怖に、東雲は動けなかった。警備員の一人が引き金を引くのが見える。真っ白になった頭をようやく動かそうとしたところで、銃声は鳴り響いた。
「がッ……」
それはいとも簡単に東雲の脚を削った。掠っただけと言えども、熱に似た痛みは大きく脳を揺らす。東雲は焦燥のあまり息を切らし、声を無くした。守ろうとしてきたルールになんの意味もなかったのだと知って、絶望した。盗み、追いかけられ、そんな生温いだけの世界ではなかった。
「何をしている!早く撃て!責任は私がとってやる!」
また老人が叫んだ。今度こそ撃たれると、確かに思った。
そしてまた誰かが引き金を引く。銃声が外に響く。東雲が痛みに倒れかける。遠くなっていく音に無力さを感じる。笑い声になった怒号を聞いて悔しいとすら思う。
自分の浅はかさに。
こんなところで終われるわけがないと思うのに、踏ん張ることさえできないこの足に。
思ったところで、東雲の背はどさりと落ちた。
地面に、ではない。
その不思議な感覚に東雲は強制的に目を開かされ、そして更なる衝撃を覚える。
いつの間にか銃声も怒号も止んでいた。東雲と同じく、皆がそちらを見て呆気に取られていた。
「まあまあ、落ち着いて」
男の声が降ってくる。自分の身体がこの男に支えられたのだと気が付いたにもかかわらず、東雲は男の手から抜けられなかった。
その男は、スポットライトに照らされていた。
それは警備員たちが持っていたライトよりも鮮明で、強烈で―――……すぐにわかった。照らされているのではない、照らしているのだ。この男が、自分を。自分を見ろと、此処にいる全員に訴えかけるために。
すぐにライトがあるであろう方向を見る。しかし眩しさに耐え切れず、何処にライトが隠されているのかもわからない。
「殺人と窃盗じゃ、どっちが重いかなんて幼稚園児でもわかりますよ」
「……どういうつもりだ、貴様」
「どういうつもりも何も、ねえ?どっからどう見たって、お姫様を助けに来た騎士なんだけど」
「誰がお姫様だコラ!!!」
「嗚呼、元気そうで良かった。気に食わないならピ○チ姫を助けに来たマリ○で」
「それ変わんねえだろ!結局姫って言っちまってんだろ!!!」
東雲が吼える。あまりの馬鹿らしさに先程までの焦燥が吹き飛んだ。慌てて男の手から逃げて立ち上がる。老人は面白くなさそうに眉を顰め、警備員たちは皆「仲間か?」と囁きながら目配せをしていた。
「何がしたい」
「俺はただ俺なりに考えて行動しただけ……ってとこかな」
「答えになっとらん」
「まあまあ、帳尻合わせなら木野宮さんの方に」
「おい、お前ら、あの男を撃て!今すぐに!!」
「やだなあ、血の気が多くってもう」
早くしろ!と老人が怒鳴る。同時にまた銃を構えた警備員に反応し、男は東雲を抱えた。
「はっ!? おい!やめろ!自分で立てる!!お姫様抱っこはなしだろ!!聞いてんのかコラ!!」
「暴れるなよ新人君。俺もあんまり気が長い方じゃないんだ」
言って、男は東雲が出てきたダクトへと滑り込んだ。銃声が響き、間一髪で中に入り込めたのだと思うと背筋が凍る。男がピストルのようなものをホルダーから取り出し真上に向けるとそのまま引き金を引いた。引き金の先から出たワイヤーの先端が何処かに突き刺さる音がすると同時に、今度は脇にあるボタンを押す。するするとワイヤーは縮み、東雲と東雲を抱える男を持ち上げた。
ダクトのあった部屋まで一瞬で辿り着く。半ば呆然としている東雲を床に転がして、男は口を開いた。
「傷を見せてくれ」
「あ!? オイ、お前が誰だか知らねーけどな!なんで態々屋敷の中に戻った!逃げ場ねえんだぞ此処!!」
「わかったから、傷を見せろ。言っただろ、気が長い方じゃないんだ」
眉間に皺を寄せながら、東雲が服をたくし上げる。抉られた脇腹の傷が痛々しく血を流し、更に掠っていた脚は小さく痙攣していた。男が何処からか小さな包帯とボトルを取り出し、そつなく手当てをこなしていく。舌打ちしたいのを我慢しながら痛みに耐えることしかできない東雲は、その手付きを見ながらようやく言葉を零した。
「誰だアンタ」
「通りすがりの怪盗」
「なんで助けた」
「君が死にかけてたから」
「理由になってるのかそれ」
「なってないか?十分だと思うけどね」
「あのジジイと知り合いなのか」
「少しだけ」
「……もうすぐあいつらが来るぞ。逃げる算段あんのか」
「どうだろうな」
よし、と男が包帯の端を縛って立ち上がった。すぐそこまで来ている足音を聞きながら、東雲も立ち上がる。
「戻ってきたのは君を治療する為だ。血なんてわかりやすい目印残しながら逃げるわけにもいかないだろ?」
「どっちにしろ此処も逃げ場がねえんだから、さっきと状況変わらねえだろ」
「まあまあ、そう怒るなよ。こっちだ」
男が部屋から飛び出し、廊下へ出る。ちょうど三階へと上がってくる足音が聞こえると同時に、隣の部屋へ逃げ込んだ。男が迷わず部屋の一番隅へ向かい、床を蹴飛ばす。すると壁に大きな穴が現れた。穴…というより、先ほど通ったダクトと殆ど同じものである。元々はダクトの役割を果たしていたのかもしれない。
「からくり屋敷かよ!」
「相当お金かけてるみたいだからな。ま、そのくらい怪盗が憎いんじゃないの?態々こうして誘き寄せるくらいだ」
「あ? 何の話して……」
言葉の途中で、扉が勢いよく開いた。分散したのか、警備員の少数が此方に銃を向けている。
「いたぞ!此処だ!」
「わかってたけど見つかっちまったじゃねえか!」
「まあそうなるよな」
しかし男は極めて冷静に、焦る様子も狼狽える様子も見せず。態と気取るようにして指を鳴らした。ほい、と間抜けな声を付けて。
「何!?」
それと同時に警備員が全員目を瞑る。先ほど男を照らしていたものと同じライトが、屋敷の外から警備員に目掛けて投影されていた。目の眩むような赤色。不気味な月を思わせるような、そんな色が。
それを目にしてすぐに東雲はダクトへ身体を滑り込ませる。男も続いて入ると、ダクトの入り口は勢いよく閉ざされた。
東雲の心が躍る。一体どうやってあのライトを点けたのか。どうやって照準を合わせたのか。ピストルの構造はどうなっているのか。部品には何を使っているのか。男は一体何者なのか。一瞬で場を掻き乱し、己に流れを寄越させたこの男に胸が熱くなる。
そうだ、これだ。こういうのを求めていたんだ。銃も他人も警察も、死も犯罪も恐れぬ高みを。急に自分が矮小な存在であると気付かされる。まだまだ未熟だった、行き着く先はまだもっと、もっと遠くだ。
「って、あ"ぁあ!」
ポイ、と東雲の身体が投げ出される。床とぶつかった身体を痛めながらなんとか起き上がると、その後ろで男が軽々と着地した。
「いってえ……」
「君、よく今まで捕まらなかったな……」
「うるせえな!今日はたまたま不調なんだよ!って何処だよ此処!」
「地下だ。こっちから行けば本命の前を通って、そのまま地上に抜けられる」
「……本命だ?」
「自動チェス人形。盗みに来たんだろ? 君が持ってるそれ、ダミーだから捨てていいよ」
「…………なんとなくそんな気はしてたんだよ、あまりに手応えねえから、ちくしょう」
進む男に続いて歩く。撃たれた足の調子が良くない。なんとか歩くことはできるが、走るとなると相当の気力を使うことになるだろう。しかし東雲は今度こそ逃げられると確信していた。目の前の男がやってのけた流れるような一連の動きに、確かな技術を見たからだ。
「……名前は?」
「内緒。君は?」
「それ、ずるいだろ」
「確かにね」
感動した。今まで他の怪盗との接触は殆どなかったが、それでもゼロではない。しかし彼らの殆どは東雲が考えるような怪盗とは程遠かった。東雲 宵一の思う、「エンターテイメント性」には欠けていたのである。
だがこの男はどうだろう。あのタイミングで現れて東雲を助け、スポットライトに照らされ、無駄のない動きで敵を牽制し此処まで来た。ほんの数分だが、ほんの数分だからこそわかる。彼こそ東雲が求めていたエンターテイメント性を持つ怪盗だ、と。
「……中学生?」
「高校生だ馬鹿野郎」
「それは失礼。って、それは言ってもいいことなのか?」
「…………同業者は売らないのが鉄則だろ」
「間違いないな。俺は絶対そんなことしないけど…まあ気を付けろ。この世界にも色んな奴がいるからなあ」
「長いのか?」
「いんや。……そうでもない」
老人と彼の会話を思い出す。男は確かに木野宮という名を口にしていた。木野宮という男は、界隈での有名人だ。幾多の怪盗を捕まえた名探偵、なんて騒がれている現代一番の有名人とも言えよう。何故今そんな男の名前が出てきたのか、東雲の考えを見抜くかのように男は答えた。
「この屋敷は怪盗を捕まえる為に作られた。何があのおじいさんをそんなに突き動かしてるのかは、知らないが。つい最近完成したばかりだけどね。あの警備員も正規の警備会社からの派遣じゃないよ。全員じいさんに金で雇われたならず者ってとこかな」
「………………」
「そんでもってそれに木野宮探偵が協力してる。いやあ、流石に銃なんて持たせて殺そうとしてるとは思わなかっただろうが。俺も駆け付けてビックリ」
「まんまとニュースに誘き出された怪盗を端から捕まえてんのか…クソ」
「そ。でも人形は本当にあるよ、ほら」
男が指をさす。地下をどれだけ歩いたのか、気が付けばそこには檻にも似た空間が広がっていた。格子の向こうに、チェス盤を眺める人形が座っている。相変わらず無機質なそれを見て、東雲は溜息を吐いた。
「道具を使えばあれくらいの格子、すぐに壊せるだろう」
「…………いや」
男が振り返る。
「やめておく。此処まで来れたのはアンタの力だ。俺一人じゃ到底辿り着けなかった。…そんなもん盗んで持って帰っても、しゃあないだろ」
「……そっか」
何処か嬉しそうに、彼は笑った。
東雲はまた前を向いた男から一度目を逸らして、またその背を追いかける。
そこから一言も交わすことなく、二人は地上へ辿り着いた。比較的東雲の家に近い空き地だ。こんなところへ繋がっていたなんて、と驚く東雲に男は言った。
「凄いと思うよ、純粋に。その歳でその技術……これからが恐いな」
「同業者なのに恐いなんてあるかよ」
「……それもそうだな。病院まで送ろうか?」
「いや、いい。一人で行ける。……ありがとな」
脇腹を抑えながら、東雲が歩き出す。
「もう会わないことを願うよ」
そんな、男の呟きと己の高揚を、夜に残して。



「……うーん、言いづらいんだけど」
「んだよ、早く言えコラ」
「怒りっぽいなあー!もう!折角治療してあげたのに!」
頬を膨らませながら怒る女に、東雲ははいはいと適当に相槌を打った。彼女は現役大学生にして闇医者を務める誰かなのだが、それはまた別のお話。
「……正直これから走ったりするのはあんまり良くないかな。怪盗引退…とか…待って待って提案だから!そんな人を殺しそうな目で見ないで!」
「くそ、掠っただけなのにこれかよ。ついてねえな」
「君は一人で頑張りがちだからなあ。もっと何か、うーん…走行補助アイテムを作るとか……」
「んなもん作るのにどんだけ金かかると思ってんだ」
「わかってるよ!それか……まあ、続けるなら何かいい方法は考えなきゃいけないと思っといて欲しいかな。あんまり激しい動きはしないこと」
いい方法ってなんだよ、と東雲が舌打ちする。女は呆れたように溜息を吐きながらカルテを机に置いた。
「相方を作るとか?まあ君は協調性がなさそうだから難しそうだけど」
「なんだと」
「すぐ怒らないでよー!」
「……もういい。ありがとな。帰る」
「気を付けてね!ちゃんと安静にするんだよ!」
彼女の心配を後にして、東雲は帰路を急いだ。
初めて感じた殺意に対する恐怖と、求めていたものに出会えた高揚感。こんなところで辞められるわけがないという、強い意志。
にもかかわらず制限のかかった脚と、未来への葛藤。
思い返して東雲は、やはり溜息を吐いた。女の言う通り、何か考えなければいけない。
自分を助けるような、自分の代わりになるような、自分に必要な何かが――――……
「……自動怪盗人形でも作るかあ?」
そんな間抜けな呟きをもってして、この事件は幕を閉じる。
彼が何を見つけたのか、それもまた、別のお話。


_


「……結局銃刀法違反その他諸々がバレて老人は逮捕……ね。木野宮さんも厄介な男に引っかかったもんだな」
独り言のように呟きながら、宮山 紅葉はファイルを閉じた。書斎にある本の中には、木野宮 きのみの父親に当たる男の担当した事件のファイリングなどがある。その数いざ知れず。暇になると書斎で読む本を探す宮山は、たまたま手に取ったファイルを読み終えて、それを棚に戻した。
一方、子供の頃読んでいたらしい絵本を見つけてはしゃいでいた木野宮 きのみは既に絵本を読み終え、退屈そうに椅子を漕いでいた。一連の流れを宮山の音読で聴き終えた彼女は、何処か冷めた目をしている。
「そんなの信じないほうがいいよ」
木野宮が言った。宮山はその意味もわからず、置きっぱなしの絵本を元の場所に戻す。
その背を見ながら、木野宮は確かに呟いた。宮山に聞かせるつもりもなく、ただ何処かに向かって。
「お父さんは、嘘つきだから」




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