猫猫事件帖

自動チェス人形事件 追憶プロローグ

「ほんとムカつく」
「小一時間くらい前から、それしか言ってないけど」
苦笑いを見せる男は、ネクタイを緩めながら目の前に座る女が持つグラスの中身が既にないことを確認した。
水曜日。なんともないような曜日に見えて、目の前の女…水守綾にとってはラッキーデイである。
なんせ水曜日は、行きつけのバーのレディースデイだ。女性はドリンクが全品半額だなんて、なんとも景気のいい店だと思う。
スーツ姿の男、壱川遵は自分が持っているグラスを傾けては頬杖をついた。先程までいた現場のことを思い出す。昼間、急に突き付けられた予告状が指し示した時間は今日の二十一時。町内にある美術館で怪盗は季節外れの雪を降らし、そして飾られていた絵を見事盗んで見せた。
準備が遅かった、と思う。警戒に当たる人数も少なかった。最近噂の怪盗が出没するというのに、警視庁のやる気のなさを感じざるをえない一夜だった…という意味では、壱川もまた腹を立てている。だが、終わったことに文句を言っても仕方がない。これから先どうするか、それだけが考えるべき一点だ。
「東雲君だっけ。やるねえ、流石は巷で噂の怪盗」
「褒めてどーすんのよ!アンタ、ほんとは捕まえる気ないんじゃないの?」
「まあ、あるかって言われたら難しいところだな。俺の目的、前に話さなかった?」
ウイスキーのおかわりを頼もうとした水守のグラスに大きな手で蓋をする。しかし水守はムッとしてそれを払い除け、結局注文を通してしまった。
「……怪盗の秩序がなんたらって奴? わかんないわよそんなの、私怪盗じゃないもの」
「だよなあ……まあ、綾ちゃんでいうと探偵の秩序……ってそんなの気にしなさそうだけど」
「綾ちゃんって呼ぶな。探偵に秩序があることも今知ったんだけど? どうせ無能探偵だし、張りぼてだし?」
「そう拗ねるなって」
壱川がまた苦笑いをする。それが気に食わないとでもいうように、水守は壱川から視線を逸らして運ばれてきたグラスを手に取った。
「まあ、俺にも思うところが色々あってさ」
「そんなの一言も聞いたことないけど」
「そうだったっけ」
「そうよ」
「そっか」
あはは、とはぐらかすような笑い声。それを聞いて更に不機嫌になった顔を見て、壱川は思う。
話すべき時はいつか来る。でも今じゃない。
元より利害の一致で結成したコンビだ。コンビと言っていいのかも怪しい。
怪盗の秩序を乱す者を捕らえる為、壱川は刑事になった。そして刑事として目立たない為に、怪盗を捕まえる代理が必要だったのだ。怪盗ばかり狙っていては、いつかきっと顔が割れる。その時、刑事という身分を裏切りと捉えられ制裁を受ける……なんてこともあり得るわけなのだから。覚悟の上ではあるが、しかしこの活動を長く続ける為にはやはり必要なものだった。そこで捕まえたのが水守である。壱川が独自に調べた人間の中で、より使いやすそうな、能力も低くはなく、何よりも利害関係というものを割り切れる人間。その中の一人であった水守――当時は就職活動中だった――に馬鹿らしい利害関係を提示してみた。なんと彼女は数秒顎に手を当てて考えたかと思うと、あっさり「いいけど」と言い放った。壱川の方が驚いていたと思う。しかしその思い切りの良さが何よりも魅力に思え、今は彼女とこうして二人で行動している。
壱川の目的は一つ。怪盗の秩序を守ること。
水守の目的は一つ。より賢く稼ぐこと。
たったそれだけの関係だった。しかし、つい先日の事件で水守は初めて壱川に詮索するような発言をした。木野宮という、小さな探偵と壱川の関係を問い詰めるような内容だった。
この関係も、進展すべき時なのかもしれない。
壱川は思う。生半可な覚悟では、これから待ち受けているであろう局面を乗り切ることはできないと。そして利害関係なんてものだけでは、この先危ういことになるかもしれないとも。
あの事件の後、一度はコンビの解消も考えた。解消しても彼女は十分に名が知れているから、その気になれば仕事には困らないだろう。だが、本当にそれでいいのだろうかと思い始めた。それは自分に足りないものを彼女が補うという意味でもあり、彼女が納得しないだろうという諦めでもあり、そして――――
「ちょっと、聞いてる?」
「ん……何?」
「結局あのチビとは何なの?天球儀の時、後で話すとかなんとか言って私のこと病院に突っ込んだでしょ」
「嗚呼……それもまだ話してなかったっけ」
「いい加減怒ってもいい?」
「聞かなくてもいつも怒ってるじゃない」
「そうね、そうだった。今も怒ってる」
あのチビ、とは東雲宵一のことである。結局あの事件は東雲と壱川のことであったのに、水守は理不尽に巻き込まれたに過ぎない。
それは間違いなく、壱川のせいであるという自覚があった。
壱川が彼女を選んでしまったせいである。
本人はどうとも思っていないらしいが、正直心情は穏やかではない。この先更に危険なことが待っているかもしれないという、不安も含めて。
「……そうだな、話そうか。話すよ。君も知っておくべきだ」
それは、壱川がまだ刑事になるほんの少し前の話。
忘れることのない、自分の過ちの話。
「酷い雨が続く時期だった。自動でチェスをする人形っていうのが、話題になったんだ」
思い出しながら、壱川は窓の外を見る。丁度降り始めた夜の雨に、溜息が出そうになった。
「誰もが目を付けていた。勿論、俺も。そして東雲君も―――――」

これは、彼らしか知らない過去の話。




猫猫事件帖:自動チェス人形事件 追憶



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